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Saturday, December 27, 2025

新刊 『私の戦後責任 花岡「和解」を問い直す』(石田隆至・張宏波 編)の紹介 

 「花岡『和解』と私たち」のFacebook より新刊案内です。

今のところ、ネットで買えるサイトはここです。

私の戦後責任:花岡「和解」を問い直すhttps://hashigosha.square.site/product/-/TJPXWJIYODO6FILT6QNBCXG6?cs=true&cst=custom

とても重要な本と思います。「私の」という言葉に注目しています。戦後責任に向き合う者にとって、「花岡”和解”」は誰もが避けて通れない問題なのではないかと思います。この本を通して、私は、日本の戦争責任、植民地責任に向き合おうとしてきた「自分」を振り返ることができたような気がしました。やられた側に立って考えたいといつも思っていながらも、権威ある人の声に引きずられてしまったり、大きな流れに吞み込まれて自分を失ってしまったりしたこともあったのではないかと。この本を編著した石田隆至さん、張宏波さん、他の著者の方々の、人間の尊厳へのコミットメントに心から敬意を表します。この問題を理解し、判断するために必要なファクトが網羅されている本と思います。詳細は以下をご覧ください。


【書籍刊行のご報告】

石田隆至・張宏波 編『私の戦後責任 花岡「和解」を問い直す』日本東方出版社、2025年12月15日刊行。
この度、〈花岡「和解」と私たち〉を運営する若手メンバーも編集と執筆を担当した、花岡「和解」に関する本格的な論集が刊行されました!Amazonでの販売は年明けからになりますが、当ページにて書影と目次を公開いたします。
【追記】Amazonとは別に、こちらの販売サイトからもご購入いただけます。https://hashigosha.square.site/product/-/TJPXWJIYODO6FILT6QNBCXG6?cs=true&cst=custom
書籍内容
 「画期的」と評価されてきた鹿島花岡「和解」は、弁護団や支援者が原告被害者を出し抜いて成立していた!
 1995年6月に戦後初めて行われた中国人強制連行・強制労働をめぐる訴訟は、2000年11月に法廷「和解」が成立した。弁護団や日本のメディアは加害企業・鹿島建設が5億円を拠出したと、こぞって賛美した。ところが、直後から、原告団長の耿諄ら被害者が次々と「和解」の受け入れを拒否し始める。「和解」の内実は、被害者の根本要求である加害事実の認定まで否定するものだったからだ。鹿島による419人の虐殺や虐待に法的責任が伴わないことを、被害者自身が認められるはずがない。被害者らは、そのような「和解」となることを弁護団から事前に説明されていなかったのである。
 被害者の主体性を置き去りにし、弁護団主導で「和解」を強行するのは、「被害者中心主義」を掲げる現在の戦後補償運動の理念と逆行する。にもかかわらず、鹿島花岡「和解」は、戦後和解の「モデルケース」と賞賛され続けてきた。25年後の今も正当化や隠蔽の動きを許してきた経過を、自らの戦後責任として引き受けようと若い世代も結集した。花岡「和解」の知られざる実態に迫った初めての本格的書籍の刊行!
目次
刊行にあたって
第Ⅰ部  繰り返される被害者不在の戦後和解
 第1章 花岡「和解」の経緯をたどる  金井良樹
  第1節 強制連行から「和解」成立まで
  第2節 「和解」はいかに正当化されたか
 第2章 不可解な「和解」と中国側の動向  石田隆至・張宏波
 第3章 再生産される鹿島花岡「和解」:『世界』による検証なき検証  石田隆至
 第4章 「歴史的責任」の捏造と被害者置き去りの謝罪:安野・信濃川・三菱マテリアル「和解」   金井良樹・石田隆至・張宏波
資料編
第Ⅱ部 いま花岡「和解」に向きあう
 第5章 映画『老華僑は黙らない』が示す花岡「和解」の現在地  山田泰史
 第6章 法的責任なき「和解」への欲望  張宏波    
 第7章 アジア女性基金にみる「日本型戦後処理」:金銭拠出による法的責任の回避  李青凌  
 第8章 花岡現地から想いを巡らす過去と現在  高橋正吉
 第9章 継続する植民地主義の暴力:花岡「和解」を事例に  坪田典子
 第10章 壊されてきた原則論:「現実主義」という名の「転向」   金井良樹
あとがき

Saturday, January 03, 2026

「一つの中国」を受け入れない戦後日本:石田隆至 Japan's doublespeak on one-China principle: Ishida Ryuji

 2026年が始まった。トランプ大統領は、3日、ベネズエラ本土への攻撃を開始し、マドゥロ大統領夫妻を拘束、米国へ移送したと表明した。トランプ政権は昨年から着々と進めていた対ベネズエラ侵略戦争、政権転覆計画を実行に移したのである。ベネズエラは、米国が敵視する中国、ロシア、イラン、キューバと友好関係にある。「グローバル・サウス」の一国である。米国は敵国と想定した国々だけではなく、それら敵国と良好関係を結んだ国に対し制裁を加える。この戦争は、ベネズエラが世界最大の埋蔵量を誇る石油を米国が我が物にしようという強欲だけではなく、西側の覇権維持のための、「グローバル・サウス」に対する戦争なのだ。それは、地球の反対側の日本の極右高市政権が米国と共に台湾への影響力を高めることによってっ中国に威嚇と圧力をかけている現状と通じる。米国および西側諸国は覇権を維持するために世界戦争も辞さない勢いを見せている、危険な新年の幕開けである。

このサイトにも何度か登場した上海交通大学の石田隆至副研究員が12月29日に中国の英語媒体 China Daily に発表した署名記事「Japan's doublespeak on one-China principle」を日本語化し、加筆した記事を当サイトに提供してくれました。(文中のハイパーリンクはサイト運営者によるものです)ここに紹介します。

China Daily サイト

「一つの中国」を受け入れない戦後日本

 高市発言の危険性を考えるためには、彼女の発言が何を破壊しようとしているのか、何に働きかけようとしているのかを、まず正確に認識する必要がある。

 高市首相は、仮に「台湾有事」なるものが起きた場合、それは日本の「存立危機事態」になり、集団的自衛権を発動して武力を行使する対象になりうると国会で答弁した。“大陸と台湾”を一つのカテゴリとして捉えるのではなく、“台湾と日本”を連続線上で捉えている。中国の人々から見ればもちろんのこと、中華人民共和国を唯一の合法的代表とする1971年10月の国連決議から見ても、明らかに逸脱した判断が為されたことは明白である。しかし、高市首相は発言後も、“従来の政府見解を越え出ていない”と主張し、正面から取り合おうとしていない。これを日本政府による拙い言い逃れと捉えることもできる。

 ただ、歴史を振り返れば、別の見方も成り立つ。信じがたいことだが、自民党の議員の一定数は、高市発言は従来の見解から逸脱していないと本心から考えているのだ。彼らは、中華人民共和国政府と外交関係を持つことと、台湾を「国家」として扱うことは両立しうるし、そうすべきだと考えている。今回の高市発言は、以下で確認する通り、保守強硬派の政治家が戦後一貫して有するこうした立場の延長線上にある。

 彼らの頑迷な保守主義は、侵略戦争や植民地支配と決別して国際平和を追求する戦後国際秩序より、敗戦以前の日本を正当化し、戦後もそれと共存することを優先する。だからこそ、ポツダム宣言の受諾さえ軽視し、そこに規定された台湾の中国返還さえ“存在しない”かのように扱う。今回の発言は、新しい問題が生じたわけではなく、高市首相やその支持層である右翼政治家が、普段は「慎重」という名のオブラートに包んでいる保守反動性を露わにしただけなのである。

 高市発言の核心は、「一つの中国」という立場への距離感にある。「一つの中国」を受け入れているなら、仮に大陸と台湾の間で武力が行使される事態が起きたとしても、それはどこまでも国内問題であり、せいぜい国共内戦の再開でしかない。そこに日本やアメリカが武力介入すれば、単なる侵略行為となる。そもそも、中国は平和統一を原則としており、武力行使の可能性があるのは、第三国が台湾に介入した場合だけである。台湾に米日が武力介入すればそれは端的な侵略であり、中国が応戦しても正当防衛となる。つまり、「一つの中国」を受け入れている限り、高市発言が生まれる余地はそもそも存在しないのである。

 だとすれば、高市発言は「一つの中国」を踏まえていないことになる。「一つの中国」を受け入れようとせず、曖昧にしたい政治家にとって拠り所となるのが、1972年9月の日中共同声明である。その第三項で、台湾の地位が規定されている。

 「三 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」

 日本政府は、台湾が中国の領土であることを「承認する」とは言わず、「十分理解し、尊重」するとしている。これは、承認しない可能性を残した文言といえる。カイロ宣言やポツダム宣言で「盗取した」台湾の中国返還が明確に規定されているにもかかわらず、なぜこのような曖昧な表現、もっといえば、日本側にとって都合の良い解釈が可能になりうる表現に落ち着いたのだろうか。

 当時の外務省条約局で条約課長をしていた栗山尚一が、日中共同声明の条項を「解説」する文書を残している。そこでは、台湾の扱いについては、「わが国にも崩すことができない基本的立場があり、中国側の原則的立場をそのまま認めることは到底できない事情」があったとしている(時事通信社政治部編『日中復交:ドキュメント』時事通信社、1972年)。

 「基本的立場」あるいは「事情」とは何か。それは、1952年に発効されたサンフランシスコ講和条約の存在である。その第二条(b)項では、日本による台湾の放棄が規定されているが、どこに帰属するかは記されていない。したがって、日中共同声明のなかで、台湾は中国に帰属するという中国の主張を受け入れてしまうと、「国際法上なんらの権限がないにもかかわらず」、独自の認定として台湾の地位を規定することになり、「サンフランシスコ条約の効果を自ら否認することにもつながる」としている。

 周知のとおり、サンフランシスコ講和会議に至る過程では、全面講和と片面講和をめぐる攻防が続いた。同講和会議に招かれなかった中国にとって、同条約は何ら拘束力を持たない。むしろ、同講和会議は冷戦政治の産物であり、天皇制ファシズムの最大の被害国を排除した不当で不法の受け入れ難い会議だと中国は位置付けている。中国がそのように捉えていることを日本政府は当然認識していた。

 にもかかわらず、日中共同声明を結ぶにあたり、日本政府はサンフランシスコ講和条約(サ条約)をより上位にある国際法であるかのように位置付けている。サ条約が存在するがゆえに法的には台湾の帰属を中国とする主張は受け入れ難いと最大限にゴネた上で、政治的判断としては「台湾が中国の領土となることについてなんらの異議はなく、台湾独立を支援する意図も全くない」と述べるに至った。

 法的に認めがたい云々は、自身を優位に置き、譲歩を引き出すための口実でしかない。それでも、サ条約に反するように見える規定を日中共同声明に盛り込むのはさも問題であるかのように見せようと躍起だった。サ条約も日中共同声明も国家間の取り決めである以上、国際法上の地位は同等である。前者を優位とみなすのは日本の主観的判断に過ぎないが、そう見えないようにするために、ゴネることが不可欠だったのである。むしろ、日中間の戦後処理規定として、中国が関与していないサ条約を優位に置く方が無理がある。

 日中共同声明よりサ条約を優先すべき「事情」とは、国際法ではなく、あくまで政治的欲望からであったことは、共同声明締結直後の自民党両院議員総会(9月30日)での報告に表れている。

 保守強硬派の自民党政治家は相次いで、日中共同声明を受け入れがたいものと発言した。その理由は、いずれも台湾を放棄することになった帰結にある。「遺憾ながら、全面的にご賛同するには、あまりにも犠牲が大きい」「自民党議員総員をあげて歓迎しているのではないことをはっきり申し上げたい」(藤尾正行)。「共産主義国と結ぶために、自由主義国との断絶をはかることは、党の方針にもとるものではないかと心配する」(大野市郎)。「台湾問題について大平外相は実務の話をすると言っているが、国交がなくて、誰と実務の話をするのか。中華人民共和国を通してやるのか、アメリカを通してやるのか」(渡辺美智雄)。「田中首相を信頼して交渉願ったが、結果的に台湾を切ることになり、ガッカリした」(中川一郎)。

 一方の当事者である田中角栄首相でさえ、「われわれは台湾のため全精力を傾けた」と発言している。冷戦期であったことを踏まえても、戦争責任に向き合って中国と国交回復することより、台湾との関係を維持したいという本音が驚くほどあからさまに表明されている。それが、彼らの植民地主義の持続性を示していることを隠そうともしない。侵略戦争や植民地支配と決別し、中国が分断を脱して統一を果たせるようにすることが、戦争反省の実践であり、世界平和への貢献だと考えるどころか、その気運さえ感じられない。

 対外的には「一つの中国」を尊重するとしながら、帰国してすぐ台湾への執着を露わにする発言が相次ぐというダブルスタンダードが見られる。侵略国として内政干渉を慎むという自戒も感じさせない。大平正芳外相でさえ、台湾が中国の領土であるという中華人民共和国の主張を承認しないという「従来の自民党政府の態度をそのまま〔日中共同声明に〕書き込んだわけで、両国が永久に一致できない立場を表した」と報告している。「一つの中国」を受け入れるつもりなど最初からなかったことが露骨に示されている。サ条約との「法的整合性」を持ち出す一方で、「一つの中国」をめぐる国連決議やポツダム宣言などの国際的取り決めは認めるフリに終始してきたことが分かる。

 上記の政治家のなかには、90年代半ばまで活躍した渡辺美智雄などの名前も見られる。90年代はじめに議員活動を始めた高市首相は渡辺を首相に据えようとする動きの渦中にいた。中川一郎は、安倍晋三首相と親しい保守政治家・中川昭一の父である。現在のような二国間関係でも、台湾議連の自民党議員たちが台湾を訪問し、台湾を政府扱いした交流を行おうとしている一方で、北京とのパイプは希薄なままである。

 これに加え、新中国建国後の1949年から1968年まで非公式に暗躍した「白団」の存在を踏まえれば、戦後の日本政府の「意思」はより明らかになる。白団とは、蒋介石の要請で台湾に派遣された旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団で、83名が渡航して大陸反攻に加担していた。台湾を日本の影響圏の範囲内に留めておきたいという戦後一貫した政治的気運のなかで、高市発言を捉える必要があることが見えてくる。

 高市や安倍らが戦前の日本を美化し、歴史を歪曲する立場でもあることを考えれば、高市発言が再度の侵略戦争を予告していると被害国に受け止められたのは当然のことといえる。

 解決策は、既に日中共同声明の中にある。第6項で確認されている平和共存五原則を忠実に実行することが肝要である。「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則」は国連憲章の精神にも通じる普遍性をもつ。

 中国としては、「一つの中国」原則を曖昧化しようとする日本の思惑を十分に認識した上で、戦争状態の単なる終結が平和共存にまで発展すれば、日本の無反省や不誠実さは解消されると期待していたのである。台湾の帰属をめぐる曖昧な文言を許容した中国は、日本に信頼のボールを投げ掛けていたと捉えるべきだろう。

 しかし、戦後日本の指導者は、戦争被害国のこうした平和への願いをそう受け止めることはなかった。戦後も続く侵略や植民地支配への欲望をカモフラージュするために、日本の国益を強調したり、社会主義への警戒を唱えてきた。高市首相もその一人である。


石田隆至(上海交通大学人文学院副研究員)

〔本稿は、2025年12月29日にChina Dailyに掲載された署名記事「Japan's doublespeak on one-China principle」を日本語化した上で、加筆を行ったものである。本文で引用した『日中復交:ドキュメント』は、国立国会図書館ホームページで閲覧・ダウンロードが可能。〕


当サイトの石田隆至さん関連投稿

新刊 『私の戦後責任 花岡「和解」を問い直す」(石田隆至・張宏波 編)の紹介 


Friday, February 13, 2026

日本東方出版社刊『私の戦後責任 花岡「和解」を問い直す』刊行記念トークイベント  3月15日(日)15時~ 那覇で開催!

追記:3月1日の琉球新報に書評が出ました。

<書評>『私の戦後責任 花岡「和解」を問い直す』 タブーに踏み込む誠実さ


12月27日の投稿で紹介した本『私の戦後責任 花岡「和解」を問い直す』(石田隆至・張宏波 編)のブックイベントが沖縄で開催されます!ふるってお越しください。

【イベント情報】日本東方出版社刊『私の戦後責任 花岡「和解」を問い直す』刊行記念トークイベント 日時:3月15日(日)15時~ 場所:ジュンク堂那覇店B1Fイベント会場 出演:石田隆至(上海交通大学副研究員)張宏波(明治学院大学教授)石原昌家(沖縄国際大学名誉教授)乗松聡子(ジャーナリスト)



ジュンク堂那覇支店のX:


Sunday, December 22, 2024

石田隆至「西欧的近代化の限界とグローバルサウスの創新」:Chinadaily.com 英語論考の日本語版 Ishida Ryuji: The decline of the Western model and the rise of the Global South 石田隆至:西方式现代化已走到尽头,“全球南方”开拓全新道路

石田隆至さん

上海交通大学人文学院副研究員の石田隆至さんによる、Chinadaily.com に12月10日付で出た英語の論考は日本を含む「グローバルノース」「西側」の人々にとって必読ではないかと思い、日本語版を提供してもらいました。ここに転載します。

英語版はこちら:

The decline of the Western model and the rise of the Global South

中国語版はこちら:

西方式现代化已走到尽头,“全球南方”开拓全新道路

石田さんのプロフィールはこちらです。

上海交通大学人文学院副研究員。明治学院大学国際平和研究所客座研究員のほか、NPO中帰連平和記念館理事。東アジアの脱植民地化と平和外交に関心を持つ。特に、対日戦犯裁判の比較の観点から、新中国の戦犯裁判の調査研究を続けてきた。共著に『新中国の戦犯裁判と帰国後の平和実践』(社会評論社、2022年)。


西欧的近代化の限界とグローバルサウスの創新

日本を含めた西側世界では、BRICSやグローバル・サウス(以下、GS)の連帯とその発展を、“既存の国際秩序やシステムに対する挑戦”と位置付ける傾向が根強い。これは、近代以降の世界の発展史を西側先進国の視線で捉えており、西欧出自の政治経済システムが機能不全に陥っていることは等閑視されている。世界史的文脈を踏まえるなら、現在のGSの取り組みは別の相貌を帯びてくる。つまり、近代化を主導した西側先進国を含めた世界全体が直面している困難な課題に、西側諸国以上に真摯に向き合っているのがGSであると捉える必要がある。

西欧発の近代化が、前近代社会には見られなかった経済的「豊かさ」をもたらしたのは確かである。第二次大戦後には西欧や日本で奇跡的といわれる高度経済成長を経験した。ただそれは、軍事的あるいは経済的に植民地化した「南」に犠牲を強いることで実現した「発展」だった。さらに、西側先進国自身も1970年代に入ると、近代化の推進が当初想定しなかった深刻な困難に直面した。

石油危機をきっかけとした世界同時不況は、戦後の高度経済成長が無限に続くものではないことを知らしめた。このことは、それまで経済成長を優先させ、消極的にしか対処してこなかった大気汚染や水質汚濁にも眼を向けさせるきっかけとなった。また、「北」を襲った不況は「南」への開発援助を萎縮させ、南北格差をより拡大させた。「南」の内部でも、資源保有国や新興工業国とそうでない諸国との間に「南南格差」が拡がった。不利な境遇に置かれてきた女性や民族的・宗教的マイノリティが対等な権利を求めるようになったのもこの頃である。ローマクラブが『成長の限界』(1972年)の中で、人口増による食糧不足,資源の枯渇,汚染の増大で遠からず人類は破滅的帰結を迎えると予測した直後のことだった。

 西側先進国の社会科学はこうした局面に無関心だったわけではない。とりわけ「近代化」あるいは「近代」という時代そのものを考察対象としてきた社会学者たちは、近代・近代化を批判・否定した先に脱近代(post modern)というまったく異なる時代が開けてきたとは考えなかった。むしろ、近代化の延長・徹底として新たな局面を位置付け、「高度近代high modernity」「後期近代late modern age」「再帰的近代 reflexive modernization」といった概念で理論化した。それは、近代化が一定の「成功」を果たしたが故に、近代化そのものを掘り崩すという逆説的な帰結を明らかにした。それでもなお、近代化以外の発展様式を見出せず、その内部にとどまって新たな局面に向き合おうとしているという自己分析を提示した。

ところが、西欧的近代化を主導した西側先進国、とりわけG7諸国は、「後期近代」が直面する地球レベルの危機を解決するよりも、経済や金融のグローバル化を推進して西側のための近代化を延命させる策を優先した。市場原理主義を世界の隅々まで浸透させた結果、先進国の多国籍企業は巨大な利益を上げる一方、各国内部、また世界レベルでの経済格差はさらに拡大した。また、いち早く産業革命を成し遂げた結果、酸性雨など地球環境破壊の深刻な影響を受けたEUこそ環境保護政策を重視したが、米日は経済成長を優先させて環境保護対策には消極的だった。

他方で、グローバル化の進展した1990年代後半以降は、中国をはじめとしたGSの経済成長が顕著に進んだ時期でもある。注目すべきは、GS諸国の発展様式である。

GSは、経済格差のグローバル化と地球環境の破壊という困難をもたらした責任はもっぱら西側先進国にあると突き放すのではなく、世界全体が共通して直面している喫緊の課題として向き合ってきた。途上国の「発展の権利」を振りかざして経済成長に偏重するのではなく、環境と格差の両方を同時に解決しつつ、経済成長を図る新たな発展様式を追求した。

つまり、西欧的近代化の過程で被支配、低開発の側に置かれてきた途上国の現在の取り組みは、既存の発展様式をそのままにして、主体-客体関係を逆転させることを目指すものではない。地球の隅々にまで西欧的近代化の影響が浸透した以上、構造のなかで優位にいた側も、劣位にあった側も逃れることができない地球規模の課題に正面から向き合い、新たな発展様式を模索しているのである。

中国もそうした取り組みに積極的な国の一つである。中国式現代化とは、西欧的近代化がもたらした世界的困難を自らの課題として克服しようとする創新的アプローチの総称といえる。

西欧起源の発展モデルが犠牲にしてきたGSの側から、世界のどの国にも必要となる新たな発展モデルを立ち上げようという挑戦が始まっている以上、先進国も一緒に取り組めば人類全体の発展に繋がる。

2024年11月のAPEC首脳会議で習近平国家主席が述べた言葉は、こうした文脈で捉える必要があるだろう。「中国は各国が引き続き中国発展“急行”に乗って中国経済と共に発展していくことを歓迎し、平和発展、互恵協力、共同繁栄の世界各国の現代化のために共に努力していく。」

ところが、西側先進国は、他者や弱者、あるいは環境を搾取しない経済成長を想起することができず、GSの取り組みを「挑戦」や「脅威」とみなしてきた。「後期近代」が西欧的近代の延長上にあるという概念の正しさを、彼らの認識そのものが証明している。

人類共通の惑星的課題に直面している以上、「南」「北」の分け隔てなく智慧や経験を共有し、協力し合って解決を図らなければ、新しい発展様式が確立する前に、人類や地球そのものが崩壊しかねない。中国が「平和的発展」を唱えるのはそのためだが、西側世界はやはり「覇権を求めない外交」や「他者を犠牲にしない発展」をイメージできないままである。

とはいえ、G7がどれだけGSを敵視し、挑発しても、現実としてはもはやGSの発展、成長を押しとどめることができない。ただ、私たちの現状認識や思考そのものが、西欧近代の「知」に枠付けされている。GSの志向する新たな発展モデルに、適切な概念と言葉を与えていき、それが何を目指しているのかを分かりやすく提示するための理論的創新が必要である。搾取や覇権を前提としない国際関係あるいは発展モデルを基礎付ける新たな“知”の体系、いうなれば「新たな地球平和のための学」を創造していくことが喫緊の課題である。

(転載以上)


石田さんの張 宏波さんとの共著書はこちらです。

「70年近く前に行われた新中国による日本人戦犯裁判は、その後の日中関係、とりわけ戦後日本社会の歴史認識あるいは自己認識を映し出す「鏡」であり続けている­­——。」

詳しくは社会評論社の紹介をご覧ください。




Tuesday, August 06, 2024

石田隆至:日中友好に後ろ向きの社会で、平和の片鱗を見いだすー秋田県大館市の「中国人殉難者慰霊式」参加レポート(月刊『日本の進路』より転載)Remembering the Chinese victims of forced labour by Japan: Visiting Hanaoka, Akita

日本の進路』8月号

6月末、日本の侵略戦争下で強制動員された中国人の蜂起をきっかけに起こった大虐殺事件「花岡事件」(中国語では「花岡惨案」と言われる)の記憶行事に出席するため秋田の大館を訪問しました。案内してくれたのはこの歴史に詳しく、『新中国の戦犯裁判と帰国後の平和実践』(社会評論社、2022年)の共著者である石田隆至さんです。石田さんと共同研究者の張宏波さんの論文はここで読めます

私はかねてから、「平和のための博物館国際ネットワーク」のメンバー館だった「花岡平和記念館」を訪問したいと思っていましたので有り難い機会でした。石田さんが私の感想などもまじえて書いた報告記事が、月刊『日本の進路』383 号(2024 年8月号)に掲載されました。石田さんと出版社の許可をもらってここに転載します。(注:文中の写真は『日本の進路』に掲載されたものではなく自分が撮ったものです。文中のリンクも乗松がつけました。)           @PeacePhilosophy 乗松聡子

秋田県大館市の「中国人殉難者慰霊式」参加レポート

日中友好に後ろ向きの社会で、平和の片鱗を見いだす

上海交通大学副研究員 石田 隆至

 現在の日本で「日中友好」という言葉を口にするには、時と場を選ぶ。〝中国と仲良くしよう〟という当たり前のことを言うだけでも、勇気が必要になったり、なぜなのかと説明が求められたりする。

 去る6月30日に大館市を訪れ、戦時中に強制連行された中国人犠牲者の慰霊行事に参加した。花岡町(現大館市)では1945年6月、苛酷な虐待に耐えかねた中国人800人が蜂起した。強制連行加害の象徴的な地の一つだ。一方、戦後間もない時期から市民が真相究明や、被害者の追悼に取り組んできた。

 大館での慰霊行事では、遠慮や気遣いなく中国や日中友好について語れる。そこに集う人々は、中国に対するゆがんだ情報があふれる日常で、どうすれば友好を前に進めることができるかと日々苦労している。

 戦争での死者を慰霊する行事は、広島、長崎や沖縄をはじめ各地で見られる。誰もが戦争を憎み、平和を希求していても、中国と仲良くしようと言いにくいのはなぜか。

 私は中国と日本を往来する生活をしているが、なんとか時間をつくり、極力参加するようにしてきた。この場に、他にはない魅力を感じてきたからだ。今年は、カナダ在住の平和実践家・乗松聡子氏と一緒に大館を訪れた。同氏は日本各地の戦争/平和関連施設や行事を調査するジャーナリストで、大館は初めてだった。


「大館市」腕章に新鮮な驚き

 慰霊式の会場に到着してすぐ、乗松氏は「新鮮な驚きを覚え」たという。会場の「交通整理をしていたスタッフが『大館市』という腕章をつけていた」からだ。

殺された429人の人々へ追悼の
言葉を述べる福原淳嗣大館市長
〈これは本当に自治体が正規に主催している「慰霊式」なのだと実感しました。「群馬の森」の朝鮮人強制連行を記憶する碑を、右翼の圧力によって群馬県が撤去してしまうという事件が起きたばかりです。日本中で、あるいは海外においても大日本帝国の加害を記憶する行為が、右派や日本政府の攻撃に遭っている時勢です。そんな中で、大館市長、市議会議員、地元選出国会議員までもが参列し、被害者の子孫や中国政府の代表も見守る中、日本の侵略戦争を反省し、「花岡惨案」を二度と起こさないことを誓い、日中不再戦を願う式典が、右翼の妨害もなしに開催されていることに新鮮な驚きを覚えたのです。〉

 乗松氏は普段から、「漠然とした平和教育」よりも加害の歴史を伝える必要があると訴えている。足元で起きた過ちを直視することこそ慰霊であり、それが平和をつくる砦となる現実に感慨を覚えたのだろう。「植民地支配や侵略戦争における残虐行為の被害者を追悼する式典が、加害側の政府や自治体主催で開催されている場所は他にあるだろうか」という指摘にはハッとした。

 また、市主催の慰霊式が続く上で、市民の努力が基礎になっていたと知り、納得したところがあるという。

〈地元の人たちは残された被害者の遺骨を1950年代から見つけ出し、真相究明を試みてきた。また、被害者や遺族を探しあて、花岡での強制連行とそれがもたらした大虐殺の被害者を追悼・記憶し、日中友好をふたたび築く努力を続けてきた。だからこそ、こんにちの大館市主催による式典があると知り、市民が主体となることの強さを感じました。〉

 慰霊式での中国大使館のあいさつには例年との違いを感じた。429人の中国人犠牲者を哀悼し、地元の真摯な取り組みに敬意を表する前半に続き、「この日を〝平和の日〟として中日双方の市民が思いを新たにしていることは、両国が平和的に発展していく一つの姿だ」と述べた。日中関係の悪化ばかりが伝えられる中、「平和的な発展」だという言及は、別次元の関係がこの地に生まれていることを指摘している。目を背けたくなる悲惨な戦争犯罪が行われた地で、一人一人が毎年その事実に向き合い、反省を再確認し、二度と繰り返さないことを誓い合う。その積み重ねこそが、日中間の壁を少しずつ取り払い、小規模とはいえ確かな平和が生まれつつあることを強調したといえる。


遺族も含め市民の取り組みに

 市が主催する慰霊式の他に、市民による独自の取り組みも見られる。

 前日には「フォーラムイン大館」があり、100人ほどが参加していた。以前は被害者が中国から駆け付け、往時の苦境や戦後の苦労、現在の心境などを語ってきた。1995年に謝罪と賠償を求めて鹿島建設を提訴し、2000年に東京高裁で「和解」が成立するまで闘争拠点だった。被害者が逝去した今は、遺族が参加している。家族もまた経済的、社会的に、また心身面でも戦後長く苦労したことを知れる機会は貴重だ。

花岡平和記念館の展示より。着の身着の
ままで厳寒の冬も働かされた。
 気になったのは、遺族が鹿島花岡訴訟を「段階的勝利」と呼び、「賠償金」を得たという表現を使ったことだ。一審で敗訴し、高裁でも判決に至らず、鹿島との法廷「和解」が成立したが、裁判所も鹿島自身も鹿島の法的責任を認めていない。国際法に違反して捕虜や民間人を強制連行し、奴隷労働を強いて虐待・虐殺を続けた明白な事実がありながら責任を認めない姿勢は、慰霊式を貫く精神とは対極的だ。「段階的勝利」と呼ぶのは、そうした保守的な日本の限界が念頭にあるのだろう。だからこそ、被害者たちは次に国の責任を求める裁判を起こした。加害主体でさえ侵略の責任を取らずに済む現実は、いま「日中友好」を口にすることの困難さにつながっている。

 市民の手で設立された「花岡平和記念館」も見学した。乗松氏は展示で触れた「過酷な奴隷労働」の実態に「言葉を失った」と語った。


日本社会を照らし進む道標に

 30日午後には、「日中不再戦友好碑をまもる会」の76回目の慰霊祭にも参加した。会場である信正寺は、中国人が奴隷労働をさせられた花岡川の目の前にたたずむ。敗戦後、鹿島が被害者の遺骨を投げ出すように信正寺に託したのも、その無責任さを示す。対照的に、代々の住職は殉難者の供養を行い、市民と共に現在まで慰霊を続ける。寺院もまた地域社会の反人道的犯罪に向き合い、宗教的使命を果たそうとしてきた。

市民主導の信正寺での追悼行事

 50人ほどの参加者は事実をゆがめる教科書の採択に反対する元教員など、各自の普段の平和実践について報告し、励まし合った。「平和が大切」という一般論ではなく、加害の現実から出発した、具体的で自戒を伴った平和実践といえる。だからこそ、乗松氏が政府による中国敵視、その背後にある米国による中国包囲に言及すると、共感をもって受け止めた。

〈官憲や加害企業だけでなく、市民も加担した加害の歴史に70年以上にもわたって向き合うのは、決して容易ではなかったと思う。地元の方々の思いがひしひしと伝わってくる会でした。〉

 乗松氏自身も、カナダで日本の加害を記憶する活動を進めると、日系人社会やメディアから激しい反発を受けた経験を持つ。だからこそ、大館市民が過ちに対峙することがいかに貴重なことか、身をもって感じたのだろう。それでも、この取り組みを特別視するのではなく、日本社会を照らし、進むべき道標にする必要があると氏は述べる。

 花岡では、反発や抵抗があっても強制連行の蛮行に具体的に向き合い続けた人々が、被害者との新たな関係、言うなれば平和の片鱗を生み出しつつある。

(転載以上)

Wednesday, August 26, 2026

石田隆至 戦後日本の「平和主義」がもたらした現在の危機 Japan never sincerely embraced pacifism 80多年了,军国主义“阴魂”从未真正在日本消散

 日本の降伏記念日に China Daily に掲載された、上海交通大学人文学院副研究員の石田隆至氏による英語記事の日本語版を許可を得て転載します。

石田隆治氏

石田氏は、「終戦」と呼び敗戦を認めず、天皇の戦争責任を問わず戦後も崇拝し続け、「軍人恩給」や「靖国参拝」で侵略戦争加害者を賛美する政策や文化を維持し、台湾に対する植民地主義を根強く持つ勢力が蔓延る、非「平和」的な現状を鋭く指摘します。また、日本から被害を受けた国々に広がる「日本はまた軍国主義国家に戻るのか」という懸念に対し「そもそも日本の”平和主義”は本当に平和的だったのか」「そもそも日本は軍国主義を脱していたのか」という問いを投げかけます。

とりわけ日本の戦争や「その後」の被害国や地域ー沖縄戦で戦場にされ、米軍支配後の日本「復帰」においても「平和憲法」が適用されたこともなく米日の軍事基地とされてきた琉球弧の島々や、沖縄や日本が二次大戦後の米国の「熱戦」の出撃場とされ被害を受けた朝鮮半島、ベトナム、そして日本や大韓民国を基地として利用してきた米国からの脅威にさらされ続けてきた中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国から見たらどう見えるのだろうという想像力を働かせる必要があると思います。先日「広島・長崎の記憶の語りなおし」という文を発表してかなり読まれていますが、この「広島・長崎」の「平和」のナラティブこそ、この日本の仮面的「平和主義」のハリボテの役割を果たしてきていたのではないかと思わざるを得ません。@PeacePhilosophy 乗松聡子

★英語版は

Japan never sincerely embraced pacifism

★中国語版は

日本学者坦言:80多年了,军国主义“阴魂”从未真正在日本消散

https://mp.weixin.qq.com/s/h1BhPITHkWMLtl2BitADxQ


戦後日本の「平和主義」がもたらした現在の危機


日本では再び軍国主義が台頭しているのではないか――そうした懸念が、いま東アジアで拡がっている。上海に暮らす日本人の私の周りにも、「日本は大丈夫ですか?」と心配する中国の人々がいる。他方で、日本の首相や閣僚などはそれを頭から否定し、識者や平和市民の間でも大袈裟だと一笑するような見方が少なくない。どうしてこれほどの落差が存在するのだろうか。先の戦争で日本は一方的な侵略戦争を仕掛けたにもかかわらず、「聖戦」=正義の戦争だと自己認識していた。こうした歴史に照らすとき、危機感はより深まる。

 存在しない「脅威」を煽り立て軍備増強の口実にする現在の日本を、「平和国家」の変質だと捉える人々は少なくない。日本だけでなく被害国にもそうした見方がある。彼らにとっては、変質する前の日本に立ち戻ることが処方箋になると見えるだろう。ただ、東京裁判や新中国の戦犯裁判などに関する史料を調べ、戦前から戦後への日本の歩みについて考えてきた私は、別の感触をもっている。戦後の日本は本当に「平和国家」だったのだろうか。天皇制軍国主義の戦前に決別し、戦争や軍隊を放棄した平和国家へと転換したというのは、願望を反映した思い込みなのではないか。そう考えなければ説明の付かないことがあまりに多い。戦前の体制や体質が(無)意識的に温存され、日本の海外権益や民族的優越性にも執着し続けてきたのではないか。

 このように主張すると、日本の「平和主義者」からでさえ反発を受けることがある。戦後史の実相に基づいて考えてみよう。

 たとえば、日本では815日を「終戦記念日」と呼ぶ。「終戦」と表記すれば、勝ったか負けたかは曖昧になる。自ら終わらせたようなニュアンスさえ伴う。日本ではそこに違和感を覚える市民はそれほどいない。他方で、中国の現在のカレンダーでは「日本投降日」と記されている。ポツダム宣言の無条件降伏を持ち出すまでもなく、日本の敗戦日であることが明確にされている。

 「終戦」と呼んだのはいつ、誰によってか。天皇は815日にラジオ放送を通じて日本の敗戦を伝えた。そのメッセージは、「終戦の詔書」と名付けられていた。戦後の第一日目から、侵略戦争の最高責任者自身が、敗戦を受け入れるより曖昧化する戦後を選んでいた。

 「天皇のために死ぬ」戦争で国民自身も多大な苦難を強いられたが、天皇制を廃止せよという世論は大きくならないままだった。退位を求める要求さえ一部に過ぎなかった。天皇制を温存しようとする天皇の思惑は、東京裁判の開廷前にマッカーサーが介入することで難なく実現した。

 現在の日本社会における天皇(家)に対するまなざしを見ても、戦前との断絶より連続性が色濃い。メディアでも一般市民の間でも、天皇「陛下」という最上級の尊称が当然のように使われている。絶対的な上下関係を是認する姿勢は、戦後の民主国家には似つかわしくないという意識はほとんど存在しない。敗戦後の天皇は「人間宣言」をして全国の都道府県を巡回したが、原爆投下の焼け跡が拡がる広島でさえ、「天皇陛下万歳」の声が湧き上がった。現在でも毎年の正月には皇居に多くの国民が押し寄せ、天皇にむけて誇らしげに日の丸を振っている。昭和、平成、令和といった元号の使用に強いこだわりを持っているのは官公庁だが、市民の間でも抵抗感が大きいとはいえない。

 軍人恩給という明治初期に始まった年金制度はGHQの占領改革下で廃止された。しかし、1952年の主権回復後すぐに復活した。戦後80年あまり経ち、軍人の大部分が死去した今も存続している。もともと天皇制国家を支える職業軍人への特典として制度化されたため、戦争責任が重い高級軍人ほど手厚い待遇を受けてきた。A級戦犯の遺族にも給付されてきたことから分かるように、侵略戦争と決別しようとしない戦後社会の象徴だが、問題視する声は希薄である。だからこそ、現在まで70年あまりの間に総額60兆円も支給され続けてきた。他方で、海外の戦争被害者への賠償、日本国内の空襲被害者などへの補償には1円の公金も支給されていない。原爆被害者への「治療費」さえ、政府は渋々ながら拠出している。平和を生み出すための予算化には極端に後ろ向きだが、国家の戦争に尽くした者には手厚く報いる戦後だった。

 靖国神社の公式参拝に対する姿勢にも、平和国家とは対極的なものを感じさせる。小泉純一郎首相は被害国からの批判を受けて「こころの問題」だと一蹴し、保守層からは「内政干渉だ」という主張もみられた。こうした内向きの言い草は、それ以降の日本社会で広く共有され、内面化されていった。市民の間にも、靖国参拝で中国や朝鮮半島から非難を受ける日本を、「被害者」だと捉える人々が増えている。侵略戦争の指導者を裁いた戦犯裁判の結果を受諾することで、日本が国際社会に復帰した歴史は顧みようとされない。8月以外にも、靖国神社の境内が参拝する遺族や市民で賑わっていること自体が何を意味しているのかも考える必要がある。

 台湾を日本の影響圏とみなす植民地主義的な発想も根強い。敗戦によって中国に返還したにもかかわらず、台湾を中国とは別の国家であるかのようにみなす異常さは、高市早苗首相や彼女が敬愛する安倍晋三元首相だけに見られるものではない。だからこそ、昨年11月の「高市発言」後に行われた総選挙で、彼女は国民の圧倒的支持を得たのである。戦前の植民地主義的な欲望が今も連続していると考えれば、「台湾有事は日本有事」という主張がまかり通る事情も理解しやすくなる。敗戦の事実を受け入れまいとする欲望は、戦前の体制や体質を再現させてしまう。

 高市首相や安倍元首相は、憲法改正にきわめて積極的な右翼政治家でもある。憲法第9条が狙われていることは国民の誰もが知るところだ。9条で軍隊の不保持を明記しながら、朝鮮戦争をきっかけに19508月に警察予備隊を設置した。憲法に抵触しないよう警察力を補強する組織のような名称になっているが、実際には小型の陸軍であり、再軍備の始まりだった。保安隊、自衛隊と名前を変えて現在に至っており、憲法9条の空洞化は戦後わずか5年目に始まっていた。本当に「平和主義」が国民に浸透しているなら、改憲にこれほど前のめりの自民党への支持が続くだろうか。憲法解釈によって9条を骨抜きにする策動で危機感が高まった時も、デモや集会で抗議したのはごく一部の市民にすぎなかった。

 このような「平和国家」の現在地をどう捉えればよいのだろうか。戦後の「平和主義」が変質したと考えるには、戦前と戦後はあまりに連続的である。しかもその自覚が乏しく、かつ寛容に過ぎる。戦前戦中の侵略加害の実態を明らかにし、その責任を深く自覚し、二度と同じ過ちを繰り返さないと深く反省したところに生まれた平和主義であれば、まったく別様の戦後がありえたかもしれない。日本の侵略戦争の過ちを学校教育や社会教育を通じて徹底して学び、近隣諸国との平和と友好のための努力を政府レベルだけでなく民間でも重ねていた「現在」は、夢想に過ぎるだろうか。少なくとも戦前体制を美化したり、被害国を貶め、「脅威」だと煽り立てるような社会とは程遠かったのではないか。

 しかし、戦争加害の実態を知ろうともせず、当然ながらその責任に向き合い、反省を深めることもないまま、「戦争は悪だ」という一般論に基づいた「平和主義」が、憲法9条と結び付いてしまった。戦前体制との意識的な決別がなければ、「被害者」意識に大きく傾斜した「平和主義」となってしまう余地を残す。そして、実際に、戦前体制との連続性を一定程度自覚し、問題視するような平和市民でさえ、日本は「平和主義」国家だと思い込んでしまう状況が生まれた。これは、日本の「平和主義」のもっとも深刻な一面といえる。

 こうした戦後的「平和主義」が産み落としたのが、ネット右翼ではないか。戦前までの日本の「伝統」を美化し、中国や朝鮮半島など周辺国を蔑んで排外主義的な主張を行うネット右翼は、日本の「平和」を守るための憲法改正を支持する。重要なことは、こうした極端に自国中心的な主張を日常的にネットに書き込んだりはしないような一般市民も、程度の差はあれ、同じような考えを共有していることである。たとえば、戦前の日本は侵略戦争をしたかもしれないが、欧米諸国も同じようなことをしていたのではないか。中国や朝鮮半島を侵略したり植民地支配を強いたりはしたが、近代化などの恩恵をもたらした側面もあるのではないか。歴史問題などで対立する近隣諸国とは友好関係が築けないのは仕方ないのではないか。中国や朝鮮民主主義人民共和国の軍事力が大きくなっている中では、日本も戦争の準備をしなくては国を守れないのではないか。自分自身をネット右翼だとは思いもしないような人たちが、こうした考えを持つようになっているのが、現在の日本の危機である。

 81年目の敗戦の節目が、侵略を受けた周辺国の人々のまなざしを取り入れる機会になることを心から願う。 

石田隆至(上海交通大学人文学院副研究員)


(転載以上)

当サイトの石田隆至氏関連の投稿はこちらをご覧ください。


Wednesday, August 20, 2025

撫順、北票、阜新、瀋陽―侵略の爪痕が残る遼寧省の旅 Tracing the Scars of Japanese Aggression in China: A Journey Through Liaoning Province — Fushun, Beipiao, Fuxin, and Shenyang

6月に、撫順の奇蹟を受け継ぐ会 関西支部 第九次訪中団(撫順・瀋陽・北票・阜新・旅順・大連 )」の旅に参加した感想文を、ここに転載します(私はスケジュールの都合で旅順・大連には行きませんでした)。感想文は8月中旬に書いたものです。この旅を企画してくれた野津加代子さんや、一緒に参加した皆さんに読んでもらうようなトーンで書いておりますので少し「うちわ」っぽい雰囲気があることをお許しください。また、一般の読者のためにいくつか注をつけています。ハイパーリンクはネット転載のために独自につけたものです。この旅の募集要項、日程などはこちらをご覧ください。きたる11月にも、「撫順の受け継ぐ会 関西支部 第10次訪中団 ~ 成都・重慶・廠窖・常徳 ~」が計画されています。関心のある人はこちらを見てください。@PeacePhilosophy (文章と写真の無断転載・転用はしないでください)


撫順、北票、阜新、瀋陽―侵略の爪痕が残る遼寧省の旅

「撫順の奇蹟を受け継ぐ会 関西支部 第九次訪中団」に参加して

 

乗松聡子

新中国の戦犯裁判と帰国後の平和実践

 1950年、新中国は、中国侵略戦争で残虐の限りを尽くした日本戦犯969人をソ連から引き渡され、遼寧省の撫順戦犯管理所に収容しました。また、敗戦後山西省などに残留して国共内戦に参戦した日本兵ら140名は、山西省の太原戦犯管理所に収容しました。1956年にそれぞれ瀋陽と太原で、「最高人民法院特別軍事法廷」で戦犯裁判を行いました。6年の収容中に死亡した人を除く1062人が戦犯裁判の対象になりました。そのうち有罪になったのはたったの45人で、量刑でも最高で懲役20年という、「寛大な」判決でした。

 残りの1017人は起訴免除とされました。1964年までには全員釈放され帰国し、元戦犯たちは「中国帰還者連絡会」(中帰連)を結成し、戦後、加害証言を中心とした平和活動に従事しました。この戦犯裁判と戦後の元戦犯たちの歩みについては石田隆至・張宏波共著『新中国の戦犯裁判と帰国後の平和実践』(社会評論社、2022年)に大変詳しいです。「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」の旅の体験と合わせて読み、学びを深めました。

 私がこの歴史に初めて触れたのは太平洋を超えた、私の住む地、カナダのバンクーバーと言われる、先住民族のスクオミッシュ族、マスキウム族、ツレイル・ワウトゥース族の土地においてでした。2006年、この地で「世界平和フォーラム」が開催されたときに、地元の歴史家・人権活動家の鹿毛達雄さん(2022年死去)らが「Miracle of Fushun」という分科会を持ったときでした。残酷な戦争犯罪を犯した元日本兵らが、撫順の収容所で手厚い処遇を受け、新中国の指導のもと、学習や文化活動も自由に行う中で自分たちの罪を自覚していったという歴史は私にとって衝撃的で感動的であり、一度撫順の地を訪ねてみたいと思っていました。

向抗日殉難烈士謝罪碑 
(中帰連により、1988年建立)
 それから約20年が経ち、チャンスが訪れました。昨年、カナダ9条の会として青木茂さんを講師に迎え「万人坑」のオンライン講座を開催しました。「万人坑」に一度行きたいと言っていた私に、青木さんが「こういう旅があるよ」と教えてくれました。この機を逃したくないと思い、飛びつきました。野津加代子さんをはじめ、加害の歴史に向き合う貴重な仲間たちと出会うことができたことはこの旅からもらった何よりものギフトでした。

 旅の醍醐味は、自分が予想していなかったビックリに出会うことです。今回も各地のビックリや衝撃から、いくつか紹介したいと思います。

撫順

 撫順でのビックリは、戦犯管理所の資料館(撫順戦犯管理所旧跡陳列館で、やはり偽満洲国の戦犯として収容されていた愛新覚羅溥儀についての大きな特設コーナーがあったことでした。清朝の最後の皇帝から偽満洲国の傀儡皇帝となり、日本の敗戦とともにソ連の捕虜となり、日本戦犯と同様に新中国に引き渡され「改造」されました。何もできなかった溥儀が、靴紐を結ぶ、靴下を繕う、洗濯をするといった、基本的なことまでここで学んだと聞きクスっとしました。

戦犯・溥儀が裁縫を学ぶ姿の再現
 しかしここまでに溥儀に焦点を当てるのはなぜかと思ったら、展示内に答えがありました。「古今東西、廃除された皇帝の末路は、それぞれの違いはあっても断頭台に送られる運命から逃れることはできなかった」が、中国共産党は、殺さずに、「末代皇帝の改造をやりとげた、これは世界の奇蹟である」(周恩来)というのが強調点だったのです。それを聞いて私は、日本の傀儡国の皇帝であった溥儀がここで改造されたのなら、一番の戦犯である天皇ヒロヒトもここで改造すべきだったと思いました。他の日本戦犯と一緒に風呂に入って食事をして縫物をして、自分の罪状をわからせることによって、徹底的に日本の脱帝国化ができたのかもしれないと想像をはたらかせました。

 日本語で戦犯管理所の説明をしてくれた徐銘さん、横断幕とフルーツ、中国警察のテディベア(非売品!)までお土産で用意してくださった趙虎所長に感謝します。露天掘りや、「青草溝万人坑」があったという場所を案内してくださった、傳波教授と、若い歴史研究家の李想さんに出会うことができたのも光栄でした。

北票

北票鉱工記念館に向かう参加者たち
 さて、本題は万人坑です。撫順から4時間かかるバスの中で青木さんにみっちり講義を受けた上で北票に入りました(注:「万人坑」について詳しくはこちらを参照)。
現地で歓迎してくれた、北票鉱工記念館の劉鵬遠前館長と、パートナーの方(微信を交換しましたが、本名はわかりません)の笑顔が忘れられません。新築中の「台吉万人坑遺址」では、当初、中の写真は一切禁止ということで、私はそこにあった説明パネルを手書きで写そうと思いましたが、途中で突然撮影OKとなり、写真に収めることができました。グーグル画像翻訳によると、内容は: 

人間の地下室型納骨堂

この納骨堂は実は肉塚墓で、全国の集団墓地でも前例のないものです。この納骨堂は1943年に建てられ、60平方メートルにも満たないこの土地に、亡くなった鉱夫たちの遺体240体以上が埋葬されました。日本帝国主義統治後期、中国侵略戦争の撤退とともに、日本帝国主義の本性はより露呈し、鉱夫たちはより非人道的に政治的迫害と経済的搾取を受けました。苦しむ鉱夫たちは囚人のようにあらゆる政治的権利を剥奪され、不満があれば政治犯、思想犯、容疑者などさまざまな罪に問われ、拷問を受けました。極度の生活苦のため、坑内では大事故が続発し、ますます多くの鉱夫が拷問を受けて死亡しました。歴史の記録によると、山東省武定県から捕らえられた500人の労働者のうち、1年足らずで生き残ったのはわずか12人でした。遺体の切断率は97%にも達しました。拷問の末に殺害された人々は、証拠隠滅のためこの谷で焼却されました。3つの大きな穴が掘られており、この穴もそのうちの一つです。骨の形態から判断すると、4人から6人が木製の檻に入れられていたようです。穴の深さは1メートルで、2層から5層に重なっていました。さらに腹立たしいのは、炭鉱で負傷したり病気になったりして、もはや石炭を掘ることができなくなった鉱夫たちも埋葬されていたことです。

あまりの残酷さに言葉も出ません。80年以上経った今、日本から私たちが来て、被害者の方々とガラスごしの対面をしているのです。何と声をかけたらいいのかもわかりませんでした。ただ、この人たちには親や子や姉妹兄弟や、愛する人がいたはずだ・・・その人たちがこの遺骨と対面したらどうでしょう。私の息子が強制動員され、知らないうちに故郷から遠く離れたこの地で虫けらのように使われ、使い物にならなくなってこんな風に捨てられていたとしたら・・・息子の顔が重なりました。これが自分の家族だったら、誰もが、土だらけの骨に頬ずりしながら泣き崩れるでしょう。しかし見渡すと、一人一人の人生に思いを馳せる気持ちの余裕もなくなってしまうほどの膨大の骨の量でした。この人たちはみな、青木さんが言う「侵略の本質」としての「資本家・企業家の金儲け」のために殺された人たちなのです。

阜新

 阜新では、国家AAAA級の観光地と定められている万人坑の記憶施設の立派な施設「遺址陳列館」「抗暴青工遺骨館」「死難労工遺骨館」に目を見張りました。

阜新万人坑死難鉱工紀念碑
 遺址陳列館の前には「70,000」という数がでかでかと提示され、南京大虐殺記念館の「300,000」を思い出しました。恥ずかしいことに私はこの旅に参加するまで阜新という地名も知りませんでした。改めて、日本の侵略の牙は、「偽満洲国」とされた中国東北部の隅々まで張り巡らされたのだと実感しました。陳列館では、パンフレットや館内展示には要所要所に日本語訳があり、日本人がそんなにたくさん来そうな場所ではないのに、ちょっとビックリしました。私はその答えは自分で見つけたと思っています。館内には「青木茂著書コーナー」がありました。青木さんが足繫くこの地に通い、関係者と交流を深めた結果ではないかと思います。また、日本語解説を置くということは、「日本人にこそ来てほしい・来るべきだ」というメッセージもあると感じました。陳列館の終盤部分にあった言葉:

歴史を忘れず、未来に立ちむかうことは、常に世界の人々の共通の願いであり、平和的発展は今の時代のテーマとなっている。中国人民は世界各国の人民とともに、中国人民の抗日戦争と世界反ファシズム戦争の勝利の成果を、最大の決意と努力をもって断固として守り、この屈辱の歴史を二度と繰り返さないように努力する。

今年、抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利80周年の年に、ファシズム側だった国の一員として、この言葉を深く胸に刻みます。

阜新万人坑遺址陳列館の展示より 強制労働現場の再現

瀋陽

瀋陽二戦盟軍戦俘営旧址陳列館
 瀋陽での私にとってのビックリは、連合軍捕虜約2000名が収容されていた、「奉天俘虜収容所」の跡にある「瀋陽二戦盟軍戦俘営旧址陳列館」でした。私は2月にフィリピン戦跡巡りに行ってきたばかりでした。「バターン死の行進」でオドネル収容所に送られた米軍の捕虜も多数ここに連れてこられていて中にはジョナサン・ウェインライト将軍など将校級の人たちもいたと知り、心を揺さぶられました。数年前に高嶋伸欣さんとマレーシアとシンガポールの旅もしましたが、マレー半島で英軍を率いて、山下奉文司令官に対し降伏したアーネスト・パーシバル将軍もここにいたと知り感動しました。日本敗戦の際、マッカーサー元帥はパーシバルとウェインライトを45年9月2日戦艦ミズーリにおける日本の降伏文書調印式に招いた、その写真も展示されていました。この二人は日本の対英米戦の期間ほとんど俘虜として過ごし、解放されたばかりで調印式に臨んだのです。どれだけ感慨深かったであろうかと思いを馳せました。

 私はスケジュールの都合があって大連と旅順は行かず、瀋陽で離脱しました。瀋陽では万人坑の専門家、李ビン剛教授との交流の機会に感謝しています。青木さん、野津さんが長年中国に通い、築いた人脈と信頼の上に成り立っている旅に参加させていただいたことに心から感謝し、学んだことを書き語ることによって自分の役割を果たしたいと思います。


(転載以上)

ここには書ききれていないたくさんの経験についてはまた別の機会に記します。

撫順の奇蹟を受け継ぐ会 関西支部についてはこちらをご覧ください。

今回、旅程にあった大連と旅順には行けませんでしたが、2017年、南京大虐殺80年の訪中のときにこれらの場所を訪れています。以下の報告をよかったらご覧ください。

上海、南京、大連、旅順の旅