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Sunday, June 30, 2013

沖縄とは私達にとって何か:鹿毛達雄(在バンクーバー歴史家・人権活動家)

カナダの日系人を主な対象とした月刊誌『The Bulletin 月報』7月号に、地元の歴史家・人権活動家鹿毛達雄さんが『沖縄の〈怒〉 日米への抵抗』の書評を書いていただきました。ここに紹介します。

鹿毛さんは、日系カナダ人の歴史に詳しく、著書に、『日系カナダ人の追放』(明石書店、1998年)があります。

このサイトの鹿毛達雄さん関連記事:

ワークショップ『撫順の奇蹟』(英語)
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2006/11/miracle-in-fushun-workshop-by-tatsuo_28.html
Living Throught History (鹿毛さんを囲んだピース・フィロソフィー・サロン報告-英語)
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2009/12/living-through-history-salon-with.html
カナダにおける日中対話のこころみ(日本語)
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2013/01/blog-post.html

Monday, June 24, 2013

【憲法を知りたい人必読】2007年4月放送NHKスペシャル『日本国憲法誕生』書き起こし

2007年4月29日放送NHKスペシャル『日本国憲法誕生』は第一次安倍内閣下の改憲への動きの中で作られました。今、再び安倍自民党政権となり、改憲が議論されている中、「改憲を語る前に憲法がもっと知りたい」という声が高まっています。このNHKスペシャルは日本国憲法制定の過程を数々の証言や機密解除された史料をもとにドキュメントした貴重な番組であり、憲法を学びたい人には最適の教材ですので、ここに書き起こしを紹介します。担当してくれたモントリオールの長谷川澄さんに感謝します。@PeacePhilosophy

『日本国憲法誕生』はDVDで販売されている。


NHKの番組紹介サイトより:

日本国憲法はどのようにして生まれたのか?

いま、憲法を考える!

日本国憲法誕生の舞台裏を当時の資料と関係者のインタビューにより詳細に検証!
憲法第九条成立までの経緯も明らかに。

それまでの天皇中心の国のありかたを根本から変えることになった日本国憲法。国民主権・戦争放棄を謳った憲法誕生の背景を追うほか、日本人の発案で自発的に修正・追加された条文や、第九条の修正をめぐる経緯を詳細に紹介します。また当時を知る関係者のインタビューや各国に残る貴重な記録をもとに、舞台裏で繰り広げられたGHQと日本政府の交渉と、それを見つめる国際社会の声を再現。日本国憲法誕生をめぐる激動の1年に迫ります。

「これは極秘だったのです。GHQの中でも他の人としゃべっちゃいけなかったんです、憲法のことを。」(当時のGHQ関係者のインタビューより)

・プロローグ
・ポツダム宣言受諾から始まった憲法改正
・極東委員会誕生と天皇制をめぐる状況
・GHQの極秘草案作成
・GHQ草案、提示される
・条文をめぐる政府とGHQの徹夜交渉
・憲法改正草案の発表と極東委員会の反発
・“主権”をめぐる政府とGHQの攻防
・追加された「生存権」と「義務教育の延長」
・九条の修正はこうして生まれた
・九条修正に対する極東委員会の反発と文民条項導入
・エピローグ・新憲法公布

以下、書き起こしです。
 
NHKスペシャル『日本国憲法誕生』

(ラジオ放送)­­­5月3日の宮城前広場、新しい憲法がいよいよこの日から実施される記念の式典が雨にもめげぬ多くの都民や国会議員・・・

今から60年前、戦後日本の礎となる新憲法が施行されました。

「日本国憲法」、明治以来続いた、天皇中心の国の在り方を根本から変えることになりました。その第一条には、天皇は日本国の象徴であるとされ、主権が国民にあることが定められました。更に、第九条には、戦争の放棄が謳われ、平和主義が打ち出されました。国民主権と戦争の放棄の条文はどのようにして誕生したのか。憲法はGHQ(連合国軍総司令部)の占領下で作られました。マッカーサーの下、GHQのスタッフが僅か一週間で草案を作成したのです。

GHQ職員(当時):「これはね、極秘だったんです。だから、本当に誰にも、何も言えなかったんです、私たち。GHQの中でも、他の人としゃべっちゃいけなかったんです、憲法のこと。」

GHQの草案を基に生まれたとされる日本国憲法、しかし、新たな資料が公開され、日本人の発案で条文が修正、追加されたことが分かってきました。生存権や義務教育の延長などが議会での自発的な提案によって実現しました。更に、戦争の放棄を規定した第九条の修正を巡る経緯も浮かび上がってきました。日本の憲法改正は海を越えたワシントンで、新たな議論を呼び起こします。日本の占領政策を管理する極東委員会、GHQ主導の憲法改正に対する不満が高まっていました。特に中国やソヴィエトの代表は九条の修正が日本の再軍備に繋がると危機感を顕わにします。

極東委員会中国代表(当時):字幕「連合国の間には、依然として日本への不信感がありました。日本が再び極東の軍事的脅威になるのを防ぐにはどうすればいいか、皆で議論していたのです。」

憲法誕生の舞台裏で繰り広げられた、GHQと日本政府の交渉、そして、それを見つめ続けた国際社会。日本国憲法がうまれるまでの一年を追いました。

(ラジオ放送)耐えがたきを耐え、偲びがたきを偲び・・・

1945年、昭和20年8月15日、敗戦。日本はポツダム宣言を受け入れ、降伏しました。8月30日、連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーが厚木に降り立ちます。日本の非軍事化、民主化という使命を帯びていました。

9月27日、マッカーサーは昭和天皇と会見。天皇を占領政策の中で、どのように位置づけるのか、大きな課題でした。大日本帝国憲法、所謂、明治憲法、“天皇は神聖にして、侵すべからず”とされ、陸海軍を統帥し、統治権の全てをにぎっていました。

当時、GHQは占領政策の中で日本の憲法をどのように扱おうとしたのか、終戦直後、来日し、GHQに勤務することになったミルトン・エスマン氏。エスマン氏は後にGHQで憲法草案の作成に関わることになります。

(ニューヨーク州のエスマン氏宅訪問。GHQ時代の表札を見せる)

(吹き替え)「明治憲法は改正するだけでなく、解体する必要がありました。我々は当初、日本の非軍事化と民主化という基本的条件を満たす憲法草案を日本政府が自ら作成することを期待していました。その方が我々にとっても、望ましいと考えていたのです。」

当初、日本政府が憲法改正を行うことを望んでいたと言うGHQ. 10月11日、マッカーサーは、総理大臣に就任したばかりの幣原喜重郎と面談します。マッカーサーは憲法の自由主義化は避けられないとして、憲法改正に取り組むよう幣原に示唆しました。マッカーサーの要望を受けて、政府は憲法問題調査会を設置し、憲法学者や官僚をメンバーに明治憲法の改正が必要かどうか研究を始めました。委員長は松本丞治国務大臣。松本は天皇の統治権を維持し、天皇中心の国家体制、所謂、国体護持を最優先課題に掲げます。

政府に憲法改正を促す一方、マッカーサーは言論の自由化を進め、これまでタブーとされてきた天皇に関する議論も解禁しました。政党が復活し、活動を開始し、国体護持を掲げる保守政党から、天皇制廃止を訴える共産党まで、憲法の改正を巡る論議が活発化、民間からも様々な憲法草案が公表されます。GHQは憲法に関する日本の世論を注視していました。民間の草案を英訳し、分析を始めます。アメリカのトルーマンライブラリーにGHQで憲法問題を担当した将校の証言テープが保管されています。マイロ・ラウエル中佐、民政局法規課長として、GHQが憲法草案を作成する際、中心的な役割を果たした人物です。

(字幕)「私は民間グループから提出された憲法に感心しました。これで、憲法改正が大きく進展すると思いました」

ラウエルが注目した憲法草案、民間の『憲法研究会』というグループが作成したものです。そこには日本国の統治権は日本国民より発すとあり、国民主権が明確に謳われていました。男女平等や言論の自由など、基本的人権を保障し、平和主義の思想も盛り込まれています。憲法研究会は戦前から言論界で活躍してきた学者やジャーナリストがメンバーです。その殆どが言論統制で投獄されたり、執筆の場を奪われたりしてきました。執筆した論文がもとで東大を追われた経済学者の森戸辰男、『憲法研究会』で、“天皇は君臨すれども統治せず”とし、政治的権限を持つべきではないと主張しました。『憲法研究会』の草案で、天皇は次のように位置付けられています。“天皇は国民の委任により、専ら国家的儀礼を司る”草案を詳細に分析したラウエルは報告書を作成、マッカーサー直属の参謀長に提出します。報告書の中で、ラウエルはここに含まれる条文は民主的で受け入れられる(democratic and acceptable)と記しています。

ラウエル(字幕):「私はこの民間草案を使って、若干の修正を加えれば、マッカーサー最高司令官が満足し得る憲法ができると考えました。それで、私も民政局の仲間たちも安心したのです。これで、憲法ができると」

GHQは民間草案を分析しながら、日本政府から憲法改正案が提出されるのを待っていました。GHQが主導する日本の占領政策、これに激しく反発したのがソヴィエトでした。12月、モスクワでソヴィエト、アメリカ、イギリス、三カ国の外相会議が開かれます。ここで、日本の占領を共同で管理する連合国の新たな組織が設置されることになりました。極東委員会です。これまで占領政策はアメリカ政府の下、GHQが実施していました。しかし、極東委員会が発足すると、GHQはその管理下に置かれます。憲法改正には極東委員会の事前の承認が必要となったのです。ソヴィエトや中国など、日本との戦争に参加した11カ国で構成される極東委員会。その発足は1946年2月下旬と決まりました。極東委員会には天皇制に厳しい意見を持つ国も在りました。太平洋戦争で4万人の戦死者を出したオーストラリア。今年、91歳になるハロルド・ブロック氏は極東委員会代表を務めていました。

ハロルド・ブロック(吹き替え):「オーストラリアは戦争中の天皇の役割に対して、とても批判的な考えを持っていました。天皇は、日本の軍隊と密接な関係があったと見なしていたからです。少なくとも、天皇を戦犯として調査し、裁判にかけるべきだと考えていました」 

1946年1月、オーストラリアは天皇を含む、戦犯容疑者のリストを連合国戦争犯罪委員会に提出、天皇訴追に向け動き出します。1月24日、首相の幣原喜重郎がマッカーサーを訪問しました。天皇を巡る緊迫した状況が続く中、二人だけで行われたこの会談。そこで一体、何話されたのか。会談の内容を伝える資料が残されていました。枢密院顧問の大平駒槌が幣原首相から会談の内容を聞き、娘がそれを書き残していました。幣原首相が先ず、次のように切り出します。

(資料)

幣原:自分は生きている間に、どうしても天皇制を維持させたいと思うが、協力してくれるか。

マッカーサー:天皇制は廃止すべきだとの強力な意見も出ているが、一滴の血も流さず、進駐できたのは、全く日本の天皇の力に因ることが大きい。出来るだけのことは協力したい。  

戦前、外交官として、国際協調に努めた幣原首相、次のように述べました。 

(資料):世界から信用を失くしてしまった日本にとって、「戦争を放棄する」と言うようなことをはっきりと世界に声明すること、それだけが日本を信用してもらえる唯一の誇りとなることじゃないだろうか。 
ノートには“大いに二人は共鳴した”と記されています。マッカーサーは後に、この会談で、幣原首相が憲法の中に戦争放棄の規定を入れるように努力したいと述べたと証言しています。このノートには憲法に関する幣原の提案は記されていません。

翌25日、マッカーサーはワシントンに宛て極秘の書簡を送ります。

(書簡、翻訳):天皇を訴追すれば、日本人の間に激しい混乱を引き起こし、占領軍を大幅に増員しなければならなくなる。最低でも、100万の軍隊が必要となるであろう。

天皇は占領政策に必要と考えるマッカーサー。しかし、一ヶ月後に極東委員会が発足すれば、天皇に対する厳しい意見も考慮しなければなりません。GHQは日本政府に憲法草案を早く提出するよう再三にわたって求めました。

2月1日、衝撃的なニュースが報じられました。毎日新聞が政府の憲法問題調査委員会の改正案をスクープしたのです。明治憲法の根本原則を変えず、天皇の統治権はそのまま認められていました。GHQは直ちに改正案を翻訳し、条文を詳細に分析、次のように批判しています。“天皇の行為が制限されていない”“極めて保守的である”

2月4日午前10時、GHQ民政局のスタッフが緊急招集されました。集まったのは、法律や行政を担当するメンバー二十人余り。会議の冒頭、ホイットニー民政局長がこう告げました。“マッカーサー元帥は日本国民のために新しい憲法を起草するという歴史的意義のある任務を民政局に委ねられた” 与えられた時間は僅か一週間。日本政府だけでなく、GHQのほかの部署にも話すことは許されませんでした。

GHQ民政局員(当時)ミルトン・エスマン(吹き替え):「とても衝撃を受けました。大国の一つである日本のために我々のような小さなグループが新しい憲法を作成するという任務を任される事になったのですから。我々がそのような職務を遂行することになるなんて思いもしませんでした」

極東委員会の発足まで、あと一月を切っていました。マッカーサーは極東委員会が動き出す前にGHQ主導で草案を作成することを決断したのです。マッカーサーは新憲法の基本原則を示しました。所謂、『マッカーサーノート』です。

その一番目は天皇に関するものでした。天皇は“at the head of the state”、“国の最上位”にある。二番目には現在の憲法9条に繋がる戦争の放棄が定められていました。“国権の発動たる戦争は廃止する。日本は紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。日本はその防衛と保護を今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は将来も与えられることは無く、交戦権が日本軍に与えられることも無い“この中で、マッカーサーは自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄すると規定、自衛戦争までも否定していました。マッカーサーノートを基にした条文の作成。その中心となったのが運営委員会でした。

メンバーは日本の憲法を研究していたラウエル、そして、ケーディスとハッシーの三人。いずれも、弁護士としての経験を積み、自由主義的な思想を持っていました。運営委員会のメンバーで、民政局次長のチャールズ・ケーディス。ケーディスはマッカーサーノートの自衛戦争を否定した箇所を削除したと言います。ケーディスはその理由を生前、次のように答えています。
 
(吹き替え):「マッカーサーノートの条文は、日本が攻撃された時に防衛する権利さえも奪っているように思われました。どんな国であれ、自衛の権利は本来的に持っていて当然のものです。自国が攻撃されたら、自分で守るという権利を否定するのは非現実的だと思ったのです」

その一方で、ケーディスは“武力による威嚇、または武力の行使をも放棄する”という一文を加え、侵略戦争否定を明確にしたのです。戦争の放棄の条文は次のようになりました。“国権の発動たる戦争は廃止する。いかなる国であれ、他の国との間の紛争解決の手段としは、武力による威嚇、または武力の行使は永久に放棄する”

アメリカ、ミシガン大学に運営委員会のハッシー中佐の内部文書が保管されています。GHQがもっとも留意したのが天皇制でした。マッカーサーノートに記されていた、最上位を意味する“Head”が、象徴を意味する“Symbol”に書き換えられました。

チャールズ・ケーディス (吹き替え):「国の最上位と言う言葉は天皇が絶対的支配者として権力を持っていることを意味すると見なされる恐れがありました。それは連合国が拒絶していたことでした。政治的権限を持たせないという意味で象徴という言葉に換えたのです。」

象徴天皇、そして、戦争の放棄、新しい理念が盛り込まれて行きます。GHQはアメリカやフランスなど世界各国の憲法に加え、日本の民間草案も参考にしたと言います。ラウエルは次のように証言しています。

質問者:「(民間の『憲法研究会草案』について)ケーディスたちと話し合ったことはありますか?」
 
「確かにしました。『憲法研究会の草案』に関する私のレポートをケーディスと議論し、ホイットニー准将に提出する前にかれの承認を受けたはずです。私たちは、確かにこれを使いました。私は使いました。意識的あるいは無意識的に影響をうけたことは確かです。」

ラウエル、ケーディス等、運営委員会の下に、テーマ毎に七つの小委員会が設けられ、総勢25人が分業体制で条文の作成にあたりました。

 (1、天皇、条約、授権規定、2、財政、3、地方行政、4、司法権、5、人権、6、行政権、7、立法権)

草案作りで、一番多くの条文を作成したのが人権に関する小委員会でした。そのメンバーで、女性の人権を担当したのがベアテ・ゴードンさんです。当時、22歳の若さでした。

ベアテ・ゴードン(83歳):(子どもの頃の写真を見せながら)「私はここ。ね、ここに私、日本の子供たちといっしょにね、遊んでいるでしょう?」

「日本の子ども達と遊んでいらしたんですか?」ゴードン:「勿論!」

ベアテさんはピアニストをしていた父親の仕事の関係で、5歳から15歳まで、日本に暮らしていました。

ゴードン:「私はずいぶん、まあ十年くらい、日本にいたので、自分の目で見たんですよね。そう、あの女性が圧迫されて、大変だったということ、よく知っていたんです。だから、私は特別に女性のために何かしたかった、そういう感じだったです。ええ、子どもの時にですね、好きじゃない人と無理に結婚することは、ああ、大変だと思ったんです。だから、そのこと、ずいぶん、多分、私の頭に入っていたんですよ、小さい時からずっと。だから、その女性の権利を書く時に、その案に一番最初のことは結婚のことなんです。私が書いたのは。だから、多分、それは私の頭にずっとあったんですよ。」

ベアテさんが書いた女性の人権の条文です。

“婚姻は両性が法律的にも社会的にも平等であることは争うべからざるものであるとの考えに基礎をおき、親の強制ではなく、相互の合意に基づき、且つ、男性の支配ではなく、両性の協力により、維持されなければならない。”

男女平等を規定したこの条文は、現在の憲法に生かされることになります。

212日、1192条からなるGHQ草案が完成しました。

213日午前10時、外務大臣官邸で、日本政府とGHQとの会談が行われました。松本国務大臣と吉田外務大臣は自ら作成した改正案への回答を聞けると思っていました。GHQの記録に因れば、民政局長ホイットニーはこう述べました。

(翻訳):「あなた方の憲法改正案は自由と民主主義の文書として、受け入れることは全く不可能です」会談に同席したケーディスに因れば、ホイットニーはGHQ案を受け入れるよう求め、次のように述べました。

(吹き替え)「マッカーサー元帥は天皇制に対する連合国の批判に耐え切れなくなるかも知れない。しかし、我々の草案の基本原則を受け入れれば、天皇の身は安泰になるであろう」さらに、ホイットニーは付け加えました。「逆に、あなた方、日本政府が拒否すれば、マッカーサー元帥は、この草案を日本国民に公表し、国民投票にかける事を決断されました」                  

日本政府はGHQ草案を極秘に検討します。

222日、幣原首相は、天皇制を守るためにGHQ草案の受け入れは避けられないと決断。GHQ草案を基にして、およそ2週間で政府案を作成するよう指示しました。政府案の起草は松本国務大臣と内閣法制局の佐藤達夫を中心に極秘で進められました。佐藤はこれ以後、条文の作成だけでなく、GHQとの度重なる交渉など、憲法制定において、中心的な役割を担うことになります。国立国会図書館。ここに佐藤が憲法成立の経緯について、昭和30年に語った録音テープが残されています。

録音テープ:­­­­­­­私自身はその時、初めて、そういう案の概要を見まして、全然これは、我々が憲法問題調査委員会で作った案とは内容が違う。で、まあ、非常に衝撃を受けました。こういうものを今、松本さんから言い渡されたような短い期間に、一体、日本式な形に書き上げられるものかどうかということについて、非常な疑問を持った訳でありますけれども、何れにせよ、寸刻を争うと言うことですからして、早速、それを持ち帰って、検討に入った訳であります。

英語で書かれた条文を日本文に整理していく作業。佐藤たちは出来る限り、これまでの日本の法律用語に合うよう微妙に表現を書き換えていきました。3月4日、佐藤はGHQからの催促を受け、当初の予定より一週間早く、政府案を持って、GHQに向いました。この時、既にワシントンでは、極東委員会が発足していました。英語に翻訳する間もなく、日本文のまま、政府案を民政局に渡した佐藤。ケーディス等が、一文一文翻訳し、検討を始めました。天皇に関する条文が微妙に変えられていることが分かり、激しい議論になります。

問題になったのはGHQ草案では“天皇の国事行為は、内閣の助言と同意を要する”となっていた条文でした。この条文を日本政府は、明治憲法に倣って、“内閣の輔弼による”と変えていたのです。GHQとの交渉を一手に担ったのが佐藤でした。佐藤の回想に因ると、この“助言と同意”という言葉を巡って、ケーディスとの間で激しい応酬が繰り広げられたと言います。

(佐藤達夫の回想より再現映像)ケーディス:「GHQの草案には“助言と同意”とあるにも関わらず、日本案には、“輔弼”だけしか出ていない。許可とか、承認とかいう意味の言葉を加えることが必要だ」 佐藤:「輔弼の語には結局、同意の意味も含まれていると言い得るし、これで充分だ」

しかし、ケーディスは、天皇に関する条文はGHQ草案が絶対だと言って、譲りません。結局、GHQの主張に近い、“助言と承認”という言葉になります。天皇に関する条文は、殆ど元通りに戻されることになりました。この時、通訳を務めたのが、GHQ草案で男女平等の条文を作成したベアテさんでした。

民政局職員(当時)ベアテ・ゴードン:「天皇制について、大変だったんです。大騒ぎになりました、とっても。あの、字でもね、どういう字を使うか、そして、この意味は何ですか、全部大変だった。だって、私達は権利を勿論、もっと大きくしたくなかったんですよね、天皇の権利を。そして、あっち、日本側は、勿論大きく、あの、字の意味で大きく見えるように。そして私達は小さく見えるように書いた憲法だったでしょう。だから、すごく大変だったんです。3時間くらい、それだけ、あの議論になったんです」

その後も詳細に検討が続けられました。午前2時、女性の人権に関する条文に来た時でした。日本側がこの条文を削るように主張し始めたのです。既に16時間、通訳を続け疲れきっていたベアテさん、思わず、眠気が吹き飛んだと言います。

ゴードン:「うーん、これは日本の国民に合わない。これは日本の歴史に合わない。これは日本の文化に合わない。うーん、これは全然だめですと言ったんです、女性の権利について。それ、私、とてもびっくりした。だって、その反対の強さはね、本当にちょっと、その天皇制のこと話した時と同じ気持ちみたいだったんです」

その時、発言したのがケーディスでした。優秀な通訳として、日本側がベアテさんに好感を持っていると見ていたケーディス。“女性の権利については、ベアテさんも望んでいるので、採択してはどうか”と提案したと言います。

ゴードン:「そうしたらば、吃驚しました、佐藤さんと皆が。そしてあの、そして、パスしました。私、すごーく喜んだ。喜びました。でも、何も言わなかった、私がそれを書いたと言うこと。何も勿論、私、言わなかった。ケーディスさんも、それ、言わなかった。言ったのは、“心からこれを望んでいる”ということ。そして、“長く日本に居たので、随分、日本の女性のこと考えていたから、通過しましょう”って、ケーディスさんが言った」

30時間に及ぶ交渉が不眠不休で続きました。

全ての条文が完成したのが3月5日の午後4時。この時、初めて、民政局長のホイットニーが姿を見せ、佐藤と握手を交わしました。

(佐藤達夫の話):「ホイットニー将軍が出てきまして、非常に安心したという顔をして、“ありがとう、ありがとう”と実にその、なんだか、どっちの憲法を作ったのかという調子で握手して、非常に私も当時、変な気持ちがしました」

翌3月6日、政府は緊急の記者会見を開き、憲法改正草案要綱を発表しました。(楢橋書記官長の発表):・・・世界に戦争放棄の宣言を憲法中に明記し、世界唯一の新憲法を起草せんことを命じているものなり・・・

改正案の突然の公表。“主権在民”、“戦争の放棄”、真新しい言葉が紙面を賑わせました。マッカーサーはこの案に全面的な支持を表明しました。これに対して、激しく反発したのは極東委員会です。日本の新憲法を承認するのは委員会の権限とされていたからです。ワシントンの旧日本大使館に置かれた極東委員会本部。ここで、委員会は二月の下旬に一回目の会合を開いたばかりでした。正式に発足してから10日も経たない内に、改正案発表のニュースに接したのです。

極東委員会オーストラリア代表(当時)ハロルド・ブロック(吹き替え):  「マッカーサーが天皇制を保持するという政策を突然、発表した時には、極東委員会は大いに仰天しました。それ程、重要なことを極東委員会の審議を経ないで、マッカーサーが独断で、決定したのですから。我々は既成事実を突き付けられた訳です」

憲法改正で既成事実を積み重ねようとするGHQ。この事態に極東委員会はどう取り組もうとしたのか。アメリカ国立公文書館に極東委員会の内部資料が保管されています。

(係員):「これが極東委員会の会議の議事録です」

日本国憲法の公布まで、11カ国の連合国が述べ100回を超える会議で議論を重ねていました。3月14日、極東委員会では、マッカーサーが日本政府の改正案に承認を与えたことに対して、各国から批判が相次ぎます。批判の矢面に立たされたのがアメリカ代表で、議長でもあったマッコイでした。

(議事録翻訳):“マッカーサーの承認はあくまでも個人的なものです。憲法改正は我々の最優先課題であり、極東委員会によって、検討されるべき問題です”  新憲法を承認する権限は極東委員会にあることが確認されました。更に、オーストラリア代表から、憲法改正の手続きを巡って、疑問の声が挙がります。   フレデリック・エグレストン(翻訳):「憲法改正は国会だけでなく、広く国民が、出来る限り民主的な条件の下で、充分時間をかけて、自由に議論した上で行われるべきだと思います」

極東委員会は日本国民の意思を反映した憲法改正が行われることを求めていました。政府の憲法改正案は議会で審議されることになります。         4月10日、戦後初めての総選挙が実施されます。女性にも初めて選挙権が与えられ、30人を超える女性議員が当選しました。選挙の結果、幣原首相は退陣、代わって吉田内閣が誕生します。
6月、第90回帝国議会。政府の改正案が提出され、これ以後、議会での審議と修正が行われることになります。

7月2日、ワシントンの極東委員会は新しい憲法が充たすべき基本原則を決定しました。その一番目に挙げられたのが主権は国民にあることを認めなければならない。つまり、国民主権を明確にすることでした。この決定は翌日、アメリカ陸軍省から、マッカーサーに伝えられました。極東委員会の決定にマッカーサーは対応を迫られることになります。GHQは日本政府の改正案が極東委員会の基本原則を充たしているかどうか、詳細に分析。日本語で、主権の位置付けが曖昧になっていることに気付きます。 GHQ草案前文には直訳すると、“国民の意思の主権を宣言する“として、主権を意味するsovereigntyという単語が使われていました。しかし、日本政府は主権という言葉を避けて、sovereigntyを至高と翻訳、国民の総意が至高なものであると表現していたのです。

7月23日、民政局のケ-ディスが日本政府との交渉に訪れました。この会談に同席した日本側の官僚に因ると、ケーディスは次のように迫ったと言います。

(入江俊郎法制局長官の回想より)“主権の所在につき、日本文の表現は極めて不明確である。英文の文字を殊更に歪曲したものであるような気がする。もし、斯かる日本文を承認したことになると、マッカーサー元帥は非常に愚かであると言われても、返す言葉がないであろう。主権が国民にあることを明文化してもらいたい 

ケーディスに対応したのが、当時、憲法担当大臣だった金森徳次郎です。

自分は議会で、あれで良いと度々説明をした。また、あれで良いと信じている。その点を要求されるなら、自分が先ず、職を辞す他はない”“もし、憲法改正案に主権在民ということが明記されねば、ソ連、欧州あたりから、この点を捉えて、ケチを付けて来ること確実であると考える”この会談に法制局の佐藤達夫も同席していました。 

(佐藤達夫の話)「極東委員会が何かこの憲法案について、意見を言うとすれば、必ずそれは、主権在民の問題である。場合によっては、天皇制そのものも否定してくるかも知れない。で、我々司令部の方としては極東委員会が背後に控えている訳だから、我々もなかなか苦しい立場に直面している訳だということを弁明しておったわけです」  

ケーディスとの会談から二日後、衆議院で前文の訂正案が提出されました。その結果、至高という言葉が削られ、“主権が国民に存することを宣言する”と変えられました。更に、第一条にあった『至高』も『主権』という言葉に修正されます。その結果、第一条は次のように纏められました。“天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基ずく” ここに、象徴天皇制と国民主権が明確に規定されました。

政府とGHQの交渉が続けられる一方、帝国議会では、政府案の修正が始まりました。

7月25日、衆議院に設置された『帝国憲法改正案委員小委員会』、13回に亘って、条文の修正を審議しました。秘密会として、行われた小委員会。その議事の内容は戦後50年間、封印されていました。

平成7年に公開された、その速記録。そこからは、条文の修正がGHQの要求だけでなく、日本人自らの発案で実現していたことが浮かび上がってきました。最低限度の生活を保障した生存権の追加や、戦争の放棄を定めた九条の修正が小委員会で行われていました。

小委員会は14人の委員からなり、それぞれの政党が独自の修正案を出し合って、審議を進めていきました。委員の中に、民主的な草案を作り、GHQに注目された『憲法研究会』のメンバーがいました。森戸辰男。森戸は4月の総選挙に、社会党から立候補、衆議院議員となっていました。森戸は憲法研究会の草案にあった、一つの条文に強いこだわりを持っていました。“国民は健康にして、文化的水準の生活を営む権利を有す”。こうした生存権を定めた条文は政府の改正案には、ありませんでした。

7月29日、森戸は生存権の条文を追加するよう提案します。“日本の国民は国民として、生活に対する最小限度の権利を有することが、はっきり出るということが、今日、憲法を作る場合には、特に必要ではないかと私は思います”森戸はなぜ生存権を強く主張したのか。戦前、経済学者として、貧困の問題に取り組んだ森戸は、言論弾圧で大学を追われます。その後、ドイツに留学し、一つの憲法に出会いました。第一次世界大戦後のドイツ国憲法、所謂、ワイマール憲法です。“各人をして、人間に値する生活を得しむることを目的とする”世界で初めて、生存権を規定した憲法でした。敗戦後、焦土と化した日本では、人々の生活は困窮し、餓死者が続出していました。その現実を目の当たりにした森戸は、ワイマール憲法の理想を日本で実現したいと考えたのです。しかし、委員長の芦田均が生存権が無くとも、法律で社会保障を実現できると疑問を呈しました。“文化的水準を維持する最低限度の生活ということは、幸福追求の最小限度でしょう。幸福追求の権利も国政の上で保障される”“それは違う。追求する権利があっても、実は、生活安定を得られない者がたくさんあるというのが、今日の社会の状態です。その状態を何とか、民衆の権利を基礎にして、良くして行くというところに生活権の問題というものが出てくる”森戸の粘り強い説得によって、委員たちは次第に賛成に傾いて行きます。

8月1日、森戸の提案は採用されました。

第25条(第1項)すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

速記録には、義務教育に関する条文も小委員会で修正されたことが記されています。問題とされたのは、政府の改正案で、義務教育の対象を初等教育、即ち、小学校に限定していたことでした。義務教育を延長するよう提案が出されます。その背景には全国の教師達からの議会に対する陳情がありました。中でも、最も熱心に活動を行ったのが、愛知県の教師達でした。名古屋市立守山中学校、ここに運動の中心となった校長がいました。守山青年学校校長、黒田毅。黒田は日本の再建のために中等教育の義務化が必要だと訴えます。

(『学制改革への努力』より)“戦時中の浅ましい所業、敗戦後の醜悪な世相は何が原因しているでしょう。それは過去の教育が、特権階級、有産階級などの恵まれた少数の者に対する教育にのみ力を注いだ罪です”

黒田達の働きかけが身を結び、『初等教育』は『普通教育』と修正、中学校までの義務教育が認められました。

第26条(第2項)すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育はこれを無償とする。

小委員会では、戦争の放棄を定めた第九条にも、修正が加えられました。

7月27日、先ず、社会党の鈴木義男が提案します。それは第九条の前に“日本国は平和を愛好し、国際信義を重んずることを国是とする”趣旨の規定を挿入するというものでした。

“戦争をしない、軍備をみな捨てるということは、ちょっと、泣き言のような消極的な印象を与えるから、申し出た趣旨なのであります”          

戦争の放棄を日本人が自ら、積極的に宣言するようにしたい。鈴木の意見に賛同の声が挙りました。

これを受け、7月29日、芦田委員長が一つの試案を提示しました。芦田は軍備を禁止した第2項の“保持してはならない”という表現を自発的なものに変えるため、鈴木の意見を取り入れた、新しい文章を加えました。

“日本国民は正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず。国の交戦権を否認することを声明す”更に、1項と2項を入れ替え、2項の冒頭に“前掲の目的を達するためと言う一文を追加しました。外交官出身の芦田は、戦前、軍部を批判する演説を行うなど、リベラルな政治家として、知られていました。“戦力を保持せず、交戦権を否認する。それを高らかに世界に宣言する 

8月1日、鈴木義男が1項と2項の入れ替えに違和感があり、元の順序の方が良いと指摘しました。それを受けて、進歩党の犬養健が発言します。“委員長が言われた文章は非常に良い文章だ。『前掲の目的を達するため』ということを入れて、1項、2項の仕組みは、そのままにして、それで、何か差し障りが起こりますか”犬養の主張は芦田が付け加えた文はそのままにし、1項と2項の順序は元通りに戻すというものでした。その時、芦田委員長が確認のために読み上げた条文は、一箇所だけ、言葉が変わっていました。それまで、『前掲の目的』とされていたものが、『前項の目的』と変わり、そのまま、委員会の修正案として承認されたのです。

芦田はこの時、ここで言う前項の目的とは、第1項冒頭に掲げられた“国際平和の希求を指すと説明しました。しかし、芦田の説明とは別の解釈が出来ることに気付いた人物がいました。事務方として、審議に参加していた法制局の佐藤達夫です。 

(佐藤の話):「“こんな修正をすると、自衛のためには戦力は持てるというふうに司令部が解釈して、こんな修正は許さないと、きっと言うかもしれませんねと芦田さんに言った覚えがあります。“ああ、そんなことは大丈夫だよ。大丈夫だよ”そんな余計なことは心配するなと言うような顔つきでしたよ」 

佐藤が指摘したのは 前項の目的が、第1項の “国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄を指すと読むことも出来る。その結果、それ以外の目的、つまり、自衛のためには戦力を持てると解釈出来るというものでした。芦田は後に、この解釈と同じく、自衛力をもつことは認められていると主張します。

第9条 日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇、又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。                        前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

小委員会の審議を傍聴していた人物がいます。島静一さん92歳(外務省終戦連絡事務局事務官、当時)。島さんは、審議の概要を英訳し、GHQに届ける役割を担っていました。                          「結局、芦田さんの熱心さに打たれてね、それに対する反対論は、出なかったと思います。だから、先ず、憲法修正、改正だけを早くやりたいと、そして、将来の問題は将来考えるというくらいの余裕しか無かったと言って良いんじゃないでしょうかね。将来、それが仇になってね、問題になるという意識は無かったと思いますね」

第9条の修正はGHQに報告され、了承されました。政府の改正案の修正はワシントンの極東委員会に伝えられ、検討されていました。

9月21日、9条の修正を巡って、議論が紛糾します。特に強い懸念を表明したのは中国国民政府でした。

中国代表、譚紹華(翻訳):“このままでは9条の第1項に書かれた以外の目的であれば、軍隊を保有できる可能性が生まれます。例えば、自衛という名の下に日本が再軍備する危険があるのです。なぜ彼らは、このような修正を行ったのか”

この会議に参加していたのが、極東委員会中国代表の一人だった揚覚勇氏です。日本への留学経験もあります。

(インタヴュアーに写真を見せながら)「これが皆、代表なんです。僕がここなんですよ」「ああ、そこに座っていらっしゃるのが、、、、」「ええ、ええ」揚:「自衛論でもって侵略する者はたくさんいるんですよ。自衛って言うものは、それを理由にして侵略する場合だって多いんですよ。だから、結局、又、そうなるかも知れないから、勝手に解釈出来るようなことはやめた方が良いという結論になるのは、当たり前ですよ」

9条の修正を批判する中国の意見に賛同する国が相次ぎます。

イギリス代表ジョージ・サンソム(議事録の翻訳):“曖昧さが残る非常に悪い起草です。なぜこのような規程になったのか、我々にはその理由を尋ねる権利があります”                               

オーストラリア代表ジェームス・プリムソル(翻訳):“占領軍が撤退すれば、日本は軍隊の保有を可能にする憲法改正を行うかも知れません。そうなれは、陸軍大臣や海軍大臣のポストを設け、そこに武官を据えるでしょう”

日本の軍隊が復活し、軍人が政治に介入することに危機感を抱く連合国。この時、ソヴィエトが、新たな条文を追加するよう求めました。

ソ連代表アドミラル・ラミシュヴィリ(翻訳):“重要なのは日本がある種の軍隊を創設しながら、憲法で認められていると称して、日本国民を欺く可能性があることです。是非、全ての閣僚はCivilian(文民)でなければならないといいう条文を導入すべきです

ソヴィエトは大臣の資格として、軍人を認めず、Civilian、つまり、文民でなければならないと言うのです。日本の軍国主義復活を防ぐためにシビリアンコントロールの導入を迫るソヴィエト。

ソヴィエトや中国など、憲法改正案への態度を保留する国が相次ぎます。この儘では、最終的な権限を持つ極東委員会が、改正案を承認できない事態になります。極東委員会での緊迫した状況は、アメリカ陸軍省からマッカーサーに、至急、電信で伝えられました。

(電信翻訳):“もし、あなたにとって、大臣をシビリアンとする条文の導入が、それ程困難でなければ、あなたは当然、真剣に対応されるべきものと我々は信じています” 

マッカーサーはすぐに動きます。

9月24日、民政局のホイットニー局長とケーディスが、マッカーサーの信書を携えて、吉田首相を訪問しました。ホイットニーはシビリアンコントロールの導入を吉田に迫り、こう述べたと言います。
(吉田首相の証言より):“GHQとして、必ずしも賛成でないが、イギリス、ソ連が極東委員会に提案し、そこから来たものだから、呑んでくれないか” 吉田首相はGHQの要求を受け入れました。一方、アメリカも態度を保留している連合国の説得に動いていました。

25日の昼過ぎ、極東委員会のマッコイ議長が、中国の大使館を訪れます。マッコイは駐米大使の顧維均(Gu Weijun)に相談を持ちかけます。“今日、日本の改正案について、疑問点を解決するための会議があります。ついては、その会議で中国としての立場をはっきりさせてほしい” 
マッコイに迫られた顧維均はアメリカの要求を受け入れる決断を下します。極東委員会で、中国国民政府の代表だった揚覚勇氏は、当時、アメリカの頼みを断れない事情があったと言います。

(揚覚勇):「ちょうど、国内戦争、内戦があったりして、しかも、アメリカは一方に肩入れし、ソ連は向こうに肩入れ、だから皆、これはしょうがないけれど、今はアメリカに頼った方が良いという、その、実際的に日本とアジア、中国と日本関係がどうなるかよりも、アメリカがそう主張したら、まあ、妥協した方が良いだろうという・・・

当時、蒋介石率いる国民政府は、毛沢東の共産党と内戦に突入していました。激しさを増す内戦で、国民党を積極的に支援していたのが、アメリカでした。一方、共産党の背後には、ソヴィエトが控えていたのです。

9月25日夕方、極東委員会の会議が始まりました。冒頭、マッカーサーから送られてきた電信が紹介されました。

(電信翻訳):総理大臣および全ての国務大臣は文民でなければならないという条文を入れるよう、日本政府を説得した。

マッカーサーの電信を受け、駐米大使の顧維鈞が声明を読み上げました。  (声明翻訳):日本は過去において、近隣に対する攻撃のために、武力を度々行使し、しかも、戦争を仕掛けていることを否定してきました。しかしながら、文民条項が憲法に入れば、こうした危険性を排除するために一定の役割を果たすことでしょう。

これまで態度を保留していた中国国民政府は、改正案に対する賛成を表明し、前向きな姿勢を示しました。こうして、極東委員会で、日本の議会での9条の修正は了承さあれ、文民条項が新たに追加されることになったのです。      

第66条(第2項):内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない。

1946年、昭和21年11月3日、日本国憲法が公布されます。

(当時の映像、天皇の言葉):「朕は国民と共に、自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたいと思う」

日本政府とGHQとの一年に亘る交渉の末に誕生した新憲法、日本人自らの提案で新たな条文が追加、修正されていきました。その間、極東委員会を舞台に、国際社会は常に、日本の憲法改正を注視し続けていました。

戦争の放棄、国民主権、そして、基本的人権の尊重を揚げた日本国憲法。今年、施行から60年を迎えます。

(終)

 

Thursday, June 20, 2013

8月来日予定のオリバー・ストーン:米国の原爆投下と「超大国文化」を批判、日本に根強く残る軍国主義に懸念

8月来日予定の映画監督オリバー・ストーン氏が共同通信にインタビューを受けました。

http://english.kyodonews.jp/news/2013/06/230235.html

U.S. film director Stone says Japan should stop bowing to U.S. whims

By Marcie Kagawa
LOS ANGELES, June 13, Kyodo
オリバー・ストーン監督
 

上記のURLは購読者でないと読めないようですが、このインタビューの和訳をここに紹介します。 (訳:Peace Philosophy Centre)



米映画監督オリバー・ストーン氏
 
「日本は米国の気まぐれに屈するのをやめるべき」


マリス・カガワ

  ロサンゼルス発、6月13日、共同。日本は米国と不健康な関係を持ってきたが、「政治的主権」を回復すべきだと、アメリカの映画監督 オリバー・ストーン氏は最近のインタビューで語った。

  戦争映画や政治的映画を何本も監督してきた、筋金入りの反戦論者である66歳のストーン監督は、米国の日本との関係を「腐敗」していて「胸が悪くなる」と評し、現在の日米の力関係においては、日本はアメリカの気まぐれに翻弄されていると主張した。 

 「まさに、あなた達(日本)は私達(米国)と一緒にベッド・インしている状態だ。しかしあなた達には経済力があるのに政治的主権を持っていないように見えるから奇妙なのです」と彼は語った。「もしアメリカの利害関係から自由になることができれば、日本は世界における確固たる地域勢力になれるはずです。」 

   第二次世界大戦が終わって以来、米国は日本をアジアにおける衛星国にして自国のために利用した、とストーン監督は語る。ベトナム戦争時は在日米軍基地を出撃拠点として使った。

 「マッカーサーは最初から、極東地域で共産主義を封じ込めるという米国の国益に奉仕する衛星国を作るつもりだったのではないでしょうか」と彼は語った。 「日本は、金で買われた衛星国家とされ、その憲法は常に破られていました。」

米国はさらに、ヨーロッパと中東からアジア太平洋地域に重点を移す戦略において、中国を封じ込めるために日本を利用し続けていると、ストーン監督は付け加えた。
 
    憲法の破られ続けている部分とは、9条のことで、それは「理想主義的で、美しい概念」だとストーン監督 は語った。 

    9条は、日本国民は戦争を放棄し、いかなる軍隊も保持しないと宣言している。日本は、専守防衛目的であるとして「自衛隊」と呼んでいるものを保持しており、在日米軍の存在も許している。
 
「自衛隊とは何を意味するのか分かりません」とストーン監督は語った。「あらゆる軍隊は自衛のためのものだから、日本は本質的に憲法を、9条を覆しています。自衛隊が何を意味するのであれ、それを好きなように呼んでいるのですから。」
 
   ベトナム戦争中にアメリカ陸軍で兵役を務めたストーン監督は、この国の指導者たちの言葉遣いと行動から、日本に根強く軍国主義が続いていることが分かると語った。

  「日本には軍国主義的な感覚が多く存在し、かつての帝国が今も息づいていることは、安倍首相と佐藤首相から明らかです」と、現首相の安倍晋三と、1964年から1972年まで首相を務めた佐藤栄作を引き合いに出して語った。

 「安倍氏はいくつか非常に愚かな発言をしました。神社について話すことを始め、第二次世界大戦の戦没者が祀られている神社に参拝し、韓国人や中国人に謝罪しないのは、日本にとって危険なことです。良くないことです」


「ドイツ人は謝罪して前へ進みました。日本人は、なぜか一部の人々が非常に頑迷です。」 

   ストーン監督は他の日米問題、特に第二次世界大戦でのアメリカの原爆使用についても積極的に発言してきている。

    「米国で目にする態度といえば、ああ原爆なんて知るもんか、70年も前の事だっていうのに、というような無感覚な態度です」と彼は言う。「これが米国の独占的超大国文化の根拠となっている神話なのですよ。それで米国人は世界を支配する権利を得たような気になってしまうのです。」 

    「米国人は原爆が対日戦争終結を早めたからいいことだったと思っているのですよ。この問題についてよくわかっていなくても、原爆がいいことだったとして自らの道徳基準を作ってしまうのですよ。」

    「毎年、本当の追悼碑に行くとしたら、それは広島と長崎なのです。私達は、原爆投下が不必要だったことを人々に思い起こさせなければなりません。」

    今年の8月、ストーン監督はアメリカン大学のピーター・カズニック教授と共に2013年原水爆禁止世界会議に参加するため広島と長崎を旅する【訳注:二人はこの大会のためだけに来日するのではない。正しくはここを参照】。二人が製作した10話からなるドキュメンタリー番組と、その書籍である「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史」(原著は2012年、日本語版は2013年)のプロモーションも兼ねての旅である。 

    8月の旅で、ストーン監督は【訳注:カズニック教授も】東京と沖縄にも足を伸ばす予定だ。

==共同

このインタビューの日本語版を沖縄タイムスが掲載しています。
「米基地 沖縄に苦しみ」(2013年6月16日)
http://michisan.ti-da.net/d2013-06-14.html

オリバー・ストーン、ピーター・カズニックの8月来日の情報はここを見てください。
 
今夏8月、『もう一つのアメリカ史』のオリバー・ストーン監督、ピーター・カズニック教授が来日-広島、長崎、東京、沖縄で公開イベント開催!

オリバー・ストーン、ピーター・カズニック著『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』早川書房から1-3巻発売中。ドキュメンタリーシリーズはNHKBS1が放映。




 

Friday, June 14, 2013

米中首脳会談後の日米電話首脳会談は何だったのか

 6月12日(日本では13日)日米首脳電話会談が持たれ、ホワイトハウスは以下の公式発表を出したが、日本の方は官邸のHPに何の報告も記録も見つからない。外務省のサイトにもない。日本にとっては都合の悪い内容だったのではないか。13日午前、菅官房長官は記者会見で内容について聞かれ「先般の米中首脳会議についてだろう」と言い、なぜこのタイミングかと聞かれ「同盟国である日本への配慮じゃないかな」と言っている。午後の記者会見でも内容には立ち入らないと言い、「同盟国への配慮」と繰り返した。要するに何の中身のある報告もしていないのである。謎だ。ホワイトハウスの発表とその翻訳(ブログ運営者による)を以下に紹介する。

http://www.whitehouse.gov/the-press-office/2013/06/12/readout-presidents-call-japanese-prime-minister-shinzo-abe
For Immediate Release

June 12, 2013

Readout of the President's Call with Japanese Prime Minister Shinzo Abe

The President spoke to Japanese Prime Minister Shinzo Abe today to discuss regional security and economic issues.  They pledged to continue to work together closely toward the elimination of North Korea’s nuclear and ballistic missile programs.  The leaders discussed the President’s recent meetings with President Xi Jinping of China, and agreed on the importance of ensuring stability and pursuing dialogue as it relates to the East China Sea.  The President stressed that the United States looks forward to being able to welcome Japan to the Trans-Pacific Partnership (TPP) negotiations as early as possible once current TPP members complete their domestic requirements.  Finally, the two leaders expressed the shared desire to work together closely at the up-coming G8 Summit in Northern Ireland.

大統領と日本の安倍晋三首相との電話会談 
今日、大統領は安倍晋三首相に電話して地域安全保障と経済問題について話し合った。大統領と首相は、北朝鮮の核と弾道ミサイル計画を廃止させるために引き続き緊密な協力をすると約束した。また、大統領と中国の習近平国家主席との首脳会談についても話し、東シナ海に関連し、安定を確保することと対話を求めていくことの大切さについて同意した。大統領は環太平洋パートナーシップ(TPP)交渉に、現時点でのTPP加盟国が自国における諸条件を満たした上で、なるべく早く日本に加わってもらうことを期待するということを強調した。最後に、両国首脳は、北アイルランドでもうすぐ開催予定のG8サミットにおいて緊密に連携していく共通の意思を表明した。
 
米国での報道はほとんどこのホワイトハウス発表に沿うものだ。日本での報道は、安倍氏が「米中首脳会談に日本の立場を踏まえて対応したことに謝意」を表したなどと言っているが、それは安倍氏が勝手にそう言っているだけで、オバマが、「日本の立場を踏まえて」米中会談に臨んだということを示唆する情報はない。14日には、米中首脳会談でオバマが中国の対日姿勢を批判し、「米国の同盟国である日本が中国から脅迫されることをわれわれは絶対に受け入れない」とオバマが言った、と「複数の日米関係筋」から「判明した」などと大変怪しい記事が出ている。このような記事は日本でしか出ていないようだし、真偽の確認のし様もない。産経は、電話会談を「日米同盟関係の強化を確認した」とカッコ付きで流しているが、これは産経が自らの希望的解釈を自分で引用しているのであって誤解を招くものであり、とても「報道」とは呼べない。

そして、2月の日米首脳会談のときもそうだったが、オバマの日本についての関心は「同盟」などよりも、もっぱらTPPにあることは、今回の電話会談でもオバマが「強調した」と報告されているのが唯一TPPの件であることからも、再確認できる。

どうも最近、「日米同盟」について言っているのは日本側ばかりのような印象を受ける。@PeacePhilosophy

関連投稿:
オバマ大統領から冷遇された安倍首相、その背景には(2013年3月4日)