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Tuesday, December 29, 2015

今こそ生きる、戦後60年の加藤周一から後の世代へのメッセージ A message from late Shuichi Kato, 2005

日本の敗戦70年が終わろうとしています。10年前聞いて感銘を受けた「知の巨人」加藤周一氏(2008年12月5日没)の、「戦後60年」2005年8月に放送されたラジオインタビューの書き起こしを紹介したいと思います。この日の加藤氏のメッセージは10年後の今、日本が戦争の教訓を忘れ、米国に追従し、再び隣国を憎み、戦争への道を進みつつあるからこそ、そのような潮流を市民の力で止めるために聞くべきものであると思ったからです。
(一部、リスナーからのお便りなどは割愛しています。)

メッセージを抽出すると、
加藤周一 (1919-2008)
  • 南京陥落のときは旗行列ができた。若い人に言う。「旗行列はするな」と。
  • 若者に過去の戦争への「責任」はないが「関係」はある。
  • 戦争は武器を持って戦場に行く人だけではできない。その人たちを支えるイデオロギー、価値観に支えられているからできる。
  • 今も残る戦争の要因を調べないといけない。戦前と戦後の連続性を。そのために歴史を学ぶ。
  • たとえば南京虐殺の背景の一つに人種差別があるとしたら若者にとっては今もその人種差別が今も生きているかどうか調べることが大事。そのためには勉強すること。
  • 人種差別がまだ生きているのに黙っているのなら消極的に支持しているので結果的に全責任がかかってくる。「関係ありません」じゃ済まされない。
  • 政府はしばしば嘘を吐く。戦争になるとさらに。英語を学ぶのは日本語で書いていないことを暴くため。
  • ドイツ人がナチの犯罪を認めたように、日本は日本陸軍が中国でやったことを認めるべき。
  • 平和をつくるには個人の精神の自立が大事。大勢に順応するのではなく自分の考えに歴史的事実を突き合わせて自分で考える。


―私の戦後六十年、今日は評論家で戦後日本について様々な角度から考えてこられました、加藤周一さんをご自宅のあります東京世田谷にお訪ねしました。喫茶店の二階で今お話しを伺っております。加藤さんはこのところ精力的に戦争についてまた高校生など若い世代との対話を重ねていらっしゃいますけれども、色んな方が戦争体験っていうのは若い人に伝わらないんじゃないかというふうにおっしゃる方もいらっしゃるんですが、その経験があるかないかということといのはとても大きなものでしょうか。

そうだろうと思いますがね、前に私は読者から論文を募って「私の昭和史」っていう小さなものを作ったんですけどね、昭和っていうのはずいぶん長いわけですよね。戦争は十年でしょう、長く見ても十年戦争。ほとんど九割―あるいは99パーセントかな。戦争の話なんですよ。私の昭和史っていうものを日本人に求めるとね、何を書くかっていうと戦争経験を書くんですよ。割と若い人は、戦争のときはまだ子供だったわけですけれど、子供としての戦争経験を書いて、大人の場合は大人としての戦争経験を書くんです。だから十五年戦争っていうのは日本のその時代を通ってきて、非常に大きな中心的問題なんですよね。で、どう中心であったかというのは人によって違うけど、とにかくほかのあらゆる経験を圧倒するような強い経験であったというのは言えるんじゃないかと思います。

―加藤さんご自身の戦争のご体験というと、東京におられたんですよね?

そうですね。ほとんど…まあ、非常事態のときは信州に疎開しましたけどね。

―そうすると東京大空襲のご体験が?

その時は本郷の東京大学の医学部の附属病院に勤めていたんですよ。ところがね、附属病院にある年齢以上の、老人でもないけどね、相当年齢の進んだ人たちが何人が残ってた。私みたいな若い医者もいたんですが、みんな病人ないし病気あがりとかそういう健康上の障害でいわゆる兵士になれんような人はね、ちょっと残ってたんですよね。普段の三分の一くらいかな、合わせた数は。すごい人手は不足してるわけです。看護婦は全員いたんですけどね。医者は三分の一くらいしかいなくて、そこに大空襲がくるでしょ。近所の人は―まあ大きな病院ですから―病院に来たわけですよね。大学の校内に入って、たちまちベッドがいっぱいになっちゃってね。そこで床に寝かすわけですがたちまち床もいっぱいになっちゃって。だからしょうがないから廊下に一列に寝かして、やっと通れる空間を残して、後の床は全部病人を寝かしていたんですよ。それでも入りきらないっていう状態なんですよね。それを非常に少数の医者がまあできることをしたわけだ。それはほとんど昼夜兼行になりましたね。あのくらい少ししか寝なかったことは我が生涯の中でないですよ。朝から晩まで、もちろん家には帰らないわけですよ。私は病院の中に泊まり込んでましたから。だから朝起きると病院なわけだ。ただちに仕事にかかるわけですから。かろうじて昼食をとるかとらないかという状態で真夜中に達して、でまだ続いて、だから寝る時間はほとんどなくて、ちょっとでもあればねもう頭がくらくらしてきますから。そうしたら三十分か一時間が寝てまた仕事って感じが一週間くらい続いたかな。

―集まってくる方の様子はどんな感じで?

主として火傷ですね。火傷っていうのは体液が染み出しちゃうんですよ。液体が減るから循環血液が濃くなって、ある程度以上減れば血圧が下がって致命的になるわけ。だから何がなんでもどうしてもある程度の血圧を維持するためには輸血しなきゃならない。ところが輸血の血がないわけですよ。だからたちまち使いきっちゃうから、あとはリンゲル液のようなものを作って注射するわけですよ。で、まあ一時は血液の代わりになるわけですがやっぱり血液じゃなきゃ漏れるのが早いんですよ。だから入れてもまたすぐ足りなくなっちゃう、そういうイタチごっこみたいな。

―薬もなくて助けられない状況の人たちをいっぱい目の当たりにしたときに、一人の医者としてはどういう気持ちになるものですか。

どういう気持ちにもならないですよ。こっちも死にもの狂いですから。あんなに働いたことはない。まあ強いて言えば一種の連帯感はあったな、被害者同士の。こちらも全力で、寝てる人たちを、火傷になった人たちも何の罪もないわけで、その人たちをできるだけできれば助けたかったわけですから。そういうことはもっと徹底した形で広島で起こるんですね。広島で爆弾が破裂したときにいたわじゃないですが、医学的調査のために九月になってから行ったんです。もうひどいんですよね。それでも広島の中心部がやられて周辺部の病院が少し残ってて、あるいは病院じゃなくて学校とか郵便局とかでも壊れずに残ってるところがあればそこに患者を入れて。患者は周辺部の人たちですね。それもやはりできるだけのことをするって言っても手が限られてるから、やはり輸血は重大な手段なんですができないんですよね。それでも医者ができるだけのことはしたわけですよね。

―広島を体験した方が、広島では生きたものは何もなかったとおっしゃっていたんですが。

そう。落ちた後の中心部は一か月半経っても生きたものは何もないです。もちろん生きたものは人間、犬、猫だけじゃなくて虫もいないんだよ。夏だけど蚊とか蠅とかもいないんですよ。真夏だけども雑草も生えないんですよ。木は全部葉がないか、黒く焼けちゃってるわけ。

―加藤さんの様々な体験のベースにはやはりそういう東京大空襲、広島で見たものというのは濃く基礎にはあるわけですね。

そうですね。もう一つ今でも私が戦争体験として、私の出発点になったって言っているのは、二人友達が死んでるんですよ。一人は高校のときの同級生。徴兵されて死んじゃったんですね。もう一人は医学部の同級生で、私は医学部を卒業してたら大学病院で学ぶということができたんですが、大部分の健康な医者は皆いきなり軍隊に配属させられて、でそこで戦死しちゃったんです。医者は船に一人ずつ乗せるんですよ。海軍に行ったやつはね、どんなに経験がなくても潜水艦とか駆逐艦とかがあれば一人ずつ乗せるわけ。それから輸送船は輸送船で一人配属されますね。死亡率が非常に高かったな。それが無理だっていうのは当時でも我々はわかっていたんですよ。非常に高い確率で船が沈むということはね。要するにある程度の制海権を持たずに輸送船を出港させること自体がばかげているわけですよね。無意味なることに犠牲にされたので、当然友達を失ったショックを同時に、そういうことを命令した権力に対する極度に強い反発を感じましたね。どうして彼が殺されて、私が殺されなかったのかってことを考えますよね。その理由は全くのくじ引きみたいなものですよね。つまり死は全く不合理なもので、全く理由のないただの残酷な偶然だな。戦争に対して批判的でしたからね。そういう人がだんだん減ってきてほとんど最後のほうは本当に話ができないんです。みんな満州国は日本の生命線だ、今度の戦争は聖戦だと謳っているわけですから。大変な孤立感でしたね。だから私の戦争体験と言えば日本国内で経験したこの孤立感ですね。

話は飛びますが現在の状態でもいろいろ部族闘争とかがあったよね。スンニ派とシーア派なんかの争いがあって、だからそれを止めるために、人の命を救うための人道的介入とかってありますよね。しかし戦争じゃなくても、今でもたとえばアフリカの場合では部族間の衝突で大勢の人が死ぬことがあるけど、しかし今でもマラリヤとかエイズとかの死亡率は非常に高いんですね。そういうことの援助に限らず、まだまだやるべきことは日本に限らず世界にはあるんです。マラリヤで死ぬ人はほっといたのに、部族衝突で死ぬ人がいるという理由でそこに軍事力介入するっていうのはちょっと偽善的なんじゃないかと。マラリヤには治療法も薬もあるんですね。薬を大量に投じればことは済む。伝染経路も蚊だということが分かっています。マラリヤを撲滅しようと思えば可能なんです。もちろんお金も技術者の援助も必要ですよ。しかし戦争にかかる金を考えれば、その金の何分の一かの金を投じれば人が救えると思うんですね。

―私の祖父も南京で戦病死していたという話を後で聞いたんです。戦争に行って戦いで死んだのかなと思っていたんですが、一人苦しい思いをしながら、水がほしいと言いながら、病院で病死をしたと聞いた時、非常に切ない思いをしたんですがそういう方は多かったんですね。

はい。まあこれは第一次大戦でもそうなんですが、直接弾に当たって死ぬという意味での戦死よりも戦病死のほうが遥かに多い。これは日本に限らず国際的にです。大抵の兵士は戦病死しています。それは十分な手当てがなくて、非常に悲惨な状態で、そこに英雄的で勇ましい感じは全然ないんですね。

―実際は輸送船で亡くなったり戦病死をなさったりということが多いわけですから、まあかっこいいものではないということですね。

それはそうですよ。戦争はかっこよくない。全然ね。ただ問題は、戦争は突然起こるんじゃなくて1931年の満州国に始まりまして、1937には盧溝橋事件から上海事変になってそこから南京。戦線が全中国本土の拡大するという形になるわけです。南京に入城したときには南京陥落の旗行列ができました。東京にいたわけですから、それも私の戦争経験の一つです。爆撃だけじゃなくて旗行列も見たんですよ。私とその旗行列の人たちとの唯一の違いはね、私は193712月の南京陥落のときに東京が焼け野原になるのは時間の問題だと思っていたことです。ところがその旗行列の人は祝ってるんですから、だからもちろんそうは思ってなかったですよ。1941128日、日本軍がパールハーバーを攻撃したときも旗行列です。それはアメリカの軍艦をたくさん撃沈したから。私は、今はアメリカの軍艦を撃沈してもアメリカを攻撃すれば東京が、日本が滅びるのは時間の問題だと思っていました。それがただ一つの、でも重要な違いだったんですね。今の若い人たちによく聞かれるんですがね、「どういう風に事を進めますか」と。やっぱりね、「旗行列するな」って。今日戦争に勝っても、その結果がどうなるかっていうことをもう少し冷静に見破る能力を養うべきだと思いますね。そして見破れば旗行列はしない。そう言いますね。

~~~~~

―「私の戦後六十年 だからこそあなたに伝えたい言葉」。今日は評論家の加藤周一さんにご自宅があります東京世田谷でお話しを伺っております。加藤さんは精力的に高校生などと対話をしてらっしゃいますが、高校生たちからくる質問はどういうものが多いですか?

間接的にも直接的にも言われますが、「我々には責任がない」というやつですね。私の答えは「その通り」。「君には責任がない」と。十五年戦争の責任はないし、南京虐殺を認めても今の大学生、高校生にその責任はないということは認めるわけですね。しかし責任がないっていうのは関係がないっていうわけじゃない。責任がないっていってもそれは直接的な責任がないっていうわけであって。たとえば中国における非常にたくさんの人の人命の破壊とか、そういう現象がなぜ起こったかと言うと非常に複雑な要因があるんですよ。しかしその要因の一部は無くなった、変わった、だから今はない。だからあなた方には確かに関係がないかもしれない。でも一部は今でもある。それは関係がある。それは識別しなきゃならない。どういう理由は今でも生きていてどういう理由は無くなっているかを区別しなきゃならない。もしも今でもある理由があればそれと戦わなきゃならない。それは義務でね、もし戦わなければ前の戦争の責任が続いてるっていうことになる。だから直接戦場での戦争行為に責任がないけれども、戦争というは武器を持って戦場に行く人だけでは決してできない。その人たちを支えるイデオロギー、価値観が背後にあるから、それに支えられてるからできるんです。故郷を守るとか、祖国は神の国だからとかいろいろありますね。

でそれを検討するには第一にまず歴史だ。歴史を学べ。歴史はは過去のことだから私たちには関係がないというのは粗雑な考え方で、関係あるかないかを調べるのが歴史学だ。たとえばなんだけど、南京虐殺の背景のひとつはね、人種差別かもしれない。そうしたらあなたたちの問題は今その人種差別は生きてるか生きてないかの問題だ。もし生きてるのに黙ってそこに座ってるのであれば関係のないことで座ってるんじゃなくて、関係大ありなことに対して黙ってる。つまり消極的に支持してることになるので結果的に全責任がそこにかかってくることになる。そんなに簡単に逃れられない。「関係ありません」じゃない。関係があるから、どんな関係があるかをはっきりさせなきゃならない。それには勉強する必要がある。

しかし人種差別は一例であってね、それだけじゃないと思いますね。別の見方をすれば戦争は政府とか将軍とかあるいは大学のある種の教授とか、要するに上のほうの偉いひとが決めることでしょと。しかしお偉いさんが決めただけじゃ戦争にはならないんでね、そこを庶民が支持するから戦争になる。そうしない庶民がどういう考え、どういう態度から生まれてくるかを検討しなきゃいけない。戦争の枠はなぜ成り立つのか。誰がそれを作って、だれがそれを支持するのか。それは支持する側の検討が必要になると思うんです。だから「することがない」じゃない。「我々に関係がない」じゃない。関係は大ありだと思いますね。

政府が言うことを支持するというときに、政府はどこの国でもしばしば嘘を吐くんですね。そういうことを念頭に置くべきなんですよ。戦争に関して政府が言うことを、支持する前にそういうことを検討すべきなんです。嘘か本当かね。まずそのための目を養う必要がありますし。必要があれば英語を学んで、英語の新聞を読んだりして。だから英語を学ぶ目的は、買い物に行ったときに流暢な英語で買い物をするためじゃないの。そうじゃなくて日本語で書いてないことがあったときにそれを暴くためには英語の文献が必要な時があるから。それを読むために英語を習わなくちゃ困ると思うんですね。

戦争っていうのは嘘の塊なんですよ。これはもう今まであまり嘘を吐かなかった政府でも嘘を吐くんですね。例はいくらでもありますが、日本で言うならば大本営の発表ですね。開戦になると「敵艦をいくつ撃沈して大勝利だ」って言って軍艦マーチをやってね、ニュースを流すわけですよ。でも嘘なわけですよね。だからそれを聞いてても戦況が分からないわけですよ。負けてる戦争を勝った勝ったと報道するわけですから。それは日本だけではなくて、それほど極端な嘘ではなくてでもね、たとえば連合軍がノルマンディーに上陸するでしょ。記念日があるくらい有名な出来事ですね。司令官はアイゼンハワーですよね。上陸作戦は成功するわけですけども、しかしね、その、『ヘラルド・トリビューン』が第一面の見出しに「ノルマンディー上陸成功」というのが載るわけですよ。しかし死傷者の数は中の記事を読むと書いてあるのね。やっぱり本当はもっと多かった。それはアメリカの練達のジャーナリストから聞いたんだけどね。やっぱりね、それはちょっと小さく書いてたと。ちょっとした嘘ですよね。味方の損害を小さく書いて。本当にはなかなか書かないですよ。

―加藤さんはそういう嘘かどうかを見破る知識というか、癖というか、習慣というか、そういうのはどうやったら若い人は身につくんでしょうか。

それは訓練しなきゃ本当はうまくならない。医者だって病気を治したいという願望と、治るか治らないかというのはまったくの別問題ですよね。つまり治したいという願望に影響されないでこれは治るか治らないかということを考える能力を発展させなきゃしょうがない。戦争でも同じです。客観的に自分の国のいいところも悪いところも見なきゃならない。客観的に過去の事実をはっきり見ることが必要だと思うんですよね。ドイツ人がナチの犯罪について認めたように、日本は辛くても日本陸軍が中国でやったことを認めるべきだと思うな。それが今の日本がどこまで変わったかということを求めているわけですね。その証拠は十分に出ているのかどうか、それは現在の問題だと。歴史意識は大事。

―今の問題であり、これから将来に向かっても日本という国が戦争を起こさないんだということを周りの人は保障がほしいんですよね、きっと。

そうです。事実、日本は例外的だった。六十年間一度も大規模に、正式に戦闘に参加しないで、だれも日本人が自衛隊を含めて死ななかったし、また自衛隊の発砲でほかの国の人を殺していないんです。つまり誰も殺してないし誰も殺されてない。そういう国は非常に稀。そういう意味で戦争は本来は一番核心の部分は殺し合いですから、殺し合いには手助けまでで直接は参加しなかった、それは九条のお陰ですよ。できなかったことを幸いにしてと考える人と、それを不幸にしてできなかったと考える人がまあ二通りあるわけだけども、私も今どちらか正しいかという議論に立ち入るよりも私が言いたいのは、それはよかったと考える人たちはアジアの近隣諸国からまた戦争をやるかもしれないという疑いをかけられることはなく先に進めると思うんですよ。しかし不幸にして日本人は戦いに参加できなかったという考え方の人は、もし上手くやればもう一遍戦争ができるようにするでしょ。それをしたら日本人は絶対にもう一度武器をとってくることはないという保証はどこにあるんだと、彼らが疑うのは仕方がないと、それを覚悟しなきゃならない。覚悟をしないでそういう風に考える人は不用意だと思うんです。そう考える以上は覚悟しなきゃならないのは、その代わり近隣諸国の人たちが日本人がもういっぺん動くかもしれないという疑いを持つことは避けられない。それを覚悟しなきゃならない。必ずしもそうなるとは限りませんよ。だから日本人がもう一度戦争するとは言えないけれど、ただ周りの国の人たちがそういう可能性を想定するのは仕方がないと思いますね。

―先ほど若い人たちも責任はないかもしれないけど関係がないんじゃないだよとおっしゃいましたが、今の若い世代に加藤さんから何かメッセージありませんでしょうか。

そうですね。前の世代から渡された、近代日本の日本人全体の共同責任ってものがあるんでね。それはその中に持続している面がたくさんあって、そんなに戦前と戦後で全く切れてるんじゃない。その切れたと思うことはまず第一に錯覚ですね。その錯覚と幻想を破ってね、現実を直視するべきだと。それは歴史を学ぶということなんで。不幸を生み出した条件が、過去に存在した条件の中で、今もある条件がたくさんあるんですね。それを段々に潰していくよりしょうがないですね。そういうことを具体的に行っていくことが非常に必要なことだと思いますね。そうでなければ本当の友好関係は作れない。ただ、日本の連続性をわたしは弁護しないし、だから周りの国が認めてくれというわけでもなくて、そういう弁解はしませんがね、ただ日本国が戦後に移っていくときね、占領下でしょ。で占領下でもっていきなりね、同時に冷戦下なんですよ。そして米国の占領政策は占領したときにもあれだけ犠牲を払ってやった戦争ですから日本ともう一回戦争をしたくないと、だから武装解除、そして戦争能力のはく奪、この二点は徹底してるわけですね、この憲法は。

日本人も戦争が嫌になってたからそれを受け入れたと思います。でも日本人が喜んで受け入れたかそうでないかは別にして、ただ客観的にあれは占領軍にとって日本の武装解除を進めるためのものですよね。ただそこに冷戦が被ったために急に占領政策が変わるわけですよ。で日本の武装解除が第一とか国家神道的イデオロギーに関して急に寛大になるわけ。高級官僚を巣鴨で解放するのはそういうこと。そういう解放をして、日本の経済を早く建て直して、冷戦で対ソビエト包囲網の一環として日本をもういっぺん再現すると。武装解除のむしろ逆なわけだから。警察予備隊も日本側が求めたんではなく、アメリカ側が強制したんですね。それに日本人は乗った。対日理事会の中で日本の戦争責任をもっと厳しく追及する予定を考えるのがソ連にありましたし中国にありましたしオーストラリアにありましたし、色んなところにあったんですよ。それは米国が全力を上げて抑えて、理事会を引っ張って、対日政策を今の線にやったわけ。その中では日本の自由度はある程度ありますよ。しかし占領下ですからね、占領軍が方針を変えたらしょうがないわけですよ。それが妙に連続性が強くなりすぎた、だからすべての責任があいまいになっちゃった。

―最後に21世紀に生きる若い人たちに、「ここから始めたらどうだ」「ここが突破口で平和な国を作るためにはこれが大事だ」ということを一言お願いします。

まあ、これだけの難しい時代を通り過ぎてきた経験っていうものから何も学ばないのはもったいない話だよね。学ぶとすれば個人の精神の独立だな。

―個人の精神の独立。

だから人の言うこと。大勢がどっちに並んでるかっていうことを見てね、いつもその大勢に順応するんじゃなくて、自分の考えを個々に歴史に関して歴史的事実を突き合わせて自分で考える。過去のことに限らず将来の生き方でも現在の状態でも、人の言うことじゃなくて、先生がこういったからとかじゃなくてね、ましてや加藤周一がこう言ったからって絶対に信じないで。それは全部間違っているかもしれない。自分で検討したり拒否したりできるようになることだな。明治維新のころね、福沢諭吉が「一身独立して一国独立す」って言ったんですね。だから人が言ったことを、官僚が、将軍が、政府が言ったことに「はいはい」とただ信じてるんじゃなくて、独立して検討して拒否することは拒否する、受け入れるものは受け入れる、その精神の独立が大事ですよね。それは口に出して言える場合と言えない場合、色んな状況がありますしそれもまた社会によって違うと思いますが、ですが考えてないことは言えないからね。まず第一に独立の考えを持たなければ独立の言葉は出てこないわけですから。まず精神が独立すること。そういう個人が出てこない限り一国の独立ってこともないでしょう。結局属国に終わるということだと思います。属国に終わりたくなければ個人がね、人の言うことだからって顔色を窺ってなくてね、自分の考えをはっきりと持つこと。それとできればそれを言うこと。なぜなら使わない自由はないのと同じ。

(終)



Friday, December 25, 2015

アンドレ・ヴルチェク: 改革され、矯正され、陵辱されたユネスコ Andre Vltchek: Reformed, Disciplined and Humiliated UNESCO 

 南京大虐殺のユネスコ世界記憶遺産への登録をめぐり、日中間の小競り合いはユネスコを巻き込み、分担金の支払い停止へとエスカレートしそうである。
 そもそも世界記憶遺産とは何だったのか、ユネスコとは何だったのか。
 2000年代初めに飛び交っていた「ユネスコ改革」という言葉は、放漫財政を断罪するという論調で報じられていた。しかしユネスコは設立当初から、他の国連機関とは異なる真に国際主義的な目標を持っていたために、アメリカをはじめ西側資本主義陣営の利害と対立してきた。
 その理想が記されているユネスコ憲章の前文は、第二次世界大戦が無知と偏見から生じたものだという反省に立ち、日本国憲法前文とも重なる。
 この、帝国主義に対抗してでも人道主義を広めて行こうというユネスコの理想主義的な本質を骨抜きにすることが、じつはユネスコ改革の真意だったのだ。そして、ユネスコ破壊の鉄槌を振り下ろしたのは、アメリカに追随する松浦晃一郎という日本人事務局長だった。脱退していたアメリカは、思い通りに「改革」されたユネスコに再び迎え入れられたが、パレスチナが加盟していることを盾に分担金を拒否し続けている。
 ユネスコと日本国憲法を破壊しようとする力の根源は、同じものだ。
オンライン・マガジン「New Eastern Outlook」に掲載されたアンドレ・ヴルチェクの論考を翻訳して紹介する。
(前文・翻訳:酒井泰幸 翻訳協力:乗松聡子)

原文は Reformed, Discplined and Humiliated UNESCO

改革され、矯正され、陵辱されたユネスコ


2015年11月20日
アンドレ・ヴルチェク

 最近の安倍晋三内閣の暴走は明らかだ。軍事力をひけらかし、憲法を軍国主義化し、完全武装の日本を作ろうとしている。そして必要もないのにけんかをふっかけるのは、往々にして米国と欧州諸国のジャパン・ハンドラーたちへの忠誠を示すためである。

 ガーディアン紙によれば、いま「日本は南京大虐殺の登録問題をめぐってユネスコへの分担金を停止すると脅している。」

「南京大虐殺に関する、論争を呼んでいる中国の文書を、日本の抗議にもかかわらずユネスコが世界記憶遺産に登録した後、日本はこの国連組織への資金提供を撤回すると脅しをかけ続けている。」

 1937年の末、6週間にわたり、中国の都市南京で日本帝国陸軍は何十万人もの人々を残虐な方法で殺害した。この恐ろしい事件は「南京大虐殺」、あるいは2万人から8万人の女性が性的な暴行を受けたことで、「レイプ・オブ・南京」として知られている。

 南京大虐殺が実際に起きたことを疑う者は狂人だけである。安倍内閣でさえそのことに異議を唱えてはいない。しかし日本は「相談されなかった」ことで「怒って」いる。日本は実際南京だけで約30万の中国人を虐殺したと認めることも拒否している。

 日本の傲慢はとどまるところを知らない。「リベラル」だと言われる日刊紙の朝日新聞は最近、中国の学者と報道関係者たちを、独立性を保って調査する「自由がない」から南京の犠牲者数を知り得ないだろうとの主張で侮辱した。まるで日本のメディアと学者の大多数は、どこかの石頭で卑屈な西側諸国への協力者集団ではないとでも言うかのようにである。

 話をユネスコに戻そう。世界記憶遺産は、かつて進歩的で反帝国主義であったこの組織の、最後の大事業の一つである。これは、無数の人道に対する犯罪とともに、西側諸国の覇権、植民地主義、戦争に対する勇敢で断固とした抵抗運動を、風化させず不滅のものとする事業である。そして登録リストに目を通せば、チリ、パラグアイ、アルゼンチンから、アンゴラ、南アフリカに至るまで、あらゆるところでの犯罪のほとんどが、実際には西側の帝国主義に後押しされた極右政権によるものだったことが明らかになる。

 このリストには1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議や、世界中の多数の文化遺産も含まれている。

 創設当初から、西側同盟諸国はユネスコとその姿勢に対し常に嫌悪感を表していた。西側諸国は資金提供を最低ぎりぎりまで減らし、世界への影響力を削ぐために、あらゆる努力をしてきた。



 かつて国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、地球上で最も偉大な教育者、思想家、科学者、芸術家たちを結び付け、進歩的で独立した世界の頭脳のように機能しようと試みていた。

 ユネスコの初代事務局長だったジュリアン・ソレル・ハクスリーは、イギリス人の科学者で国際主義者だった。『すばらしい新世界』を著した小説家で哲学者のオルダス・ハクスリーを兄に持つ。

 ユネスコに大きな影響を与えたのは、キューバの教育システムと、マルクス主義イデオロギー、そしてアフリカと全世界で繰り広げられていた反植民地主義・反帝国主義の闘争だった。

 その歴史を通じて、ユネスコのスタッフは多くの重要な国際主義者や反帝国主義思想家で占められていた。この事実は、当然ながら西側諸国と西側寄り反帝国主義諸国を激怒させた。1956年に南アフリカはユネスコを脱退し、この国が再加盟したのは、アパルトヘイトが終わりネルソン・マンデラの指導の下での1994年のことだった。

 アメリカは1984年に「この組織は腐敗が蔓延しソビエト連邦の影響を過度に受けている」と宣言してユネスコを脱退した。「アメリカはユネスコの創設時に加盟したが、その後1984年に脱退したのは、アメリカ外交政策とユネスコの目標の食い違いが拡大したからである」と、アメリカ国務省の公式サイトに記されていた。

 1980年代には、イギリスとシンガポールも脱退した。

 この状況が変わったのは、ユネスコがいわゆる「改革」を断行してからで、特にもう一人の西側寄り下僕官僚の日本人、松浦晃一郎が事務局長(1999〜2009年)となった後である。アメリカで学んだこの日本のキャリア外交官は、パリに本拠を置くこの組織を1999年に引き継いだ。それ以来、松浦氏はアメリカの復帰に向けて絶え間なく陳情運動する一方、反帝国主義の「強硬派」幹部たちをユネスコの要職から追放した。彼の指揮下で、ユネスコは牙を抜かれ、西側に服従し、技術官僚が力を持つようになった。彼はあらゆるイデオロギー的原理をまんまと剥ぎ取ってしまった。要するに、彼はユネスコを単なる「もう一つの国連機関」に作り変えてしまったのだ。

 松浦の在任中、「我々にできることは皆無だ」と複数のユネスコ職員がパリで私に語った。「これで、おそらく我々が知るユネスコは終わった。独立を保ち進歩的な国際的抵抗運動は終わったのだ。」

 ニューヨーク・タイムズは2002年に「ユネスコの代表はいかにワシントンを再加盟に導いたか」と題する記事で以下のように報じた。

「松浦晃一郎事務局長は…3年をかけてワシントンで精力的に陳情活動し、この修復された国連機関が、…特にアメリカのために、価値ある国際フォーラムとなるであろうことを、政府と議会に説得した…松浦氏がインタビューで語ったところによると、言い換えれば、腐敗が蔓延しソビエト連邦の影響を過度に受けていると断罪して18年前に脱退したユネスコを、アメリカは外側から改革させようと出来る限りやってきたが、今や内側から同様の圧力をかけ続ける時が来たのだ。」

 ニューヨーク・タイムズはこれを皮肉や嫌味で書いたのではない。[アメリカにとっては]世界はこのように機能すべきものだったのだ。「特にアメリカのために、価値ある国際フォーラム!」 こんなもののために、この国連機関は存在していたのだろうか。一人の日本の官僚にとってはその通りだったかもしれないが、世界にとってはどうだったのか?

 イギリスは1997年、アメリカは2003年、シンガポールは2007年に再加盟した。その後のユネスコは完全に変わってしまった。



 過去においてさえ、ユネスコは国際主義的でしばしば共産主義寄りの姿勢を、周期的に放棄させられてきた。チャールズ・ドーンとクリステン・ゴドシーは学術報告書「冷戦下における識字の政治問題化〜共産主義、ユネスコ、世界銀行〜」で次のように述べた。

「冷戦時代を通じて、ユネスコ事務局長たちは、文盲を根絶するための明確な戦略を立てるとともに、識字プロジェクトを完全実施するのに必要な資金を確保すべく奮闘した。それに加えて、世界保健機関のような他の国連機関と同様に、冷戦の緊張によってアメリカからの批判に曝された。それは、ユネスコは共産主義の影響下に入っており、基礎教育という目標は「アメリカの理想と伝統に反する」というものだった。さらに、その成功が広く知られた1961年キューバの「大衆」識字運動の後、キューバと共産主義を連想させるようになった「大衆的」(つまり意識喚起のような政治社会的目標の達成を意図した識字教育を言う言葉)ではなく、(職業訓練に向けた識字教育を言う)「機能的」という言葉でユネスコの識字計画を再定義するよう、ジョンソン政権は圧力を強めた。」



 2011年にパレスチナは、107の加盟国が賛成、14カ国が反対票を投じた結果、ユネスコ加盟国となった。2011年11月4日付のイスラエルの新聞ハアレツは以下のように書いた。

「アメリカで1990年と1994年に可決された法律は、パレスチナを正式加盟国と認めるいかなる国連組織にも財政的な貢献はできないと定めている。その結果、ユネスコ予算の約22%を占めるまでになっていた資金供与を停止した。」

 すぐにイスラエルはユネスコへの支払いを凍結し、パレスチナ政府に制裁措置を課した。国連機関内部での民主主義と自治などはその程度のものだ!西側同盟諸国はまたしても明確なメッセージを送った。「言われた通りにしろ。さもないと飢え死にさせるぞ。」

 そして、ユネスコは想像しうる最悪の仕打ちを受けた。アメリカは加盟国として留まり、デマと影響力を振りまき続けたが、同時に、何十年も前に作ったアメリカ至上主義の異様な「法律」とやらの影に隠れ、支払いを拒んでいる。

 中東では、ユネスコはシリア政府と直接やり取りしようと試みているが、西側とイスラエルの権益が引き続きユネスコに入り込み、「対抗勢力」への協力を押し進めている。

 そして今、日本はさらに10パーセントの出資を停止すると脅している。

 ユネスコ職員の一人は最近の展開を憂慮している。

「現在はこの組織にとって非常に困難な時代で、もし日本が支払い拒否や減額を決定すれば、ますます厳しくなるだろう。何年も前にパレスチナがユネスコの正式加盟国になったとき、アメリカとイスラエルは出資を停止した。それは20パーセント以上の減額だった。現在日本は最大の出資国で、約10パーセントである。日本にとって、実際これは単にお金の問題ではなく、第二次世界大戦中に中国で行った忌まわしい行為を否定することなのだ。」



 私がユネスコのことを思うとき、より良い世界のため、教育と文化への権利のために闘った親しい友人たちのことを思い出す。ユネスコ職員は世界の隅々まで、西欧帝国主義に陵辱された地域にさえ、出向いて行った。職員の多くがそこへ行った理由は、彼らが真の国際主義者、真の反帝国主義者、真の革命家であったからなのだ。

 1973年9月11日にアメリカに資金援助されたアウグスト・ピノチェト将軍の軍事クーデターの直後、チリの首都サンティアゴの美しい邸宅で、ユネスコ職員がアレンデ政権の要人たちに政治亡命を提供したことも、私は覚えている。

 あの時代以来、西側とその下僕たちはユネスコをねじ曲げてしまったのだ!

 しかし全てが失われたわけではない。この組織の使命をまだ信じている人々がいる。松浦のような人々が「特にアメリカのために、価値ある国際フォーラム」へと作り変えてしまう前に存在した、最初のユネスコを取り戻すために闘う意思を持った人々がいる。

 エクアドルのラファエル・コレア大統領は、2013年11月20日、ユネスコの第37回総会で、加盟195カ国を前に演説した。彼の演説は詩的・哲学的で、ラテン的であり、この組織を初期に作っていた根源的なペーソス(悲哀)に満ちたものだった。

「ユネスコの使命は、平和を強固なものにし、貧困を根絶し、持続可能な開発と異文化間の対話を支援するために貢献することだが、これは慈善よりも正義に依拠しているのだ。もし知識が私有財産化されず人類全体への奉仕のために供されるなら、最貧国の発展を加速できるだろう。これら最貧国は慈善よりも、技能・科学・技術を切望している。現在の世界に働く力学と人類の現状を考えれば、これはユートピア主義であるという事実に、私は他の誰よりも気付いている。しかし、ユネスコはユートピアのために作られたのだ。『収奪された大地〜ラテンアメリカ五百年』を著したウルグアイ人の作家エドゥアルド・ガレアーノはかつてこう言った。『ユートピアは地平線上にある。私が2歩だけ近付くと、それは2歩だけ遠ざかる。私がさらに10歩進むと地平線は10歩逃げていく。私がいくら歩いても、そこにたどり着くことはない。ならばユートピアを目指す意味は何なのか? それはこういうことだ。歩き続けろ、と。」

 彼がモンテビデオで私に語ったように、エドゥアルド・ガレアーノにとって「ミューズ」(文芸の女神)といえるものは二つあり、それは「現実」と「ユートピア」であった。ユネスコもそれらを共有していた。

 しかし帝国主義がこれらの「ミューズ」を破壊し、かわりにニヒリズムと、西欧の「価値観」と、市場経済の実利主義を注入した。

 ユネスコ職員はこの組織の当初の価値観を守るために立ち上がるべきである。ユネスコは、ワシントンや東京のいじめっ子などではなく、もう一度人類に奉仕すべきなのだ!



 2015年11月11日に、アメリカは任期4年のユネスコ執行委員に選出された。賛成は158票だった。2011年以降支払いを拒否してきたこの国が、投票権をすでに失っていたことを考えると、それは本当に奇怪な出来事であった。


アンドレ・ヴルチェク(Andre Vltchek)は哲学者、小説家、映画制作者、調査記者である。彼はウェブサイト「Vltchek’s World」の制作者で、熱心な Twitter ユーザーであり、特にオンライン・マガジン「New Eastern Outlook」に多数寄稿している。

初出:http://journal-neo.org/2015/11/20/reformed-disciplined-and-humiliated-unesco/




参考:
「松浦改革」の詳細についてはル・モンド・ディプロマティーク2009年の記事を参照。この記事へのユネスコ事務局長官房からの抗議文(2009年10月26日)、松浦晃一郎前ユネスコ事務局長からの抗議文(2010年1月26日)も公開されている。

Tuesday, December 22, 2015

U.S. Citizens' Response to Ambassador Caroline Kennedy's Statement of Support for the Henoko Plan キャロライン・ケネディ大使の辺野古新基地支持発言に対する米国市民のレスポンス

On December 22, seventy U.S. citizens criticized Ambassador Caroline Kennedy's December 17 remark to support the plan to build a new base in Henoko, Okinawa. The signers include filmmaker Oliver Stone, linguist Noam Chomsky,  American University professor Peter Kuznick, retired Army Colonel Ann Wright, former U.S. Senator Mike Gravel, international law expert Richard Falk, and political scientist Morton Halperin. See below for the statement and the list of signers. Click HERE for PDF copy.   See here for Japan Today report. Also the Japan Times, and South China Morning Post. See Ryukyu Shimpo English page
Caroline Kennedy speaks at Japan National
 Press Club, Tokyo, December 17


12月17日日本記者クラブでの記者会見において、キャロライン・ケネディ駐日米国大使が辺野古における新米軍基地建設を支持する発言をしたことに対し70人の米国人が抗議の声を上げました。署名者の中には、映画監督オリバー・ストーン、言語学者ノーム・チョムスキー、アメリカン大学教授ピーター・カズニック、元陸軍大佐アン・ライト、元上院議員マイク・グラベル、国際法専門家のリチャード・フォーク、政治学者モートン・ハルペリンなどがいます。下方に日本語対訳付きで声明文を掲載しました。

日本語の報道は―共同通信時事通信。 共同の記事は多くの地方紙に取り上げられた。24日の東京新聞朝刊2面、同日沖縄タイムスは1面トップと社会面で特集、琉球新報は1面に報道、7面で声明日本語訳全文と署名者リストを掲載。あとは東京新聞に独自記事


(日本語訳は参考訳です。)

U.S. Citizens’ Response to Ambassador Caroline Kennedy’s Statement of Support for the Henoko Plan
キャロライン・ケネディ大使の辺野古新基地支持発言に対する米国市民のレスポンス

In her December 17 press conference at the Japan National Press Club in Tokyo, U.S. Ambassador to Japan Caroline Kennedy faithfully parroted the Obama administration’s contention that Henoko is the best place for the new U.S. marine base in Okinawa.
12月17日、日本記者クラブ(東京)における記者会見で、キャロライン・ケネディ駐日米国大使は、辺野古が沖縄における米国海兵隊の新基地の場所として最善であるとのオバマ政権の主張を忠実に繰り返した。

After cordial comments about the U.S. striving to “be good neighbors” and being “mindful” of the impact on the local communities of the dozens of U.S. bases that occupy almost 20 percent of the land mass of Okinawa Island, Kennedy declared her support for the base that Okinawans have been protesting against tirelessly and in the face of brute physical force and intimidation for hundreds of days.
米国が「よき隣人」であろうと努力しており、また[沖縄本島の約20%を占める何十もの米軍基地の]地域社会への影響については「気を配る」という丁寧なコメントをしたあと、ケネディ大使は、沖縄の人々が容赦ない実力行使と威嚇にもかかわらず何百日も抗議活動をしている基地に対しての支持を表明した。

Asked what she thinks about the Okinawan people’s opposition to the base construction and if the U.S. would consider an alternative plan, Kennedy replied: “People worked very hard, considered many options and developed this plan [for closing and relocating the U.S. marine base currently located in densely populated Ginowan] that I think is the best of any other plan that was considered.”
[訳者註:記者会見で]基地建設に対する沖縄の人々の反対についてどう思うか、また、米国は代替案を検討するだろうかとの問いに対しケネディ大使は「この計画[現在人口の密集する宜野湾に位置する米海兵隊基地を閉鎖し移設するための]は人々が大変懸命に努力し、多くの選択肢を検討し、練り上げてきたものだ。だから私は今まで検討された計画でこれが最善のものと思っている」と答えた。

Kennedy’s statement that the U.S. wants to close Futenma and build at Henoko as fast as possible is at once a threat, an insult and a challenge for the vast majority of Okinawans who are vehemently opposed to the plan and the brazen disregard for the law, the environment, and the outcome of elections. MCAS Futenma must be closed, but moving it to Henoko isn’t the solution. It merely shifts the problem to a less conspicuous location, introducing environmental and safety threats to another part of the island and reinforcing Okinawa’s role as a U.S. military bastion.
米国が普天間基地を閉鎖し辺野古に基地建設を一刻も早くすることを欲しているというケネディ大使の発言は、この計画に激しく反対してきた沖縄の圧倒的多数の人々に対する脅威、侮辱、挑戦であり、同時に法律、環境、選挙結果を恥ずかしげもなく軽視する行為である。普天間基地は閉鎖されなければならないが、辺野古に移設することは解決策とはならない。この計画はより人目のつかない場所に問題を移動するだけであり、島の別の場所に新たな環境・安全面の脅威を導入し、沖縄の米軍拠点としての役割を強化するものだ。

Kennedy signed the Press Club’s guest book, quoting a JFK statement about press freedom. She should instead have selected a quote from President Kennedy's 1963 American University Commencement Address in which he offered a powerful and compelling argument for world peace.
ケネディ大使は、日本記者クラブのゲストブックに、ジョン・F・ケネディ元大統領による報道の自由についての発言を引用しながら署名した。しかし大使が引用するべきはむしろ、ケネディ元大統領が世界平和について強力で説得力のある主張を行った、1963年アメリカン大学における卒業式スピーチだったのではないか。

 “Every thoughtful citizen who despairs of war and wishes to bring peace,” President Kennedy said, “should begin by looking inward — by examining his own attitude toward the possibilities of peace…”
ケネディ元大統領は言った。「戦争に絶望し、平和をもたらすことを望む思慮深い市民は誰でも、まず内面を見ることから始めるべきだ―平和の可能性への自らの態度を調べることを……」

Ambassador Kennedy serves as a public microphone for U.S. elected officials, policymakers, and military leaders who have neither the guts nor the gumption to honestly or honorably address the concerns of Okinawans. She should reread her father’s speech wherein he rejects a “Pax Americana enforced on the world by American weapons of war.”
ケネディ大使は、沖縄の人々の懸念に対し、誠実に尊厳をもって取り組む勇気も度胸も持たないような、米国の選挙で選ばれた公職者、政策立案者、軍の指導者たちの代弁者としての役割を果たしている。大使は父親が「アメリカの軍事力によって世界に強制的にもたらされるパクス・アメリカーナ」を拒絶したスピーチをもう一度読むべきだ。

If she were to do so, Ambassador Kennedy would be reminded that her father asked, “Is not peace, in the last analysis, basically a matter of human rights — the right to live out our lives without fear of devastation — the right to breathe air as nature provided it — the right of future generations to a healthy existence?”
もし再読したならばケネディ大使は父親が「つまり平和とは、基本的に、荒廃の恐怖を感じることなく生活できる権利、自然の空気をそのまま呼吸する権利、将来の世代まで健全に存続する権利といった、人権に関する問題ではないか」と問うたことを思い起こすことだろう。

Because those words still have meaning to us, as U.S. citizens we insist that Washington stop denying basic human rights, including self-determination and living in a healthy, safe environment, to the citizens of Okinawa.
これらの言葉は我々にとってまだ意味があるがゆえに、我々は米国市民として、米国政府が、自己決定権、健全で安全な環境で暮らす権利を含む、沖縄の市民の基本的人権を否定することを止めるよう強く要求する。

December 22, 2015

1.         Christine Ahn, Women Across DMZ
クリスティーン・アン 「DMZをわたる女性たち」
2.        Gar Alperovitz, Co-Chair The Next System Project, former Lionel R. Bauman Professor of Political Economy, University of Maryland
ガー・アルペロビッツ、「ネクスト・システム・プロジェクト」共同代表、メリーランド大学政治経済学元教授
3.        Christian G. Appy, Professor of History, University of Massachusetts
クリスチャン・G・アッピー、マサチューセッツ工科大学歴史学教授
4.        Sandi Aritza, Translator
サンディ・アリッツァ、翻訳家
5.        Davinder Bhowmik, Associate Professor of Modern Japanese Literature, University of Washington
ダビンダー・ボウミック、ワシントン大学近代日本文学准教授
6.        Herbert Bix, Emeritus Professor of History and Sociology, State University of New York at Binghamton
ハーバート・ビックス、ニューヨーク州立大学ビンガムトン校歴史学・社会学名誉教授
7.         Courtney B. Cazden, Professor Emeritus, Harvard University
コートニー・B・キャズデン、ハーバード大学名誉教授
8.        Noam Chomsky, Professor Emeritus of Linguistics, Massachusetts Institute of Technology
ノーム・チョムスキー、マサチューセッツ工科大学言語学名誉教授
9.        Marjorie Cohn, Professor, Thomas Jefferson School of Law
マージョリー・コーン、トーマス・ジェファーソン法科大学院教授
10.     Elizabeth Cori-Jones,  M.Ed. (Harvard)
エリザベス・コリ―ジョーンズ、教育学修士(ハーバード大学)
11.      Frank Costigliola, Professor of History, University of Connecticut
フランク・コスティグリオラ、コネチカット大学歴史学教授
12.     Fr Bob Cushing, Pastor at St Joseph Church, Georgia
ボブ・クッシング、セント・ジョセフ教会(ジョージア州)神父
13.     Sasha Davis, Assistant Professor, Keene State College
サーシャ・デイビス、キーン州立大学助教授
14.     Jean Downey, M.A., J.D., Contributing Editor, Kyoto Journal
ジーン・ダウニー、M.A., J.D.,『京都ジャーナル』寄稿編集者
15.     Alexis Dudden, Professor of History, University of Connecticut
アレクシス・ダデン、コネチカット大学歴史学教授
16.     Richard Falk, Milbank Professor of International Law Emeritus, Princeton University
リチャード・フォーク、プリンストン大学国際法名誉教授
17.      John Feffer, Director, Foreign Policy In Focus
ジョン・フェッファー、『フォーリン・ポリシー・イン・フォーカス』ディレクター
18.     Norma Field, Professor Emerita, University of Chicago
ノーマ・フィールド、シカゴ大学名誉教授
19.     Max Paul Friedman, Professor of History, American University
マックス・ポール・フリードマン、アメリカン大学歴史学教授
20.    Bruce K. Gagnon, Coordinator, Global Network Against Weapons & Nuclear Power in Space
ブルース・ギャグノン、「宇宙への兵器と核エネルギーの配備に反対する地球ネット」コーディネーター
21.     Daniel H. Garrett, Former US Department of State Foreign Service Officer; Senior Associate, The Asia Institute
ダニエル・H・ギャレット、元国務省外交局職員、アジア・インスティテュート研究員
22.    Joseph Gerson, PhD, Working Group for Peace & Demilitarization in Asia and the Pacific
ジョセフ・ガーソン(PhD)、アジア太平洋平和と非軍事化ワーキンググループ
23.    Gary R. Goldstein, Professor, Tufts University
ゲリー・ゴールドスタイン、タフツ大学教授
24.    Mike Gravel, U.S. Senator (1969-1981)
マイク・グラベル、元米国上院議員(1969-1981)
25.    Mel Gurtov, Professor Emeritus of Political Science, Portland State University
メル・ガートフ、ポートランド州立大学政治学名誉教授
26.    Morton H. Halperin, Political Scientist
モートン・ハルペリン、政治学者
27.     Laura Hein, Professor Northwestern University
ローラ・ハイン、ノースウェスタン大学教授
28.    Dud Hendrick, Deer Isle, Maine, Member of VFP 2015 delegation to Okinawa
ダッド・ヘンドリック(メイン州デア・アイル)2015年「平和のための退役軍人会」沖縄派遣団メンバー
29.    Mickey Huff, Professor of History, Diablo Valley College, Director of Project Censored
ミッキー・ハフ、ディアブロ・バリー・カレッジ歴史学教授、「プロジェクト・センサード」ディレクター
30.    Pat Hynes, Director, Traprock Center for Peace and Justice, Massachusetts, USA
パット・ハインズ、「トラップロック・センター・フォー・ピース・アンド・ジャスティス」(マサチューセッツ州)ディレクター
31.     Kyle Ikeda, Associate Professor of Japanese, University of Vermont
カイル・イケダ、バーモント大学日本語准教授
32.    Vincent Intondi, Associate Professor of History, Montgomery College
ビンセント・イントンディ、モンゴメリー・カレッジ歴史学准教授
33.    Xeni Jardin, Technology Journalist
ゼニ・ジャーディン、テクノロジー・ジャーナリスト
34.    Rebecca Jennison, Dept. of Humanities, Kyoto Seika University
レベッカ・ジェニソン、京都精華大学人文学部
35.    John Junkerman, Documentary Filmmaker
ジャン・ユンカーマン、ドキュメンタリー映画監督
36.    Sheila K. Johnson, Anthropologist
シーラ・K・ジョンソン、人類学者
37.     Kyle Kajihiro, Board Member, Hawaiʻi Peace and Justice
カイル・カジヒロ、「ハワイ・ピース・アンド・ジャスティス」理事
38.    Tarak Kauff, Veterans For Peace, Board of Directors
タラック・カウフ、「平和のための退役軍人会」理事
39.    Peter Kuznick, Professor of History, American University
ピーター・カズニック、アメリカン大学歴史学教授
40.    Barry Ladendorf, National President, Veterans for Peace
バリー・レイデンドーフ、「平和のための退役軍人会」全国会長
41.     Joe Lauria, former Wall Street Journal United Nations correspondent
ジョー・ローリア、元『ウォール・ストリート・ジャーナル』国連担当記者
42.    Jon Letman, Journalist
ジョン・レットマン、ジャーナリスト
43.    Stanley Levin, Korean War Veteran and member of the VFP 2015 delegation to Korea
スタンリー・レビン、朝鮮戦争退役軍人、「平和のための退役軍人会」2015年韓国派遣団メンバー
44.    C. Douglas Lummis, Visiting Professor, Okinawa Christian University Graduate School
C・ダグラス・ラミス、沖縄キリスト教大学大学院客員教授
45.    Catherine Lutz, Professor, Brown University
キャサリン・ルッツ、ブラウン大学教授
46.    Andrew R. Marks, M.D., Professor of Columbia University
アンドリュー・R・マークス、M.D.、コロンビア大学教授
47.     Kenneth E. Mayers, Major USMCR (Ret’d), Member of the VFP 2015 Delegation to Okinawa
ケネス・E・メイヤーズ、米海兵隊予備役(退役)、「平和のための退役軍人会」2015年沖縄派遣団メンバー
48.    Yosi McIntire, lifetime student
ヨシ・マッキンタイア、生涯の学生
49.    Katherine Muzik, Marine Biologist, Kaua'i
キャサリン・ミュージック、海洋生物学者(ハワイ州カウアイ島)
50.    Khury Petersen-Smith, doctoral candidate, Clark University School of Geography, Massachusetts
クリー・ピーターソン―スミス、クラーク大学(マサチューセッツ)地理学部博士課程在籍
51.     Robert Naiman, Policy Director, Just Foreign Policy
ロバート・ナイマン、「ジャスト・フォーリン・ポリシー」政策ディレクター
52.    Koohan Paik, Program Director, International Forum on Globalization
クーハン・パク、「グローバライゼーションを考える国際フォーラム」プログラム・ディレクター
53.    Samuel Perry, Associate Professor, Brown University
サミュエル・ペリー、ブラウン大学准教授
54.    Margaret Power, Professor of History, Illinois Institute of Technology
マーガレット・パワー、イリノイ工科大学歴史学教授
55.    Craig Quirolo, Founder, Rape Relief
クレイグ・キロロ、「レイプ・リリーフ」創立者
56.    Steve Rabson, Professor Emeritus, Brown University
スティーブ・ラブソン、ブラウン大学名誉教授
57.     Betty A. Reardon. Ed.D., Founding Director Emeritus, International Institute on Peace Education
ベティ・A・レアドン、Ed.D., 「平和教育に関する国際研究所」創立者
58.    Lawrence Repeta, Member, Washington State Bar Association
ローレンス・レペタ、ワシントン州弁護士会メンバー
59.    Coleen Rowley, retired FBI Agent and former Minneapolis Division Legal Counsel
コリーン・ラウリー、元FBI捜査官およびミネアポリス支部顧問弁護士
60.    Arnie Saiki, Moana Nui Action Alliance
アーニ・サイキ、「モアナ・ヌイ・アクション・アライアンス」
61.     Pete Shimazaki Doktor, Hawai`i Okinawa Alliance & Veterans for Peace Ryukyu Working Group co-founder
ピート・シマザキ・ドクター、「ハワイ・沖縄アライアンス」、「平和のための退役軍人会」琉球ワーキンググループ共同創立者
62.    Tim Shorrock, Journalist and trade unionist
ティム・ショロック、ジャーナリストおよび労働運動家
63.    Alice Slater, World Beyond War, Coordinating Committee
アリス・スレーター、「ワールド・ビヨンド・ウォー」調整委員会
64.    John Steinbach, Hiroshima/Nagasaki Peace Committee of the National Capital Area to the Citizen's Response
ジョン・スタインバック、「首都エリアヒロシマ・ナガサキ平和コミティー」
65.    Oliver Stone, Academy Award-winning Filmmaker
オリバー・ストーン、アカデミー賞受賞映画監督
66.    David Swanson, Author
デイビッド・スワンソン、著述業
67.     Roy Tamashiro, Professor, Webster University
ロイ・タマシロ、ウェブスター大学教授
68.    Eric Wada, Ukwanshin Kabudan Director, President
エリック・ワダ、御冠船歌舞団ディレクター、会長
69.    Lawrence Wittner, Professor of History Emeritus, State University of New York at Albany
ローレンス・ウィットナー、ニューヨーク州立大学アルバニー校歴史学名誉教授
70.    Ann Wright, retired US Army Reserve Colonel and former US diplomat who resigned in 2003 in opposition to the Iraq War
アン・ライト、退役米国陸軍大佐、元外交官(2003年イラク戦争に反対して辞職)

(In the alphabetical order of family names)

追記:この「レスポンス」発表後に届いた署名を以下、賛同順に記します。Below are signatures that arrived after the release of the statement. 

Michael Minch, Professor of History, Utah Valley University
マイケル・ミンチ、ユタ・バリー大学歴史学教授

BeauRyan Kiyoshi Kennedy, Account Manager
ボーライアン・キヨシ・ケネディ、経理職

John Decker, President, ISHECI
ジョン・デッカー、 ISHECI会長

Noriko Oyama, Director, ISHECI
ノリコ・オーヤマ  ISHECIディレクター

Brandon Ing, English (as a foreign language) teacher
ブランドン・イング、英語(外国語としての)教師



12月31日追記:『沖縄タイムス』12月30日に平安名純代記者によるこのアクションについてのコラムが出ました。