Wednesday, September 06, 2017

髙實理事長への追悼の言葉:園田尚弘(岡まさはる記念長崎平和資料館理事長)Remembering Takazane Yasunori: Sonoda Naohiro, Director of Oka Masaru Memorial Nagasaki Peace Museum

今年4月7日に亡くなった「岡まさはる記念長崎平和資料館」高實康稔理事長にかわり、新理事長となった園田尚弘さんによる高實さんへの追悼文をここに紹介します。資料館のニュースレター「西坂だより」第86号(2017年7月1日)に掲載されました。末尾の関連投稿とあわせてお読みください。

2013年8月9日、長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会にて話す高實康稔氏。


髙實理事長への追悼の言葉

2017年5月10日 

岡まさはる記念長崎平和資料館理事長
園田尚弘

あなた方が私を探す時には、あなた方の心の中に私を探してください
そこに私が一つの場所を見つけたならば、私はいつもあなた方のもとにいるでしょう。
         アントワーヌ・ド・サン=テクジュペリ

 私たちの敬愛する友人、岡まさはる記念長崎平和資料館(以下では平和資料館と略記)理事長の髙實康稔さんが亡くなりました。
2017年4月7日、心不全のため77年の生涯を終えました。死に顔は穏やかで、微笑が浮かんでいるようであったそうです。
 2016年11月髙實さんは肺炎ということで入院しました。その後退院、入院を繰り返しながら、療養に努めていましたが、17年4月初めに入院した後、意識が失われ、その後意識を取り戻すことなく、他界しました。
 葬儀は家族葬で行われました。その後髙實さんが関わっていた市民運動の友人たちの呼びかけで「髙實康稔さんとのお別れの会」が計画され、5月7日に長崎県総合福祉センターで行われました。しめやかな雰囲気のなかで、しかも盛大に催されました。

* * * * * *
      
 髙實理事長は若い時からさまざまの社会活動や平和運動にかかわっていました。それゆえ多くの人は理事長の一部しかご存じないと思われます。そこで限られた視点からではありますが、簡単にその活動の一端を紹介させていただきます。

長崎在日朝鮮人の人権を守る会での活動
 髙實さんは1969年長崎大学教養部にフランス語担当教員として赴任しました。長崎大学のなかでも大学生協の理事長を務めました。
1971年から1972年のフランス留学から帰国した後、1976年から「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」との関わりを活発にし、大村収容所などにでかけ、収容された韓国人などの救援活動を行いました。1979年より長崎市議で「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」代表であった岡正治牧師等とともに精力的に被爆朝鮮人の実態調査に乗り出しました。その成果は『原爆と朝鮮人第1~7集』、『朝鮮人被爆者』(社会評論社1989年)などとして出版されました。朝鮮人被爆者の掘り起こしは死去するまで続けられていました。1979年には「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」が「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の主導で爆心地公園に設置されました。追悼碑の前で毎年8月9日早朝に行われる長崎原爆朝鮮人被爆者追悼集会を髙實さんはとても大切に考え、毎年、心をこめて書かれた格調高いメッセージを発表してきました。

教育通信・言論の自由を求める会での活動
 教育の面でも活動しました。学級通信、通知表問題を契機に「長崎の教育通信」の発行に関わり、後には代表になり、鋭い批評精神に富んだ巻頭言をたくさん書きました。教育のかかわりでは学校に居場所を感じられない生徒たちのための空間「リベルテ」の設立につながりました。
 忘れることができない活動は、故本島等市長が天皇に戦争責任があると長崎市議会で発言したことを擁護する活動でした。市長発言は右翼勢力の反発を呼び、右翼の街宣車が市中を走り回る状態になりましたが、平和活動家として髙實さんが終生尊敬していた岩松繁俊さんたちとともに市長発言を擁護しました。後に市長銃撃事件に際しても積極的に活動、銃撃を批判し、「言論の自由を求める長崎市民の会」の名のもとに一千人集会とデモを実現しました。

在外被爆者支援連絡会での活動
 韓国人被爆者の訴訟支援活動も忘れることができません。在外被爆者の支援活動でリーダー的役割を果たしてきた平野伸人さんらとともに、金順吉裁判、李康寧裁判、等を支援し、日本政府の被爆行政の差別性を批判してきました。在外被爆者に対する不当な差別をなくしていったのは何人もの在外被爆者の裁判闘争によるものだったと、髙實さんは繰り返し強調していました。「在外被爆者支援連絡会」の共同代表を努めていました。亡くなる数か月前まで、被爆者手帳の交付を求めながら、証人がいないということで交付を拒否されていた三人の韓国人被爆者(金成洙さん、裴漢燮さん、李寛模さん)のことを幾度も語り、気にかけていました。病気がよくなったら、支援活動にとりかかろうと考えていたことでしょう。
 髙實さんは自分の周りの韓国、朝鮮人被爆者のひとりひとりの生活の世話も親身になって手助けしました。アパートの保証人になったり、その子どもさんとの付き合いも欠かすことがありませんでした。

中国人強制連行裁判関係での活動
 強制連行された中国人たちの裁判支援活動も忘れることができません。アジア太平洋戦争末期に日本政府は労働力不足を補うために、約4万人の中国人を強制連行して、国内の危険な労働現場で働かせました。髙實さんたちは中国に何度も足を運び、とくに三菱の炭鉱で強制労働に従事させられた元労働者の老人たちを助けて、長崎で裁判を闘う手助けをしました。「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」の共同代表でした。これらの活動は2016年の三菱マテリアルとの和解につながったと評価されてもよいと思われます。平和公園の一角には強制連行され、浦上刑務所に収容されていて被爆死した中国人犠牲者を追悼する碑が建てられています。これの維持管理をになう「浦上刑務支所中国人原爆犠牲者追悼碑維持管理委員会」の共同代表でもありました。
 日本の侵略戦争による中国人犠牲者の数は数千万人に上りますが、中国各地にはこの日本軍の蛮行を記憶しておくための記念館があります。髙實さんが中心となって、平和資料館はこれらのいくつかの施設と友好提携の関係を結んでいます。それは南京の「南京大虐殺記念館」、上海の「慰安婦」資料館、ハルピンの「七三一罪証陳列館」です。
 南京からは毎年、大虐殺を経験した生存者たちを証言のために長崎に招く活動を続けてきましたが、髙實さんは一人一人の老いた幸存者を手厚く遇し、証言者たちが気後れしないように配慮していました。自分でも毎年のように南京を訪問し、日本軍の起こした虐殺現場のフィールドワークに参加していました。

「慰安婦」問題に関して
 現在、日韓政府の間では、2015年末の「慰安婦」問題に関する合意についてもめていますが、この問題に関しては一貫して日本政府の態度を批判してきました。
 この問題も資料館が取り組まなければ問題として、髙實さんは率先して韓国に赴き、挺身隊問題対策協議会を事務所に訪ね、代表であった尹貞玉さんを長崎に招き、講演会を組織し、長崎市民に広く問題を知らせました。アジア女性基金の立場にも一貫して批判的でした。2015年末に発表された日韓合意に対しても、当事者の意見を無視した政府間の合意だとして、一貫して反対していました。

*

 以上主として社会的活動に焦点をしぼって述べてきましたが、次には学者、教育者としての髙實さんの学問上の仕事を紹介しておきます。
 私は教育者としての髙實さんを高く評価するものの一人です。篤実で熱心な講義のスタイルは、若い学生に対して時間を惜しむことなく、アジアの地における日本の加害の歴史を教える態度にもそのままつながっていました。
 髙實さんは2005年に長崎大学を定年退職しましたが、その間、教養部、環境科学部でフランス語、異文化交流論などの講義を担当しました。環境科学部では評議委員にも選出されました。
 専門研究としてはフランス17世紀のモラリスト文学(とくにラ・ラシューフコー)、フランス・レジスタンス文学(とくにサン=テクジュペリ)、コロニアリズム、ポストコロニアリズム研究(とくに近代日本)で大きな業績を上げました。
 翻訳に『世界のひとへ』(共訳)、リンデン伯著『日本の思い出』などがあります。『世界のひとへ』は朝鮮人被爆者の存在を世界に紹介したもので、また『日本の思い出』は、その訳文の流暢さで,識者に高く評価されました。
 2006年にはフランス語教育、フランス文学研究、さらに朝鮮人被爆者の実態調査が高く評価され、フランス政府より、パルム・アカデミック勲章(教育功労賞)が授与されました。

     * * * * * *

 学術上の業績に次いで、この勲章の件で、思い出したことを記して次にはわたしの目に映った髙實さんの人柄の一端を紹介させていただきます。
 日本政府が勲章をくれるといっても、髙實さんが拒絶したであろうことを私は確信しています。フランス政府が勲章を授与すると知らせてきたとき髙實さんは、考え込んでいました。大喜びで叙勲を喜ぶ人が多い中、髙實さんは自分の活動は勲章で表彰される性質のものではない、という思いがあったからでしょう。私にもどう思うかという問いがありました。謙虚な人柄でした。
 物静かな口調で話すのが常でしたが、平和活動への固い決意は、例えば次のようなきっぱりとしたことばとして表現されました。平和資料館は、2010年にドイツ政府が徴兵制度の中止を決定するまで、2011年まで毎年、兵役拒否をしたドイツの若者たちに代替の役務を提供していました。受け入れのための宿泊費、食事代、毎月の小遣いなど、諸費用は必ずしも安くはありませんでした。私がそのことを知らせたとき、髙實さんは、これらの青年を受け入れなければ、平和資料館を作った意味がない、と決然とした口調で受け入れを表明しました。
 他人を寛容に受け入れ、活動するひとたちの背中を押して、励ましてくれる人でした。平和を作り出していく活動を支えていくという決意と、模範的な人柄にたいする尊敬の念を抱く人たちは国内だけでなく、外国人にも多く、こんにち平和資料館は国際的にも名前を知られるようになりました。岡正治さんの構想を実現、発展させた功績に感謝の念をささげると同時に、私たちはその思いをともどもに引き継いでいきたいものです。
 

園田尚弘(そのだ・なおひろ)
長崎大学名誉教授、ドイツ文学、ドイツ社会思想。著書に『環境と文化』 (共著)などがある。平和資料館には1995年の開設以来参加。1944年生まれ。


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Tuesday, September 05, 2017

Urge the U.S. government to form a peace treaty with DPRK: Veterans For Peace ベテランズ・フォー・ピース総会で決議された声明:平和協定締結によって朝鮮戦争終結を求める

Here is Veterans For Peace Japan/Veterans For Peace ROCK(Ryukyu-Okinawa-Chapter-Kokusai)'s statement to urge the United States government to negotiate and reach a peace treaty with DPRK to end the Korean War. This is the resolution proposed to the Veterans for Peace August 32nd convention (Chicago, August 9-13) and passed without opposition. See below the bilingual version (English with Japanese translation), provided by Douglas Lummis, President of VFP-ROCK.

VFP-ROCK 会長、ダグラス・ラミス氏から提供された決議案の全文、英語版と日本語対訳版をここに紹介する。

元自衛官や市民でつくる「ベテランズ・フォー・ピース・ジャパン」(平和を求める元自衛官と市民の会、VFPJ)は9月4日東京で緊急記者会見を行いこの決議案を発表した。

沖縄タイムス記事参照。
対北朝鮮、外交解決求める 基地所在地の危険性指摘 米退役軍人らの平和団体
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/137871 

会見の様子はこの動画でも見られます。

<VFPJがVFP-ROCK(沖縄)と共同提案した決議案>

※総会では決議され、今後、会員の投票を得て正式なVFPの決議となる

Whereas, the people of the Democratic Peoples’ Republic of Korea (DPRK) have been under threat of nuclear attack for more than 60 years, by the only country ever actually to carry out such an attack, and

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、かつて実際に核攻撃を遂行したことのある唯一の国により、60年以上核攻撃の脅威の下にあり、

Whereas, after the 9/11 attacks, President George W. Bush designated Iraq, Iran, and the DPRK as the world’s “axis of evil” , and

9/11攻撃の後、ジョージW.ブッシュ大統領がイラク、イランおよび北朝鮮を世界の「悪の枢軸」と指定し、

Whereas, following this, the US, assured by the UN inspection team that Iraq had no weapons of mass destruction, invaded Iraq, destroying it as a viable country, and

その後、合衆国は、国連査察チームがイラクは大量破壊兵器を保有していないと断言したにもかかわらず、イラクに侵攻して、保有可能な国として同国を破壊し、

Whereas, the US Government then began discussing which country to invade next, including the DPRK among the candidates, and

さらに、合衆国政府は、候補の中に北朝鮮を含め、次にどの国に侵攻するかの議論を始め、

Whereas, only then did the DPRK announce that it had nuclear capability;

その時、北朝鮮は、初めて、同国が核能力を有していると発表し、

Whereas this strategy, called “nuclear deterrence”, while hateful, is used by all countries with nuclear capability, and

忌むべきことであるが、「核抑止」と呼ばれる戦略が核能力を有するすべての国によって採用されており、

Whereas the governments of the U.S. and the DPRK have recently escalated the threats of nuclear attacks against one another to an alarming level, and

合衆国政府と北朝鮮政府は、最近、互いに核攻撃を行うという威嚇を非常に危険なレベルにまでエスカレートさせ、

Whereas the DPRK, while using this strategy of nuclear deterrence, has also repeatedly stated its desire to negotiate a non-aggression pact with the US;

北朝鮮は、この核抑止戦略を採用しつつも、合衆国と不可侵条約について交渉する希望を繰返し表明しており、

Whereas we members of VFP-Japan and VFP-Ryukyu/Okinawa Chapter International (VFP-ROCK), living in regions where life would be obliterated in a nuclear war between the US and the DPRK, find this proposal eminently reasonable;

合衆国と北朝鮮間で核戦争が勃発すると生命に危険が及ぶ地域に住む、われわれVFPジャパンとVFP琉球/沖縄チャプター(VFP-ROCK)のメンバーは、本提案を大いに合理的なものであると認識し、

Whereas, US President Donald Trump has stated, regarding DPRK Chairman Kim Jong Un, “If it would be appropriate for me to meet with him, I would absolutely. I would be honored to do it”;

合衆国大統領ドナルド・トランプは、北朝鮮の金正恩委員長に関し、「もし私が彼に会うのが適切であれば、もちろん、そうすることは光栄である」と述べており、

Whereas, while we disagree with much that Trump and Kim say and do, still this could be one positive thing these maverick political figures could pull off;
トランプと金の言動の多くに我々は賛同しないが、それでもそれは独我的なこの二人の政治家が為しうる一つの前向きなことである。

Therefore, Be it Resolved that the “appropriate time” for this meeting is NOW, and we call on President Trump to meet with Chairman Kim, and negotiate a non-aggression agreement between the US and the DPRK.

よって、その会談の「適切な時宜」は「今」であることを決議して、われわれは、トランプ大統領に対し、金委員長と会談し、合衆国と北朝鮮間で不可侵条約について交渉するよう要請する。

Be it Further Resoled that Veterans For Peace calls on the U.S. government to negotiate in good faith with the DPRK and Republic of Korea to reach a peace treaty finally ending the Korean War.

ベテランズ・フォー・ピースは、合衆国政府が、北朝鮮と大韓民国と共に、朝鮮戦争の最終的な終結のため、平和条約の締結を誠実に交渉することを強く求める。

(以上)

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「北朝鮮」を悪魔のように言う日本の人たち、この歴史を知っていますか:ブルース・カミングス「朝鮮半島の血塗られた歴史」
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2017/05/bruce-cumings-murderous-history-of.html


Monday, September 04, 2017

効果は限定的な差し止め訴訟を行い「撤回」を行わない県政に疑問:高良沙哉評論(沖縄タイムスより)

『沖縄タイムス』8月31日版に掲載された、沖縄大学准教授の高良沙哉(たから・さちか)氏の評論は、辺野古新基地建設阻止のための重要な議論であると思いここに沖縄タイムスの転載許可を得て転載します。

9月9日追記:
この高良さんの記事は、沖縄タイムスの前日8月30日のTBS金平茂紀さんの「わじわじー通信」を受けたかのように登場した記事です。金平さんの記事と併せて読んでください。

沖縄めぐる多事争論を 混迷の今だからこそ必要
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/135439

沖縄タイムス社提供
注意:これはピースフィロソフィーセンターのブログ用に転載を許可されたものです。この投稿からこの記事の画像だけ取り出して使用することは禁じられています。この投稿の拡散はこの投稿のリンク
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2017/09/blog-post.html
を広めることにより行ってください。他のサイトやSNSでの転載など希望の場合は沖縄タイムスに必ず許可申請をしてください。(許可申請はこちら)

Tuesday, August 29, 2017

長崎の被爆者、谷口すみてるさん死去 Nagasaki A-bomb Survivor Taniguchi Sumiteru dies

長崎原爆の被爆者、谷口すみてるさんが亡くなったとの報せが入りました。よく知られる、真っ赤に焼けただれた背中の写真を名刺にも使って、核兵器の残酷さを世界に訴える仕事をしてきた方です。立命館大学とアメリカン大学の広島・長崎の旅でも、ほぼ毎年証言をしていただいていました。声の小さい方で、通訳も苦労したことを覚えています。思うに、背中と、胸から腹にかけていつでも開いてしまうような傷跡をかかえていたため、大きな声も出せなかったのではないかと思います。

2010年8月8日、アメリカン大学と立命館大学の学生に証言。



谷口さんにもらった証言原稿の写しをここに記します。追悼の意をこめて。

谷口稜曄
長崎県長崎市

私は1945年8月9日、当時16歳の時、長崎の爆心地から北方1.8キロの所を自転車で走っていて被爆しました。三千度、四千度ともいわれる、石や鉄をも溶かす熱線と、目には見えない放射線によって背後から焼かれ、次の瞬間建物を吹き飛ばし、鉄骨をも曲げる、秒速250メートル、300メートルの爆風によって、自転車もろとも4メートル近く飛ばされ、道路に叩きつけられました。

道路に伏せていても、暫くは地震のように揺れ、吹き飛ばされないように、道路にしがみついていたのです。顔をあげて見ると建物は吹き倒され、近くで遊んでいた子供たちが、挨のように飛ばされていたのです。私は、近くに大きな爆弾が落ちたと思い、このまま死んでしまうのではと、死の恐怖に襲われました。でも、私は此処で死ぬものか、死んではならないと、自分を励ましていたのです。暫くして、騒ぎがおさまったので起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっていました。背中に手をやってみると、ヌルヌルと焼けただれ、手に黒い物がベットリついてきました。

それまで乗っていた自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっていました。近くの家はつぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていました。吹き飛ばされた子供たちは、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で死んでいました。

女の人が、髪は抜け、目は見えないように顔が腫れふさがり、傷だらけで苦しみもだえていました。今でも、昨日のように忘れることはできません。苦しみ、助けを求めている人たちを見ながら、何もしてやれなかったことを、今でも悔やまれてなりません。

多くの被爆者は、黒焦げになり、水を求め死んでいきました。

私は夢遊病者のように歩いて、近くのトンネル工場にたどり着きました。台に腰を下ろし女の人に頼んで、手に下がっている皮膚を切り取って貰いました。そして、焼け残っていたシャツを切り裂いて、機械油で手のところだけ拭いてもらいました。

工場の人たちは、工場を目標に攻撃されたと思っていたのでしょう、また攻撃されるかわからないので、他の所に避難するように言われました。力をふりしぼって立ち上がろうとしましたが、立つことも歩くことも出来ません。元気な人に背負われて山の上に運ばれて、木の陰の草むらに、寝かされました。周りに居る人たちは、家族に伝えて欲しいと自分の名前と住所を言い、「水を、水を」と、水を求めながら死んでいきました。

夜になると方々が燃えていて明るいので、人の動きを見て、米軍の飛行機が機銃掃射して来ました。その流れ弾が私の横の岩に当たって、草むらに落ちました。地獄の苦しみの中にいる私たちに、米軍はなお、爆撃をしかけてくるのです。

夜中に雨がシトシト降り、木の葉から落ちるしずくをしゃぶって、一夜過ごしました。夜が明けてみると、私の周りはみんな死んで、生きている人は見当たりませんでした。そこで二晩過ごし、三日目の朝、救護隊の人達に救助され、27キロ離れた隣の市に送られました。病院は満員で収容できず、小学校に収容されました。

それから三日後(被爆して6日目)傷から血がしたたり出るようになり、それと共に痛みがジワジワと襲ってきました。一ヶ月以上治療らしき治療はなく、新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけでした。9月になって、爆風で窓が吹き飛ばされたままの長崎市内の小学校で、大学病院が治療をしているとのことで、送られました。そこで初めて医学的な治療を受けました。

まず輸血でした。でも、私の血管に輸血の血液が入っていかないのです。内臓が侵されていたのでしょう。貧血が激しくて、焼けた肉が腐り始めました。腐った物がドブドブと、体内から流れ、身体の下に溜まるのです。身体の下にはボロ布を敷き、それに体内から流れ出る汚物を溜めては、一日に何回も捨てなければなりませんでした。

その当時、火傷や怪我をした被爆者の身体に、蛆虫が湧いて、傷の肉を食べていました。私には一年過ぎてから、蛆虫が湧きました。

私は身動き一つできず、ましてや、座ることも横になることもできません。腹這いのままで、痛みと苦しみの中で殺してくれと叫んでいました。誰一人として、私が生きられると予想する人はいませんでした。医者や看護婦さんが、毎朝来ては、「今日も生きてる、今日も生きてる」とささやいておられました。家の方では、何時死んでも葬儀ができるよう準備していたそうです。私は死の地獄をさ迷い、滅び損ねて、生かされてきたのです。

身動き一つできなかったので、胸が床ずれで骨まで腐りました。いまでも、胸はえぐり取ったようになり、肋骨の間から、心臓が動いているのが見えます。

1年9ヶ月経って、ようやく動けるようになり、3年7ヶ月経って、全治しないまま病院を退院しました。その後も、入退院を繰り返し、1960年まで治療を続けてきました。

1982年頃から、ケロイドの所に腫瘍ができて手術を受けました。その後も医学的にも解明できない、石のような硬い物が出来て手術を繰り返しています。

皮膚が焼け、肉が焼けているため、人間が生きていくために一番大切な皮下細胞、皮下脂肪がないため、石のようなものができるのだそうです。

「平和」がよみがえって、半世紀が過ぎました。昨今の世相を見れば、過去の苦しみなど忘れ去られつつあります。だが、私はその忘却を恐れます。忘却が新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れます。

私は、かつて自分をその一コマに収めたカラーの原爆映画を見て、当時の苦痛と戦争に対する憎しみが、自分の身体の中によみがえり、広がって来るのを覚えます。

私はモルモットではありません。もちろん、見世物でもありません。でも、私の姿を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないで、もう一度みてほしい。私は奇跡的に生き延びることができましたが、いまなお、私たち被爆者の全身には、原爆の呪うべき爪跡があります。

私は、じっと見つめるあなたの目の厳しさ、温かさを信じたい。核兵器と人類は共存できない。私が歩んできたようなこんな苦しみは、もう私たちだけで沢山です。世界の人類は平和に豊かに生きてほしいのです。そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつくりましょう。人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません。

私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死んでいけません。

長崎を最後の被爆地とするため。

私を最後の被爆者とするため。

核兵器廃絶の声を全世界に。



Thursday, August 24, 2017

『ハクソー・リッジ』は「反戦平和」とは無縁の、米軍賛美映画だ:週刊金曜日より Mel Gibson's Hacksaw Ridge Is a U.S. Military Propaganda Film

8月18日号『週刊金曜日』に掲載されたブログ運営者の記事を、許可を得て転載します。(他のサイトへの転載は許可がないとできませんので、この記事の拡散はこのページのリンクを広めることでしてください)。



Saturday, August 12, 2017

宮古・石垣にミサイル基地はいらない! NO to missile bases on Miyako and Ishigaki islands!

8月12日、沖縄で辺野古新基地建設反対のための、45000人が参加(主催者発表)した集会会場で、宮古島から、石垣島から来た、自衛隊配備に反対する市民が配ったチラシを紹介します。会場では5千枚を配ったそうです。

この大会で発言した宮古島しまぐるみ会議共同代表の奥平一夫さん(元沖縄県議)は、宮古島や石垣島でも自衛隊の新基地建設が強行されようとしていることについて、「どうぞ皆さんも、南西諸島の自衛隊配備の問題に関心をもち、支援をお願いしたい」と訴えました。

もちろんこれは沖縄県民だけではなく、日本の市民全体への訴えなのです!






詳しくは元自衛官・軍事ジャーナリストの小西誠さんの
『メディアが報じない、先島ー南西諸島の自衛隊配備の実態』
を読んでください。

@PeacePhilosophy

Wednesday, July 05, 2017

7月7日、盧溝橋事件80周年を記憶する Remembering July 7, 1937 -- Marco Polo Bridge Incident and Japan's War Against China

7月7日。「七夕の日」であること以外には日本人の頭をスルーしてしまう日なのかもしれない。今年のその日は、日本の中国への侵略戦争が全面戦争かするきっかけとなった「盧溝橋事件」の80周年です。この日を記憶し、もう二度と戦争は行わないとの誓いを新たにするための「日中戦争開始80年 国会前市民集会」が7月7、8日に開催されます。主催は植松青児さんら「日中戦争80年市民フォーラム」です。以下ポスターを見てください。東京新聞にも報道されました。「レイバーネットTV第122号 : あなたは7・7を知っています?〜日中戦争80年を考える」も観てください。


「七夕」も元をただせば大陸から来たものです。豊かな文化を日本に与えた大陸を見下し牙をむいた日本。奪い、殺し、焼き尽くした。私たち日本人はアジア隣国に向き合う姿勢をいまだに誤っていないでしょうか?このブログに昨年の今ごろ「私にとっての中国 日本にとっての中国」を投稿してくれた長野県の有機農業家、小林はるよさんに、「7月7日」にむけて文を寄せてもらいました。小林さんが引用する、子どもたちが中国にいる日本兵に向けて書いた慰問文の例はショッキングなものであり、目をそむけたくなるような差別の言葉です。これが当時の日本人の姿勢を映し出した子どもの姿だったのだということを心に刻まなければいけません。そして、今現在も、多くの日本人がこの戦争の罪を学びもせずに当時と同じような侮蔑心や敵愾心を隣国の人たちに向けています。戦争に進む道を心の中から止めなければいけません。@PeacePhilosophy

日本にとっての中国 私にとっての中国(2)7月7日に寄せて

小林はるよ

 ハルピン近郊に実家のある中国人を家族(息子の伴侶)に持つ私にとっては、日本の毎日のマスコミ報道は読むのも聞くのもつらい。針の筵の上にいるようです。悪魔化という言葉がありますが、悪魔は日本の文化の中には存在しませんから、悪役化。中国が日本の報道の中で、不動にしてトップの悪役だからです。日本の首相が諸外国を歴訪する目的はつねに、「中国牽制」「中国封じ込め」。日本の反政府デモは何万人集まっても無視するのに、香港の反政府デモはカラー写真付き、大見出しで声援。中国内で種々起きる事故報道には「それ見たことか」と言わんばかりの熱がこもる。中国における「人権活動家」への「弾圧」報道は、怒りを込めて正義感いっぱい。その活動家は、アメリカ人の多くがすでにそう思っていないという「人権大国」アメリカに保護されて亡命というのだから笑ってしまいます。きわめつけは、いかに日本人が中国人を嫌いかという世論調査結果の報道。そんな調査をすること自体、不作法で非礼なことという意識はまるでない。

 歴史をふりかえれば、悪役はまさに逆です。日本では、日中開戦は7月7日の盧溝橋事件がきっかけとされることが多く、私も学校でそう習ったおぼろな記憶がありますが、そうされたことについては、開戦の時期を遅くみせるためという意図もあったのではないでしょうか。そもそも、日本軍はなぜ盧溝橋にいたのかという話なのですが、「事件」のずっと以前から、中国はヨーロッパの「列強」とその先兵になった日本に、領土を奪われ、軍を送り込まれ、疲弊しつつ、抵抗し戦い続けていたのです。悪役、加害者は日本のほうでした。マスコミの悪役報道がつらいのは、その悪意が私の家族に向けられている気がする恐ろしさのためばかりではありません。加害者が被害者を侮蔑したり嘲笑したりする、そのことがとても忌まわしく恥ずかしいのです。そして私は加害者側の一員として、そうした侮蔑や嘲笑を被害者側に知られたくない、知らせたくないのです。

 「戦時中」に子どもたちが日本軍兵士宛に書いた慰問文を調査する活動をしている方々がおられます。それらの原文は戦地に送られたのでしょうが、時報という地域発行の印刷物の中に、「戦意発揚」のために掲載されました。子どもたちの文が、破棄されずに残った理由の1つは、それがアメリカと戦う兵士宛でなく、そのほとんどが中国にいた兵士に宛てたものだったからでしょう。仮に「鬼畜米英をやっつけてください」と書いたものがあったとしたら、日本のことですから、アメリカに命じられなくても廃棄してしまっていたかもしれません。戦後にも、中国へ向けられたヘイトスピーチなど、廃棄する必要は、感じられなかったのです。

 日本人には、1945年の「敗戦」はアメリカへの降伏であり、アメリカとの戦争に「力負け」したためのものと思っている人が多いようです。じっさい、戦後にものごころついた私も、長いあいだそう思っていました。戦後の反戦論や反戦感情は、アメリカと開戦に至ったのは、「あれは、まずかった」判断ミス、避けるべきであったし、避けられたはずというニュアンスを帯びていた気がします。けれども、1945年の「敗戦」に至る日本の戦争は、時間的にもじっさいの戦場という意味においても、中国相手のものであったこと、真の敵が中国であったこと、真の目的が中国征服であったことを、子どもたちの慰問文が語っています。

 そのほとんどが中国にいた日本兵に宛てられた子どもたちの慰問文は、日本の中国侵略の時間の長さ、抵抗の激しさを示し、同時に子どもたちの中国と中国人に対する敵対意識と侮蔑感情を正直に語っています。侵略する側は、侵略を合理化するために、侵略される側の非を捏造し、侮辱するのです。そのうちの3例だけここに記します。
 「支那の国は、自分の土地で戦ひをされて首府までとられてしまっても、まだわが国にあやまらなず、がまんづよいといえばそうだが、言ひ替えれば本当に馬鹿なのだと思ひます。」(昭和13年) 
 「大きくなったら、ひこうきにのるへいたいになって、しなの兵隊がうんといるところにいってばくだんをおとして、おくにのためにはたらきます。」(昭和14年)
 「兵隊さんにあのにくらしいチャンコロの兵隊を負かしてください。」(昭和14年)

-上田小県近現代史研究会ブックレット No.23 
「『時報』にみる子どもたちと戦争」(桂木惠 著、2015年)より

 子どもが、ここまで残酷な、今で言うヘイトスピーチを書くことについて、子どもが進んで、自発的に書くだろうか、強制されたのではないかと思う人もいるようです。けれども子どもは明白にであれ、暗黙のうちにであれ、こう書けば大人に褒められる、こう書くことを大人に求められていると感じて書いたにすぎません。子どもは、身近な大人、少し大きくなれば共同体の中の大人の価値観や判断基準を理解し、それらとの同一化を志向しながら成長するのです。子どもは大人の鏡、ある年齢以下の子どもの全ての言動についての責任は、大人にあります。ですから、慰問文に表れた中国と中国人への敵愾心、蔑視等々は、私も含めた日本社会の大人の成員全体のものです。

 今日、中国悪役化は、敗戦以前のように、兵士への慰問文に書かれたように、悪意剥き出しにではなく、中立的、客観的な、より洗練された装いをとって、さりげなく進行し、浸透しています。それにしても日本はいつまで、隣国を敵視したり、蔑視したり、無視したりを続けるつもりでしょう。そんなことに、いったいどんな「得」があるのでしょう。

こばやし・はるよ
岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

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