第二次世界大戦の終結、日本の敗戦から70周年となる来年に向けて過去を振り返り記憶するさまざまなイベントや集会、学会、出版物、映像等が企画されるでしょう。かたや安倍政権による「戦後」の破壊――第一次政権時の教育基本法改変にはじまり、解釈改憲によって9条を無効にする試み、靖国神社参拝をはじめとする歴史誤認識言動の数々、教育への政府による圧力加速、隣国敵視を煽り戦争を可能にする環境づくり、等を市民の側から止めることができずにいます。これには私たち市民の側の歴史認識不足、つまり1945年を境に日本が乗り越えようとしてきたものは何だったかということについて明確な認識や理解が欠けていることにも原因があるのではないでしょうか。ジャーナリスト成澤宗男氏の今回の寄稿はそのような中で意義深く、タイムリーなものであり、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思います。@PeacePhilosophy
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戦後69年の「過去の克服」という課題
―「反大日本帝国コンセンサス」の確立に向けた思索のために―
成澤宗男
Ⅰ.「克服」すべき「過去」とは
安倍晋三首相による昨年12月26日の靖国神社参拝は、隣国の中国や韓国のみならず、世界的に大きな驚きと批判を引き起こした。日本の首相がこれほどの広がりと激しさを伴って否定的評価の対象となったのは、おそらく戦後例がないだろう。のみならず世界は、安倍という右翼政治家の行動や体質だけに留まらず、改めて日本という国家が戦前はナチスドイツと共にファシズム陣営に属していた過去を呼び起こし、同時にその現在の在りようが、過去からどの程度までに距離を置きえているのかという点について、疑念を抱いたのではないだろうか。
だが、考察すべきは海外の論評ではない。12月26日に起きた事態を招いた、敗戦から来年で70年を迎えようとしているこの国の現実に対しての、私たち自身の批判力こそが問われている。1945年9月2日の対連合国降伏文書調印をもって戦前と断絶したはずの戦後という時代で、首相・閣僚の靖国神社参拝のみならず、大日本帝国の価値観、制度、そしてそれが過去に手を染めた様々な犯罪を、なぜこの国は未だ清算できないままでいるのか―という検証が求められているように思える。
そもそも戦後の出発点にあっては、戦前という「好ましからざる」時代と決別し、それとは別の内実を伴った国として出発せねばならないという認識が大まかではあれ前提としてあったはずであり、またなければなかった。日本国憲法が、前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」したと宣言しているのは、その意思表明の一つであるのは疑いない。
しかしながら、そもそも戦前において何が「犯罪的」であり、「克服されるべき」ものとして認識されるべきかという課題に対し、今日までなお曖昧な回答しか用意されていないのではないだろうか。同じ敗戦国として戦後の歩みを比較される機会が多いドイツ(統一前の西ドイツを含む)は、「好ましからざる」ものとはナチス的なるものの一切を示し、その清算を「過去の克服」という語を用いて、政治的立場を超えた国全体のコンセンサスにしたと見なされている。
一方で戦後日本がドイツと比較した場合、どこまで「過去の克服」について自覚的であったのか、あるいは仮に自覚的であったとして、そもそも「克服」すべき「過去」(「好ましからざる」もの)とは、具体的に何であると認識されてきたのか。振り返れば、戦後の社会において「過去の克服」に向けての自覚的な姿勢が確立され、それを実現するために論議された形跡は全体としては乏しい。当然ながら、いったい何が「克服」されるべきかという国民全体の共通の理解も生み出されはしなかった。ほぼ唯一、戦後において新たな社会の集団的記憶として認められるのは、戦争(具体的には太平洋戦争として記憶されている戦争)への嫌悪感、あるいは厭戦意識であったろう。
しかしながら、戦争とは大日本帝国が手を染めた数々の犯罪、犯罪的行為の一部であって、そのすべてでは毛頭ない。のみならず、その戦争は最終的に対米英蘭豪を交戦国とするアジア太平洋戦争まで拡大したことで大日本帝国の瓦解を結果したが、もしこの国家がより賢明で合理的判断が可能な指導者を擁していたならば、日中戦争は対米英蘭豪開戦の前にいずれかの段階で政治解決できたと推測される。あるいは1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北を契機に交戦国との何らかの停戦を実現したなら、本土空襲や沖縄戦、原爆投下、さらには国民生活の極度の困窮という、今日まで太平洋戦争の記憶として最も強く留めている事態も回避された可能性を否定できない。
そのように戦争が少なくとも極度の「敗北」感と国民の日常生活の破綻を伴わずに終結していたなら、戦争への嫌悪の度合いは減じられたのではないかという推測が成り立つ。戦後嫌悪されたのはあくまで「敗戦」なのであって、必ずしも戦争一般ではなかったろう。そのためいくら「敗戦」あるいはそれをもたらした戦争指導だけを否定的に評価しようが、そのことによって戦争を恒常化していた戦前との断絶、または「過去の克服」が即成し遂げられるはずもない。戦争が問われるとしたら、後述するように敗戦に終わったアジア太平洋戦争に留まらない大日本帝国の戦争すべてであろう。
Ⅱ.大日本帝国総体を問う視座
では、戦後で「克服」されるべき「過去」とは具体的にいかなる事柄を対象とすべきなのか。おそらくそれは、
A. 教育勅語(国民教育)に象徴される天皇絶対主義、及びその精神的支柱をなした国家神道への服従強要と精神の自由否定
B. 朝鮮半島や台湾等の植民地支配とそこでの被支配者に対する蔑視・偏見、及び差別、
C. 特高警察・思想検事・憲兵等による極度に暴力的な治安弾圧
D. 自国本位思想と武断主義に基づいた侵略政策――
という項目を内包した、大日本帝国的なるものの一切であると考えられる。
無論、実質的には1868年1月3日の王政復古から始まった大日本帝国の時代にあって、これら4つの項目が等しく同様の強度を持ち続けたのではない。そもそも、朝鮮半島の支配と大陸への拡張主義を熱烈に支持するような忠君愛国のナショナリズム=「皇国意識」が形成されたのは1894年の日清戦争以降であるとされ、昭和期のファシズムについても1935年に2度出された「
国体明徴に関する政府声明」のような神懸かりの国家主義は、「大正デモクラシー」期には相対的に抑制されていたと考えられる。その端緒となって攻撃された美濃部達吉の「
天皇機関説」も、それ以前は公認の憲法学の通説とされていた事実は良く知られている。また1938年から開始された国家総動員体制は、戦前において特異の制度であったのは言うまでもない。
しかしながら時代ごとの強弱はあれ、4つの項目を生み出す理念的制度的基盤はすべて大日本帝国の初期から散見されるのであって、通常「15年戦争」と表現されている1931年9月18日の満州事変勃発以降の戦時下の時代に、問題が限定されているのでは決してない。
例えばA、Bはすべて明治期に確定し、特にBについては関東大震災時の朝鮮人虐殺が象徴している。Cについても大逆事件や亀戸事件・甘粕事件等で示された凶悪さは、30年代の治安弾圧と共通する。Dについても、山縣有朋が1890年12月6日の第1回帝国議会における「
施政方針演説」で示した、「主権線(国境)の守護」と「利益線(注=主権線と密着に関係した隣接区域)の保護」という、2つの「国家独立自衛の道」が軍事的原型である。
大日本帝国は以降、「主権線の守護」の後に軍事行動を起こし、「利益線」としての朝鮮半島を支配した後もさらに対外膨張を続け、朝鮮半島に隣接する満州を新たな「利益線」として掌握した後は北支(中国北部)へと手を延ばし、日中全面戦争を引き起こした。その結果もたらされた軍事的行き詰まりの打開を求め、東南アジアの資源強奪を目的に真珠湾攻撃に先立つマレー半島侵攻作戦に打って出たのだった。
また1905年4月4日に策定された「帝国国防方針」では、より具体的に「満州及び韓国に扶植したる利権と亜細亜の南方竝太平洋の彼岸に皇張しつつある民力の発展とを擁護するは勿論 益々之を拡張するを以って帝国施政の大方針」とすると明記してあるが、歴史は「大方針」通りに進んで「皇軍」が「拡張」を続けた結果、自滅する結果になった。
その意味で1945年9月2日の降伏をもたらした戦争は、遠因をたどれば大日本帝国の明治期の軍事方針に行き着く。しかも、日本軍による1937年12月から数か月続いた南京大虐殺は、日清戦争時の1894年11月の旅順における一般民虐殺事件や、同年から1895年にかけての朝鮮における東学農民軍に対する凄惨な殲滅戦からの延長ともいえよう。満州事変を引き起こした関東軍による1931年9月8日の柳条湖の南満州鉄道爆破事件が、謀略性という点で、日清戦争の火ぶたが切られた1894年7月23日のソウル・景福宮の攻撃と軌を一にしているのも、決して偶然ではない。後者は、「日本軍が発砲された」という虚偽名目で、日本軍が朝鮮政府の国王がいた景福宮を攻撃・占領。目的は、開戦目的を捏造するために国王を捕虜にし、「清国軍を朝鮮から追い出してくれ」という「公式の要請文」を入手するためだった。
このように、大日本帝国とは、これらの項目が壊滅までの時期において最大公約数的に通低していた、本質的に抑圧的侵略的な国家であった。したがってドイツにおいて「反ナチス」が国民的コンセンサスであると同様に、この国においても「反大日本帝国」がそのようなものとして受け止められるべきである。
ちなみに日清戦争は以後50年あまりに及ぶ大日本帝国による侵略戦争を駆り立てた帝国主義的ナショナリズム形成の端緒となったが、「国民作家」司馬遼太郎の『坂の上の雲』における「明るい明治と暗い昭和」なる対比のおかしさをここで指摘する必要があるだろう。歴史修正主義そのものであるこの書では、昭和の軍国主義と侵略戦争があたかも1905年の日露戦争終結後に生まれた「おごり」の結果であるとし、さらに司馬は「日本における狡猾さ」や「卑劣としか言いようのない国家行動」は大正期に「用意された」(『ロシアについて』)と述べる。
つまり大日本帝国が、この二つの戦争後に初めて悪しき軍事的変質を遂げたかのような主張であって、幼稚極まる珍説だが、多くの読者を獲得して俗耳に入りやすい分、歴史認識の上では危険極まりない。司馬は『坂の上の雲』で、日露戦争自体が中立を宣言した大韓帝国を無視してその国土を蹂躙するという国際法の違法行為から始まったという不当性すら、何の言及もしていない。
Ⅲ.日独の歴史的スパンの差異
したがって、すでに触れた「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」したという日本国憲法前文の中の「戦争」とは、国民の多くの念頭にあったと思われる対米英蘭豪戦争に限ることは本来できないはずだ。あるいは、日中戦を含む「15年戦争」でもない。「15年戦争」の端緒である満州事変が、日清戦争と日露戦争という大陸への侵略のプロセスと切り離して説明可能なはずがないからであるが、にもかかわらず日清と日露の二つの戦争をめぐっては、司馬に代表されるように侵略戦争と認識される程度が今でもこの社会で乏しいのは悪しき傾向だろう。
振り返れば「15年戦争」どころか、日清戦争を前後し、1945年まで半世紀以上にわたり大日本帝国は侵略戦争と軍事行動を継続してきたのであって、1875年の江華島における朝鮮への軍事挑発に始まり、以後の台湾出兵、シベリア出兵、山東省への出兵等を考慮すれば、侵略戦争あるいは軍事膨張主義も強弱はあれ、30年代以降だけに留まらない大日本帝国の本質的属性と見なされる。
このように、戦争だけでも大日本帝国総体としての視点を見失うならば、「過去の克服」は困難となろう。同時にこのような視点からすると、戦後の課題としての「過去の克服」とは、ドイツと異なってはるかに歴史的スパンが長いという事実に気付く。ナチスは権力を掌握した1933年3月23日の全権委任法採択以降、ベルリン攻防戦の果てに連合軍に降伏した1945年5月8日まで、わずか12年と2ヵ月余の命脈を保ったに過ぎない。なおイタリアのファシズムはもう少し長いが、それでもムッソリーニのローマ進軍から3日後の1922年10月31日に国家ファシスト党と人民党・自由党・社会民主党の連立による第一次ムッソリーニ政権が成立して以後、連合軍とイタリア新政府が単独休戦した1943年9月8日まで約20年程度であった。
しかしながら大日本帝国は、王政復古から数えれば77年続いたのであり、現時点で戦後をまだ時間的に上回っている。そこでは、ドイツのワイマール時代に相当する経験も存在しない。そのためかドイツの「過去の克服」が反ナチスコンセンサスと同義であるものの、日本には戦後、「反大日本帝国コンセンサス」は生まれず、具体的に何が「克服」されるべきかの国民レベルでの一致した認識すら確立はされなかった。それはドイツのように30年代に社会から勃興した特異な一団が短期間支配したのではなく、戦前は軍や官僚、宮中、そして政治家も含めた極めて重層的かつ複雑な支配構造が長期間形成されていたため、意思決定者の特定も責任の所在も単純ではなかったためでもあろう。
そのため、「克服」されるべき対象の特定化が困難となり、ドイツと異なる歴史の長さと広がり、深さから起因して、「克服」を容易には成しえなくする長期間に及んだ大日本帝国的なる社会認識・価値観の定着・継続化が今日まで確認できる。例えば、天皇崇拝、個を圧する集団主義、『侵略戦争』であったという明確な政府見解の不在、靖国・護国神社の現存、歴史修正主義の再興、例年の「全国戦没者追悼式」に見られるような戦死者があたかも戦後の復興と繁栄に寄与した如くの一種の英霊信仰―等。
ドイツ国民にとって、ナチスが権力を掌握していた12年と2ヵ月余とは、一種の時間的限定性を伴った異常な時代として認識する余地があったはずである。しかし日本の場合の77年という歳月はあまりに長く、その時代的限定性が乏しい分、1945年9月2日以降は大日本帝国からの断絶よりも、こうした継承面がより濃厚に現れているのは否めない。
日本が戦後、国際社会に復帰するために不可避だった極東軍事裁判にしても、張作霖爆殺事件が起きた1928年6月以降の日本政府、軍による侵略戦争の「共同謀議」が裁かれたのであって、大日本帝国そのものが対象であったのでは決してない。しかもこの占領下の裁判以外、国民が主体的に大日本帝国の犯罪的行為やその制度を正面から追及するような試みは乏しかった。
さらに、極東軍事裁判自体の不十分性(例えば裕仁の免訴、日本軍「慰安婦」や強制連行に象徴される残忍な植民地支配と東南アジアにおける強制労働=捕虜・住民の虐待についての審理からの除外、中国大陸における細菌兵器・毒ガスの使用の不問、極めて限られた人数の処罰、開廷期間の時間的短さ等)に加え、米国の日本民主化への熱意の喪失が輪をかけた。「克服」すべき課題が山積されたまま時代は本格的な冷戦期を迎え、「過去」との断絶の意欲が決定的に薄れて、「過去」の指導者の復権と、彼らを組み込んだ新たな米国による支配体制の再構築が優先的に進行したのだった。
Ⅳ.断絶より継承という面の優勢
その結果生じたのが、戦前との対峙の意識を欠き、自身の所業について極度に無自覚で突き詰めた反省も放棄し、日本国憲法で示されたはずの国民主権と基本的人権、平和主義という基本的理念すら、戦前的要因を背景に常に脅かされ続けている戦後という弛緩した時代である。「反大日本帝国コンセンサス」はついに確立されることはなく、それどころかA級戦犯容疑者が一国の首相になり、侵略戦争を推進した高級軍人も堂々と国会議員に当選したほか、米国主導による1954年7月の自衛隊創立に動員された。
しかも判明しただけでも1697人以上(「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」調べ)を拷問やリンチで殺害した特高警察は、誰一人刑事罰を受けることもなく、いち早く警察組織内で警備公安部門として温存・再編されて今日に至っている。ドイツの「過去の克服」の内実とは、①「ナチス犠牲者への謝罪と補償」、そして②「ナチス犯罪に対する司法での刑事訴追と処罰」であったとされる。だが戦後日本では、①の「犠牲者への謝罪と補償」の不十分性はここでは触れないが、②についても占領下の極東軍事裁判とまったくの不徹底に終わった公職追放以外、ドイツと異なって独自に戦犯を裁いたこともなければ、こうした特高警察の暴虐を「司法での刑事訴追と処罰」の対象とすることもないままに終わった。
かつて吉田茂は、以下のように述べ、1945年の断絶を否定してみせた。「日本の憲法は御承知の如く五箇条の御誓文から出発したものといってもよいのでありますが、所謂五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情を唯文字に現わしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります……。日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。……日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行なわれたことはないのであります。……故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表したに過ぎないものであります」(1946年6月25日、帝国議会衆議院本会議での発言)。
そもそも、大日本帝国憲法で「神聖にして侵すべからず」という政教一致の神権政治を司る天皇が、「朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓」ったという内容を「衆またこの趣旨に基き協心努力せよ」と「勅語」で命令した上意下達の「御誓文」が、どう「民主主義」と関係するのか。
これほどの露骨な歴史的歪曲を時の最高権力者が容易に口にできたのは、吉田自身が身を置き、支配の一環を担った権力構造である明治期以降の太政官制が戦後もそのまま官僚機構として生き延び、継続しえたことの自負の裏返しではなかったのか。無論、戦後の西ドイツ国家も官僚機構(特に諜報機関)から見れば人的に戦前との継続性が認められようが、その政府が戦前について「圧制政治」や「暴虐なる政治」ではなかったなどと言い訳するほど愚かではなかったろう。
無論、すでに1940年代後半から開始されていた丸山眞男や石田雄といった先駆者による「戦争責任」の考察は、何ごともなかったように敗戦以前から「民主政治」が続いていたかのような虚偽に挑戦する意義があった。その試みは大いに評価されるべきではあるが、こうした問題意識は限られた知識人以外国民全体から見れば広がりを持たなかったし、さらには「戦争責任」の問いかけ自体、満州事変以降の政治過程に限定されていた。
その時代、「15年戦争」で跳躍した軍人や超国家主義者、官僚、政治家の戦争責任を追及することは当然ながら喫緊の課題であったろう。だが、本来追及されるべきそうした者たちが一人残らず物故者となったと思われる戦後69年目の今日、なすべき「過去の克服」とは、戦争責任者の追及継続を包摂しながら、「15年戦争」にまで行き着き、あるいはそれを生み出した土壌である前述した4項目をはじめとした大日本帝国の価値観、制度、行動様式の一切の原則的否定に他ならない。戦争犯罪に時効はない以上、「15年戦争」の戦争犯罪の責任追及は今日においても避けられない課題である。ハンガリーで2012年7月、97歳の元警察幹部がホロコーストに加担したとして逮捕された事件は、改めてわが国のそうした追及の「甘さ」を知らしめているが、そこで前提とされるべきは、あくまで「15年戦争」に留まらない「反大日本帝国コンセンサス」なのである。
Ⅴ.執拗に生き永らえる「戦前」
かつての西ドイツにおいても、ホロコーストへの加害責任の自覚に基づいたナチスの犯罪追及が社会的に本格化したのは1980年代まで待たねばならなかった事実を想起するなら、この国における「過去の克服」は開始が遅れはしても、断念されてよいはずがない。 しかも、そうした「遅れ」に起因する退化的事象がすでに構造化している。
前述の4つの項目に照らすならば、Aは横行する教育現場での「日の丸・君が代」強制と教科書記述(日本軍「慰安婦」、南京大虐殺等)の国家統制、首相・閣僚・国会議員ら公人の靖国神社参拝と、それを推進する宗教右翼を中心とした「日本会議」に見られる大衆運動としての「大日本帝国への回帰」、戦死者を「今日の繁栄の礎」などと規定する新たな英霊化等である。Bは近年一部右派誌や週刊誌、夕刊紙による、戦前の「暴支庸懲」を思わせるような商業主義と裏腹の隣国への執拗な憎悪と蔑視の扇動、Cについては、戦前の最も残忍な抑圧装置である特高の継承者であり、不当にも活動実態が一切公開されていない警備公安警察の野放しの人権侵害、市民的諸権利の破壊―という形で具体例が挙げられよう。「過去」が克服されるどころか、このように別の形態でかねてから再生している。
特にCについての以下のような動向は、この国がかつての大日本帝国と本質的な差があるかどうか疑わしい抑圧性を強固に保持する人権後進国家であるという事実を雄弁に示していよう。
- 「3・11」以降に高揚した反原発を求めるデモを典型として、平和に行進しているだけの市民に対する機動隊・警察の暴行や無差別逮捕。
- 共産党や労働組合、反原発をはじめとした市民運動に対する違法なスパイ潜入工作や日常的監視。
- 市民団体の集会に対する、私服の公安が会場周辺に大挙して集結してのこれ見よがしの威圧。
- 免許証記載の住所と現住所の違いなど、狙いをつけた活動家に対するごく些細な口実による逮捕と家宅捜索といった違法捜査の横行。
ここで細部を紹介する余裕はないが、こうした実態は記者クラブ制度による警察権力とメディアの癒着によってほとんど報じられることはないか、あるいは報道されても警察サイドに立って“過激派の犯行”などと誤報がまかり通るケースが大半である。今もこの社会は、暴力と遵法精神の欠如、市民的諸権利の無視を特徴とする警備公安警察をチェックする機能を有してはいない。またDについても、侵略主義こそ対米従属と引き換えに影を潜めたものの、そもそも歴代首相が過去の戦争を「侵略戦争」と明言した事例が稀であるという事実は、為政者からして「過去の克服」の姿勢がドイツとは異なり、著しく欠如している実態を示す。のみならず、そのことが隣国からの許容しがたい不信を招くに至っている。
今回、安倍が参拝した靖国神社にしても、「先の『大東亜戦争』は、わが国の自存自衛と人種平等による国際秩序の構築を目指すことを目的とした戦いでありました」(靖国神社内の軍事博物館『遊就館』の発行物から引用)などと公言している。
Ⅵ.侵略を否認する態度
そこに参拝した安倍自身、2013年4月23日の参議院予算委員会で、侵略という用語について驚くべき発言をしている。席上、自民党の丸山和也議員が、「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」との一説がある「村山談話」(戦後50年に当たっての村山内閣総理大臣の談話。1995年8月15日)を取り上げ、「まったく中身を吟味しないまま、とにかくあいまいなまますみませんというような、事なかれ主義でうまく仲よくやりましょうよみたいな文書」で、「歴史的価値はまったくないと思うが、総理はどう思われますか」と質問した。
これに対し、安倍は「村山談話」について得たりとばかり同調しながら、次のように述べているのだ。
「特に侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」
だが、1974年12月14日の国連総会で採択された総会決議3314の付属書の第1条では、侵略について「国家による他の国家の主権、領土保全若(も)しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義されている。しかも日本は採択に加わっているが、もしドイツ連邦共和国の首相が国会で安倍と同じ答弁をしたら、周辺国でどのような反響を巻き起こすであろうか。
さらにこの答弁後の同年5月16日、民主党の辻元清美衆議院議員が「『侵略の定義』など安倍首相の歴史認識に関する質問趣意書」を提出し、その中で①日中戦争②「満州国建国」③太平洋戦争④真珠湾攻撃の4つを例に挙げ、安倍自身が「侵略行為だったという認識か」と具体的に質問した。ところが、回答はすべて一律に「国際法上の侵略の定義については様々な論議が行われており、お尋ねについては確立された定義を含めお答えすることは困難である」としている。
いったい、前述の総会決議3314付属書の「確立された定義」に、どのような「論議」があるというのか。そして①から④までの事例が「確立された定義」に照らして侵略でないとすれば、安倍が「引き継ぐ」と言明している「村山談話」の「植民地支配と侵略」とは、具体的に何を指しているのか。
1945年6月26日にサンフランシスコで制定された国際連合憲章では、第1章で国際連合の「目的及び原則」として、「平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧」と明記してある。これは、第二次世界大戦中の日本やドイツなどの国家の行動が念頭されていたのは間違いない。
しかも同じサンフランシスコで6年後の1951年9月8日に調印された、日本の国際社会への復帰を認める対日講和条約では、前文で「日本国としては、国際連合への加盟を申請し且つあらゆる場合に国際連合憲章の原則を遵守し、世界人権宣言の目的を実現するために努力」すると明記されている。にもかかわらず日本は、国際連合憲章で繰り返してはならないとされた過去の「侵略行為」について、戦後69年を迎えようとしている今日においても「定義は無い」と公言し、それが自国の過去の行為であるかどうかすら「お答えすることは困難である」などという姿勢を崩してはいない。戦後が出発するにあたって前提とされた認識と、現在の公権力の姿勢の乖離は深刻である。
Ⅶ.近づく「戦後の平和」の終焉
またDの「自国本位思想」については、Bの「蔑視・偏見・差別」とも関連しながら、近現代史において沖縄への政策に濃厚に認められ、今日まで継続している。琉球王国は、1609年の侵攻後薩摩の支配を受けた上、1870年代には明治政府により日本への強制併合に向けての動きが進んだ。1879年3月27日に700人前後とされる装警官・軍隊を率いた琉球処分官が首里城に乗り込んで琉球王朝を滅ぼした後、大日本帝国は沖縄を徹底した皇民化教育の優先対象とした。その一方で、対米英蘭豪戦争ではとうに戦況が決していた段階で沖縄を「皇土」から除外し、「本土決戦の捨石」にした。日本軍の戦闘に巻き込まれ、なかには避難壕から追い出されたり、捕虜になるよりは自ら死ぬことを強制されたりして、沖縄県民の実に4人に1人という約15万人もの住民の死者を出す大惨事に至らせた。
ところが占領下の1947年9月19日、裕仁はおそらくは自身の保身だけのために宮内府御用掛・寺崎英成をGHQの外交顧問に派遣し、「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を25年ないし50年、あるいはそれ以上軍事占領し続けることを希望している」という旨の「メッセージ」を託している。その後、調印されたサンフランシスコ講和条約の第3条で、沖縄は「合州国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」よう定められ、その結果1952年4月28日の日本の「独立」とは切り離されたが、この処遇が裕仁の「メッセージ」と無縁であったはずがない。
その結果、沖縄では米軍による基地建設のための「銃剣とブルドーザー」による土地強奪が加速し、1972年5月15日の「本土復帰」から40年以上たった今日も、全国の米軍基地の約74%が沖縄1県に集中し、無数の基地被害が続くという異常事態にある。それどころか名護市辺野古には、海兵隊普天間基地「移転」に名を借りた、海兵隊を運ぶ強襲揚陸艦の接岸も可能な新基地の建設も強行されようとしている。
こうした不断に沖縄県民に犠牲を強い、苦痛を及ぼし続けている歴史の経緯が、琉球処分以降の差別政策と無縁であるはずがない。県民が今日も対峙しているのは、大日本帝国以来の、沖縄を常に犠牲にしても意に介さない「ヤマト」の「自国本位思想」「植民地主義」に基づいた政策と、強制併合しておきながら、本音では沖縄を「日本」とは見なさない差別的心情ではないのか。
その沖縄は、またもや軍事的な緊張感に襲われている。憲法9条と「専守防衛」という建前を次々に破棄して海外遠征軍としての性格を強めている自衛隊との共存を許してきた思考的怠惰は、武力衝突を当然視するような現在の対中感情の悪化に伴い、尖閣諸島を巡る最悪の事態に発展しかねない事態をもたらした。そこで真っ先に犠牲になるのは沖縄であり、そこではさらなる自衛隊の軍事強化が図られている。
同時に「日米同盟」と称した軍事同盟に対する思考停止と現状追随は、集団的自衛権行使の合憲解釈によって世界の軍事紛争に自衛隊が参戦する可能性を排除できないところにまで行き着きつつある。戦後における「過去の克服」がまったく未完のまま、今後も歴史的退行と思考停止を重ねるのであれば、平和主義と同義とされたという意味での戦後という時代の終焉が通告されるのは時間の問題となろう。
スペインのファシズムは1939年8月8日にフランコが権力を掌握してから戦後も長らく生き延び、最終的にそこから脱したのは1978年12月6日に議会が民主化を謳った新憲法を承認するまで待たねばならなかった。大日本帝国は、自爆的な対米英蘭豪開戦にもし踏み切らなかったら、ナチスドイツ崩壊後もその強固な国内抑圧機構を武器にスペインよりはるかに長く生き残り続け、日本人自身が自力で天皇神政国家から脱却する可能性はほとんど限られていたと思われる。
それゆえに敗戦とは国民にとってある意味で恵みであったはずだが、大日本帝国からの決別すら未だ果たしえない現在の戦後国家が、今後果たして自らの主体的意思と努力で生まれ変わり得るのか、という深いペシミズムを覚えざるをえない。特に「過去の克服」の阻害要因であり、官僚制に支配され、卑屈な対米従属でありながらナショナリズム的言辞を振り回したがる自民党という利権集団の半恒久的な与党化が避けられない様相が濃くなった今日、その危惧の念を強くする。もはや、「8・15」のような外部からの好機は期待すべくもない。
Ⅷ.求められている課題とは何か
だが、座してこのまま事態が推移するのを眺めているわけにはいかない。戦後を語の真の意味での「戦後」とさせ、そのための理論的精神的基盤となるであろう「過去の克服」=「反大日本帝国コンセンサス」の確立に向けた、広範な社会運動としての歴史の総括と学習が求められている。
前述した80年代における旧西ドイツのホロコーストに関するナチスの犯罪追及を可能にしたのは、地域の市民が参加した郷土史の調査と発表、さらには記念碑の建造を活動の主内容とした「歴史工房」の全国的な広まりであった。そこでは少なくない妨害があったとの報告もあるが、被害者意識を中心とした集団的記憶を加害者としての立場に変容させていく上で、大きな役割を果たしたとされる。日本も、その実践と経験に深く学ぶべきであろう。
今日、日本軍「慰安婦」は「捏造」であるとか、南京虐殺は中国の「宣伝」であるといった、日本の右派勢力及びその言論機関の「歴史」についての言動が旺盛を極めているが、それを許したのは、護憲や平和を語りながらも、真に戦前の歴史と向かい合ってはこなかった私たち自身の怠慢であると受け止めるべきである。それを踏まえるならば、前述したような妄言の批判に留まらず、以下に掲げたような課題も考慮されるべきだろう。
- 「15年戦争」の時代を中心とした反戦抵抗者たちの足跡の掘り起こしと顕彰。ドイツでは「白バラ」のショル兄妹のような勇気ある抵抗者の歴史は正しく継承されているのに反し、この国では反戦抵抗者には未だ目もくれず、逆に「特攻隊」や「硫黄島の玉砕」など、まったく軍事的には無価値の作戦で犬死した兵士らに異常なまでの哀悼が集中しているのは、深刻な歪みではあるまいか。むしろ真に語り継ぎ、志を継承すべきは、海軍で「聳ゆるマスト」を発刊して反戦を訴えた阪口喜一郎、「戦争は罪悪である」と門徒に語って真宗大谷派の一時布教師資格を剥奪された竹中彰元、兵役拒否を訴えた「灯台社」の明石順三ら、誇るべきこの国の良心であろう。
- 天皇裕仁の戦争責任追及。近年の資料発掘や研究の進展で、裕仁が「15年戦争」で果たした能動的な役割は解明されてきた。しかしながら、事実に基づくそうした認識は、社会で定着しているとは言い難い。その理由は、天皇を現人神とした大日本帝国の悪しき遺産によるタブー化に他ならず、裕仁が「平和主義者」で陸軍好戦派の被害者であったかのような誤った歴史的神話を横行させ、戦前の正しい認識の障害となっている。のみならず、豊下楢彦著『安保条約の成立』(岩波新書)で示されたように、占領下で裕仁が自身の保身だけのため、吉田茂ら政府当事者ですら許容しなかったような対米従属による「売国的」な旧安保条約の調印に向け暗躍した経緯がある。その隠された「戦後責任」についても、さらにメスが入れられるべきであろう。
- 特高による弾圧の実態解明と、獄死者ら犠牲者の追悼。1)と関連するが、戦後の最たる精神的怠惰の典型は、治安維持法の犠牲者に対する正当な評価・追悼の念の欠如、責任者追及の姿勢の欠落であろう。それは、大日本帝国的なるものへの拒否感・否定的評価の弱さの反映でしかなく、繰り返すように今日の民主主義の最大の脅威である警備公安警察の野放し状態と密接に関連している。未だ犠牲者の行方が不明となっているケースすらあり、二度と同じ犯罪を繰り返させないためにも警察署内のリンチや拷問、女性に対する性的虐待の実態と共に、下手人の特高警察の氏名と所属、戦後の処遇について仔細な調査が待たれる。
- 戦争犯罪者たちが戦後復活した過程の解明。『ニューヨーク・タイムズ』紙のティム・ワイナー記者著『LEGACY of Ashes The History of CIA』では、60年安保闘争時の首相であった岸信介や自民党、及び賀屋興宣らその有力指導者らが、米国諜報機関の資金援助を受けていた事実が記されている。東条内閣の閣僚でA級戦犯容疑者だった岸やその盟友で海軍の嘱託として大陸における戦略物資の調達を担った児玉誉志夫らが釈放されたのみならず、戦後の国家権力の中枢あるいはその周辺に返り咲き、影響力を保持した経過は依然未解明な部分が多いが、こうした事実は戦後の保守政治の正当性のみならず、それを許した戦後という時代の未熟さを根幹から問うている。これまで触れてきたような大日本帝国の本質的な温存も、この未熟さゆえに派生したと考えられ、「過去の克服」を阻む要因を形成している。である以上、大日本帝国の残党の戦後における返り咲きの謎解明の意義は、強調されすぎることはない。
- アジア諸国から提訴された戦後補償裁判の支援と加害責任の究明。1995年を前後して、大日本帝国時代の日本軍「慰安婦」や人体実験、強制連行・労働、爆撃、遺棄毒ガス兵器等の被害補償・救済を求めて約70の訴訟が起こされている。これらの被害者に対する謝罪と補償は、司法の場ではごく一部を除いて実現していない。これは、明らかに戦後日本の過去の直視を怠った結果であり、侵略と植民地支配、占領という戦争責任からの逃避である。市民の裁判闘争への支援と、勝訴に向けた事実解明への協力が急務となっている。
Ⅸ.終章
昨年末の安倍の靖国神社参拝に関し、米国大使館は「失望した」という異例の強い調子のコメントを発表した。だが、靖国参拝に象徴される大日本帝国的なるものの負の遺産とは、米国の戦後政策が温存させたものに他ならならず、米国は「失望」などと口にする権利を持ち合わせているはずがない。
米国は日本支配の円滑化のために裕仁を利用しようと東京裁判では被告としての追訴を妨げ、さらには反共政策を優先して1948年12月23日にA級戦犯7人を処刑した翌日、岸や児玉ら戦犯容疑者19人を裁判にもかけずに釈放した。1951年8月6日には1万人あまりの公職追放を解除したが、その結果戦後を支配した保守勢力の結集が可能になった事実を思えば、天皇を頂点とした大日本帝国は「反共の防波堤」として米国の支配下に甘んじ、協力することと引き換えに命乞いをして、戦後新たに装いを変えて生き延びたと言えなくもない。
しかしその代償こそ、ジョン・ダレスの言う「望むだけの兵力を、望む場所に、望む期間、日本に駐留させる」という、外国軍隊の半永久的駐留を可能にさせる「権利」を安保条約によって米国に与え、さらに日米地位協定で事実上国家主権も売り渡すという属国化ではなかったのか。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効、すなわち「独立」以降の戦後とは、それまでの米占領軍が引き続き何者にもコントロールされず、実質的な占領政策を延長することが安保条約と日米地位協定によって担保されている時代でもある。
米国がそれを可能としたのは、大日本帝国の基本的な温存策としての裕仁や保守勢力、あるいはA級戦犯容疑者の笹川良一も含めた反共右翼との結託に他ならない。戦後を支配したそのような政治勢力に「過去の克服」を期待するのは最初から無理であって、言い換えれば戦後における「過去の克服」の構造的な困難性、あるいは「戦争責任問題の合理的な解決を阻む理由」(荒井信一『戦争責任論 現代史からの問い』)については、当の大日本帝国を軍事的に解体させた米国自身が作り出したという面が極めて大きい。
前述した4つの歴史的に克服すべき課題は、米国が対米従属の保守勢力を使って生み出した戦後の秩序に桎梏とはならないがゆえに存在し続けた。自民党が戦後一貫して、「靖国神社国営化」法上程や紀元節の「建国の日」としての復活、「日の丸・君が代」の法制化、教育基本法の改悪をはじめとした戦後教育制度への攻撃等の前時代的な政策を続けてきても、それが日本の外国軍基地撤去を含む軍事的外交的自立化へと向かわない限り、米国にとっては許容範囲であったと言えよう。
今回の安倍の靖国参拝への反応も、同じ米太平洋軍の指揮下にある軍事司令部がそれぞれ置かれている日本と韓国が無用な摩擦を起こし、さらには必要以上の中国との対立が生じれば、米国のアジア戦略にとってマイナスになると判断されたためであって、靖国そのものへの内在的批判とは次元を異にする。
1959年3月30日、東京地裁(伊達秋雄裁判長)は、57年7月に東京・砂川における米軍基地建設に反対し、基地内に入ったとして刑事特別法違反で逮捕・起訴された被告7人に、安保条約そのものが憲法第九条に違反しているとして無罪を言い渡した。米国駐日大使のマッカーサー2世が即座に司法に介入し、最高裁長官の田中耕太郎と示し合わせて国に最高裁へ飛躍上告させ、当時進行していた新日米安保条約調印前に合わせて59年12月16日に逆転判決を出させたのは周知の事実である。
この一連の経過は、米軍が占領期初期に制定のイニシアチブをとった日本国憲法、及びそこに体現された平和主義をはじめとする戦後的理念が、冷戦の本格化により安保条約に象徴される当の米国自身の対日政策にとって、今度は障害に転化したのを意味していた。すでに憲法の施行から4年にも満たない1951年2月1日の同条約改定に向けた東京での事務局交渉で、米国側から「再軍備のため憲法を改正することは困難か」と打診されているのは、その証左の一つかもしれない。
しかしながら大日本帝国との決別とは、殺し、殺されるという戦争からの決別でもあったはずだ。であるならば、安保条約によって米国という戦争と軍事紛争を常とする国家に軍事基地を提供し、侵略の前進基地として機能させるのは、東京地裁判決を待たずとも、憲法前文で示された「恒久平和」の精神と真っ向から対立すると考えられる。無論、今日においてもこの判決の正当性は何ら失われてはいない。
顧みれば戦後という時代は、「過去の克服」を成し遂げる前に、対米従属構造というまた新たに「克服」すべき「過去」を無自覚なままその初期に形成して今日に至っている。そのために、本来の「過去の克服」が至難になっているのは間違いない。言い換えれば、戦後早くから「過去の克服」の努力が続けられたなら、米国が大日本帝国を再編して作り上げた憲法理念と反する対米従属構造の最大の障害を生みえたはずであった。だからこそ米国は、繰り返すように「過去の克服」とは真逆の方向で旧支配層を温存したのである。
こうした戦後的事情によって、過去の検証とは、現状批判の有効な武器になっていると考えられる。問われているのは私たち自身の歴史との向き合い方であり、怠惰であるのはもはや許されない。そして、「過去の克服」とはすぐれて「現実の克服」に通じ、在るべき未来にとっての障害を「克服」する糧となるはずだ。である以上、その実現に向けた努力が開始されたならば、いかに困難ではあれ真の民主化と独立、さらには真の隣国との和解の契機となるだろうことを信じて疑わない。
成澤宗男(なるさわ・むねお)
1953年、新潟県生まれ。中央大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了。政党機関紙記者を務めた後、パリでジャーナリスト活動。帰国後、衆議院議員政策担当秘書などを経て、現在、週刊金曜日編集部員。著書に、『オバマの危険』『9・11の謎』『続9・11の謎』(いずれも金曜日刊)等。
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