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Friday, May 23, 2014

"No is a complete sentence" - ニューヨークで稲嶺市長を迎えたてい子・与那覇‐トゥーシーさんのレポート

(5月25日に一部加筆訂正、再投稿しております)

海兵隊新基地に反対するために訪米した稲嶺進名護市長の日程は無事に終わりました。この旅のコーディネートをしたシンクタンク「新外交イニシアティブ」のフェースブックに報告や写真、報道が掲載されています。この訪米や日本や沖縄のメディアだけでなく、ニューヨークタイムズブルームバーグでも報道されました。
 
稲嶺市長の17日のニューヨークにおける公開イベントは「IWJ岩上安身ジャーナル」でもネット中継されており、私はバンクーバーから見ておりました。質疑応答の時間で、沖縄・名護出身で現在ニュージャージー在住のてい子・与那覇-トゥーシーさんが語った思いには圧倒されました。その夜には、ニューヨークの居酒屋で懇親会がもたれたようです。その日の感想をてい子さんが送ってくれて、私が許可をいただいてここに掲載することとなりました。   @PeacePhilosophy 乗松聡子
 
★☆★☆
 
下記の内容は単なる私の感想です。別に掲載用の原稿でも何でもありません。ウチナンチュ、ナグンチュとしての心境を分かち合いたいだけです。

去った 5/17(土)NY 沖縄県人会を中心に わったーナグンチュ達を迎えての宴会をニューヨークにある「浪人」という居酒屋で行いました。40 人程集まり貸切り状態の雰囲気の中で ウチナーウドゥイもしました。稲嶺市長さんも踊りました。Cool  で Humble な人格者だと私に話す会員達もいました。クンジャンさばくい(国頭さばくい)は空手の振りで昔から村芝居で踊られている伝統物。その踊りには男だけ 5, 6 人踊らせました。タイムスの記者: Mr. 伊集は「取材-写真を撮りますので…」と ヌガーラレ ました(笑)。
 
稲嶺市長が踊リ始めると 3人 の女性会員達も参加しました。
この踊りは「カジャディ風」といって歓迎する踊りで、つまり当会のメンバーが踊るものですが、歓迎される側の市長さんが踊っているので、親しみを感じ "down to the earth" な市長だと直ぐ大人気あり でした。誰もサンシンは持って来なかったので、5, 6 人程で、大合唱して合わせていました。彼はきちんと踊っていましたよ。
 
☞ ところで、昼間の1時からは、その居酒屋から 2, 3丁目の場所で名護市長の講演会があり勿論、私も参加。場所狭しの部屋は超満員。後で立っている人達で大勢。私は前から二番目の席。2004年の沖国大での米軍ヘリ墜落と現在の大浦湾の映像を見せての説明。稲嶺氏のスピーチの締めくくりは、その様な状況、県民の声を全く無視し「力」で成し遂げようとする日本政府…それは民主主義と言えるだろうか!? ニューヨーク でこんな事があり得る事だろうか? とても落ち着いて誰にでも納得可能な講演でした。

あの12月27日以来私の脳裏では常にぐずついていた石破茂 幹事長らに 知事は事前に直接、間接 洗脳されていた, との強い疑いもはっきりしました。知事の受信・発信 の能力を疑わざるを得ない対話スキルの限度。再選の選挙公約を破り Yes と返事した県民代表。もしそれが中近東かアフリカ、ロシア辺りなら暗殺されていると、と読谷の(元議員)山内氏の(元)書記、森木さんに私は去年そう返信しました。

さて、「瀬嵩」の濃厚な青海が映った時、私は、心臓が喉元に飛び移ったかの様な瞬間的な強烈を感じました。その海は私の母の出身地瀬嵩である。私の兄貴、石川真生の父親は6歳頃まではそこで育った。私は小学の頃  弟達と夏休みを 浜辺に近かった母の実家で過ごし, 丁度その画像に映っている場所で泳いだり貝殻を拾ったりの夏休みだった。父は戦死。終戦後の食料不足で夏休み中は お米、芋、海産物豊富な瀬嵩に私達は つまり あづけられて いたのだ。その頃はその海岸に離れた小さい森島みたいなのがあった。私は泳いでそこに這い上がった事もある。その森島に松の木が生えていたのを明確に覚えていたので、名護市長さんにそれは違う場所の海かと尋ねたら、同じ海岸であの松の木は枯れてしまったと返事をもらった。私はその時 NYC のど真ん中で 67 年前の記憶にさかのぼっていた。

今この会場で自分には二つの選択がある。ここでじっと黙って  後で行わられる歓迎会で何もなかったかの様に楽しむか、或いは、今迄堪えてきた意見を心底から発言するか…であった。会場対象の質疑応答の時間がきた。3, 4人目かに立ち上がった若い女性が、「沖縄県からN Y に 6年前にやって来ました。基地が無くなると沖縄人の生活はどうなるか?」私は、一見教養ありのこの娘さんの質問に対し苦笑した。その時私は、立ち上がらなければ、若いのに こんなウチナンチュも N Y にいるのだから ウチナーオバーとしての責任感を抱いた。そして時計をチェック。この会場は3時半まで。

実は、国際結婚した人達で沖縄を発った 終戦直後当時から1950年代、60年代、70年代…‥とのあの原点で沖縄現地への認識は Stop している人達が結構いる。沖縄は基地が必要なのだから、何故それが問題なの? と真剣にそう思っている ウチナンチュ達も多い。沖縄問題、基地問題は 何らかの理由で全く無関心か、或いは Denial、否認、否定的である。両英和言語でも対応不可能か 或いは 限界あり  の人達、又単に波風を立てたくない、故に  事 無かれ主義を選ぶ、というタイプ、それが残念な現状であろう。

実は、あの12月27日以来 私は常に石破 茂幹事長が影響していて裏に何かある…戦時中防空壕に避難していた時に B-29 と同じ位い怖かった「友軍」を思い出させるあの男、のイメージが脳裏にあった。自民党5氏が後に座っている背景で石破がマイクで話している新聞記事、それを手に取って 稲嶺氏は講演を続けていた。その新聞記事を見て、成程と直感した。NHK で見た あの日,  東京で車椅子の知事の見当意識への私の直感は命中だった。彼の思考過程と結果的な判断能力が 察知できた。パズルが解明したと思った。そして悔しくて 腹が立ち、アキサミヨ  情けなかった。

沖縄の立場、沖縄現地での上の決定者達に向かって私は話し出すつもりで手を上げた。英語で話し出した。米国に丁度50年在住している名護出身の者です、と自己紹介。さっきの県出身の娘さんの方向に向かって私は現在の新都市が Machinato Housing (マチナト  ハウジング) と 呼ばれた時代にそこに家族で住んでいたが、そこが返還されたあとの現在は実に素晴らしい都市になっている…と言った。その後、今は孫が 4 人いる話にまでなった。そしてあの時代は1ドルは 360円 だった、とさっきの娘さんに向かって追加した。それから私の話テーマの "No is a complete sentence." (No とは完全なる文章である)と話し  それを強調する為に続けた。それはたった二文字から出来た文章なのである。

最後に沖縄人は, 米国や日本政府だけを責めるだけでなく沖縄人皆が統一して権利を威厳よく発揮せねばならないとか、そして No  はあくまでも No  である、と話し終えようとすると  途中だったが拍手された。市長さん達は同時通訳で聞いていました。私は仲井真知事の名前こそ一度も口にはしなかったが、Governor (知事) と一度言ったのを覚えている。誰にでも直ぐさとられた内容であった。講演後、ビルの外でも色んなメディアの人達とも話しあった。

仲里さん(市長秘書)は「浪人」で私に(国際結婚した人から)NY で単刀直入にしかも公衆で政治観、意見を耳にするとは大変以外で心から嬉しかったと感動をのべた。私は 非常に心温まる思いを感じ ますます勇気が湧いた。

あぁ、心理的に便秘していた課題はすっきりしました。ウチナーの為にもっと前進しよう❢

てい子より、

(旧姓: 与那覇定子  名護市字名護出身) 
Teiko Yonaha-Tursi, from New Jersey

 
左から、名護市の仲里さん、てい子さん、稲嶺市長、岸本さん
 
 

Tuesday, May 20, 2014

沖縄「復帰」42周年、名護市長訪米のタイミングで掲載されたニューヨーク・タイムズ論説「沖縄人たちの闘い」(「バトル・オブ・オキナワンズ」)Japanese translation of New York Times Op-Ed "The Battle of the Okinawans" (Norihiro Kato)

稲嶺進(いなみね・すすむ)名護市長が、名護市における米海兵隊新基地建設への反対を訴えるために訪米している。先週は5月16,17日とニューヨークにて市民や大学生向けの講座、識者やメディアとの会合を終えた後、19日からは首都ワシントンにて、米議会議員やシンクタンク研究員とのミーティングや公開イベントを行う予定だ。その稲嶺市長の訪米に合わせるかのごとく、そして沖縄の日本「復帰」(1972年5月15日)復帰42周年の日に、早稲田大学の加藤典洋氏の論説(オプエド)が「ニューヨーク・タイムズ」に掲載された。これはもともと日本語で書かれたものが英訳された記事だが、それをさらに「逆翻訳」して紹介する(したがって個々の表現や訳語の選び方は加藤典洋氏の元の文とは異なる可能性があることをご了承ください)。


ニューヨーク・タイムズ オプエド The New York Times Op-Ed Contributor
 

沖縄人たちの闘い(「バトル・オブ・オキナワンズ」)(注1)
 
The Battle of the Okinawans
 

2014514日(515日版 International New York Times に掲載)
 

加藤典洋 Norihiro Kato  

バラク・オバマ大統領が先月の訪日を終えたとき、日米両政府は安倍晋三首相との会談の成果の概要を述べた共同声明(注2)を発表した。私が見たほぼ全ての新聞記事は2〜3の同じ問題、中でも12カ国の貿易協定である環太平洋経済連携協定(TPP)でこの2人の首脳が合意に至らなかったことに焦点を当てたが、唯一の例外は、沖縄の日刊紙、琉球新報が第1面に在沖米軍を恒久化」という大見出しを掲げたことだった。(注3) 

 「普天間飛行場のキャンプ・シュワブへの早期移設および沖縄の基地の統合は、長期的に持続可能な米軍のプレゼンスを確かなものにする。」琉球新報は他紙が無視していた共同声明のこの一文を取り上げていた。海兵隊の航空作戦を琉球列島全体から撤去させるために、沖縄人は何十年にもわたり闘ってきた。1月に、キャンプ・シュワブが位置する沖縄本島の名護市住民は、普天間基地を市内へ移設する計画の阻止を約束した市長を圧倒的多数で再選し、安倍自民党の強力な支持を得た移設賛成の候補をしりぞけた。

沖縄人は東アジアで最も虐げられた人々である。前近代に琉球王国として知られていた小国は、中国と日本に同時に従属する国であった。(注4)日本は1870年代にこの島々を完全に併合(注5)すると、住民を過酷に扱った。第二次世界大戦末期の沖縄戦では住民の4人に1人が殺された。戦後は米国が琉球諸島を軍事植民地へと作り替えた。 

1972年に沖縄が日本へ返還された後でさえ、沖縄人は日米両政府間の協定の結果として軍事目的のために搾取されてきた。日本と中国がともに領有権を主張している尖閣/釣魚諸島に近いことから、日米両政府にとっての沖縄の戦略的重要性は、近年になって増大してきた。 

この歴史が琉球諸島の住民たちに粘り強さを植え付けた。このことは、オバマ氏が東京に到着するわずか数日前に、東京の安倍政権の担当者に面会した人物によって実際に示された。竹富町という小さな町の72歳になる教育長、慶田盛安三(けだもり・あんぞう)は、彼の地区で中学3年生に歴史修正主義的な新しい教科書を採用することを拒否したことで、文科省から呼び出しを受けた 

慶田盛は脅しに屈しなかった。(注6)彼は、その教科書は必要な手続きを踏んで選ばれたものではないと主張し、またその教科書は、日本の沖縄に対する無情な扱いや米軍基地の存在が引き起こしてきた問題について議論を怠るものだと抗議した。 

すると文科省は、沖縄県の全ての中学校を監督する教育長を呼び出した。しかし彼もまた協力を辞退し、竹富町の教師らの判断を尊重すると語った。(注7) 

この二人や、普天間基地を移設する政府の計画を阻止できるかもしれない名護市長のような人々の存在が明らかにするものは、強大な権力の前にあまりにも長く服従させられてきた人々が備え持つようになった力強さである。 

同時に彼らは、米国への依存から脱出しようとしつつ沖縄人を搾取する日本政府の葛藤をも、一種ねじれた形で体現している。 

 日本政府の2013年度予算は、日本で米軍基地を運営し駐留する38千人の米国軍人と43千人の扶養家族を養うことに伴う費用を負担するために、およそ36億ドル[約3600億円]を配分した。(注8)これには光熱費だけでなく豪華な住宅、プールやゴルフコースの費用も含まれている。日本政府は2008年に嘉手納空軍基地の米軍の子供600人のために中学校を建設したが、近くに日本人の子供645人のために建てられた学校に比べ、建設費は2倍、広さは6倍だった。 

著名な学者や平和運動家らが1月に署名した普天間基地の移設に反対する声明によれば、沖縄県は日本の国土面積のわずか0.6パーセントを占めるに過ぎないが、在日米軍基地の73.8パーセントがここに存在している。沖縄本島だけでも、豊かな農地を含むこの島の5分の1を基地が占めている。言うなれば、日本のこの場所は、日本政府が自らの米国への従属意識を払いのけて押し込めようとしてきた闇の世界なのだ。 

 2009年に、民主党が政権についていたとき、鳩山由紀夫首相は戦後初めて米国への依存から日本を遠ざけ、他のアジア諸国とのつながりを強調しようと試みた。普天間基地を沖縄県外に移設するという彼の約束はこの試みの焦点だった。鳩山氏はこの企てに失敗したが、普天間問題が終わったわけではない。沖縄の人々は今も基地に反対している。 

この決意をもって沖縄の人々は、本当の抵抗運動とはどのようなものかを日本政府に思い知らせるのかも知れない。
 



加藤典洋(かとう・のりひろ)は文学者で早稲田大学教授。この記事はマイケル・エメリックにより日本語から英訳された[訳者注:本和訳はそれをさらに日本語に逆翻訳したもの]。
 

翻訳:酒井泰幸  翻訳協力:乗松聡子

 
訳者注
 
  1. 原題は The Battle of the Okinawans (ザ・バトル・オブ・ザ・オキナワンズ)となっており、これは明らかに「沖縄戦」の英語表記 The Battle of Okinawa (ザ・バトル・オブ・オキナワ)にかけたものであるので、それが伝わるように原題をカタカナで付記した。
  2. 日米共同声明:アジア太平洋及びこれを越えた地域の未来を形作る日本と米国 http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page3_000756.html
  3. 琉球新報電子版の記事はここ http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-224346-storytopic-3.html 
  4. 琉球は14世紀後半から中国との朝貢・冊封関係を持っており、「中国と日本に同時に従属する」という状態は、1609年琉球が薩摩による武力侵攻を受けて以来のものであった。
  5. 「琉球処分」と呼ばれる、日本が琉球王国を政治的圧力と武力で強制併合し、王国を滅ぼして「沖縄県」とした一連の過程。
  6. 参考記事「文科省の姿勢 不当な恫喝は許されない」(琉球新報4月19日社説)http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-223843-storytopic-11.html 参考記事「沖縄県教育長『竹富町の意向尊重』 教科書採択で文科省に」(日経4月22日) http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG22015_S4A420C1CR0000/ 
  7. 「八重山教科書問題」については当ブログの前田佐和子氏の寄稿を参照。「揺れる八重山の教科書選び」(2011年9月16日)http://peacephilosophy.blogspot.ca/2011/09/blog-post_16.html 「八重山教科書問題の深層」(2012年5月23日)http://peacephilosophy.blogspot.ca/2012/05/part-ii.html
  8. 防衛省・自衛隊HP「在日米軍駐留経費負担」のページを参照。http://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/us_keihi/ 
  9. 「世界の識者と文化人による、沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明」http://peacephilosophy.blogspot.ca/2014/01/blog-post_8.html 「世界の識者と文化人による沖縄声明、100人を超える」http://peacephilosophy.blogspot.ca/2014/01/blog-post_30.html
 

Sunday, May 18, 2014

どうして誰も「交戦権」を語らないのか:ダグラス・ラミス

安倍政権が世論の反対をよそに押し切ろうとしている改憲によらない集団的自衛権行使容認について、政治学者のダグラス・ラミス氏と他の数人の仲間たちとのメールのやり取りでラミス氏が書いていたことを許可を得て引用する。

Douglas Lummis
You can't talk sense about this issue if you refuse to use the key term, right of belligerency, which means the right to kill people on the battlefield without being guilty of murder. Article 9 says the Japanese state has not been given this right. Another deception is the use of the expression "the least necessary amount of force". The word "least" makes it sound like something very small. But in war, the least necessary amount of force is the amount necessary to win.
この件については、鍵となる言葉、「交戦権」を論ぜずして理にかなった話をすることはできない。「交戦権」とは、殺人罪に問われることなく戦場で人を殺す権利である。憲法9条は、日本国はこの権利を与えられていないと定めている。もう一つごまかされているのが「最低最小限度の武力」という表現の使い方だ。「最小」という言葉は何か小さなもののような響きがある。しかし戦争における必要最小限度の武力とは、勝つために必要な武力のことである。

I believe the right of belligerency is the precise key to determining what is war and what is not. When you have it, you have the legal right to kill and destroy, and to be treated as a POW when you are captured.  When you take military action without it, you are a criminal.  It 's extremely interesting that just about everybody wants to carry on this discussion without using the term.
「交戦権」こそが、何が戦争で何が戦争でないかを決定する明確な鍵を握っていると思う。交戦権を持つ場合は、殺し、破壊する法的な権利を持ち、捕われた場合はPOW(戦争捕虜)としての扱いを受ける権利を持つということだ。交戦権なしに武力行使した場合、犯罪者となる。今回誰もこの言葉(「交戦権」)を使わずしてこの議論を続けていることが大変注目すべきことと思っている。
5月15日、集団的自衛権行使について、在外邦人を紛争地から救助した米国の艦船が狙われたら何もできないのが今の憲法なのだ、とあり得ないような事例を使って人の情に訴えるような芝居を打った安倍氏。この会見の夜にTBS「ニュース23」の膳場貴子キャスターも、ゲスト出演していた自民党の石破茂氏に「これは人が殺し、殺される問題なのだということをほとんどの人は触れない」、と挑戦していたがやはりスルーされていた。この問題が実際に人命がかかる重要な議論であるということから逃げ回っている政府は、すでに人命軽視の政府であるということを自ら宣伝しているようなものだ。@PeacePhilosophy

このブログのラミス氏関連の過去の投稿は:

原発は東京へ、普天間基地は日本本土へ

Douglas Lummis on Smedley Butler, and Butler's "War is a Racket" speech


Thursday, May 15, 2014

Mayor of Nago, Okinawa is in the United States to say "NO!" to the new U.S. base plan in his city

 
Mayor Inamine before he departs, with his supporters at Naha Airport, May 15, 2014
Photo: Kazue Nakamura-Huber
 
 
Today, Mayor Susumu Inamine of Nago City, Okinawa, arrived in New York City. See below the press release.
 
For public events in New York and Washington, see:




Friday, May 09, 2014

日本が克服すべき過去とは何なのか:成澤宗男

第二次世界大戦の終結、日本の敗戦から70周年となる来年に向けて過去を振り返り記憶するさまざまなイベントや集会、学会、出版物、映像等が企画されるでしょう。かたや安倍政権による「戦後」の破壊――第一次政権時の教育基本法改変にはじまり、解釈改憲によって9条を無効にする試み、靖国神社参拝をはじめとする歴史誤認識言動の数々、教育への政府による圧力加速、隣国敵視を煽り戦争を可能にする環境づくり、等を市民の側から止めることができずにいます。これには私たち市民の側の歴史認識不足、つまり1945年を境に日本が乗り越えようとしてきたものは何だったかということについて明確な認識や理解が欠けていることにも原因があるのではないでしょうか。ジャーナリスト成澤宗男氏の今回の寄稿はそのような中で意義深く、タイムリーなものであり、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思います。@PeacePhilosophy

★リンク拡散を歓迎します。この投稿のURLは
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2014/05/blog-post_10.html

また、全文転載希望の場合は必ずinfo@peacephilosophy.com に連絡の上許可を取ってからお願いします。



戦後69年の「過去の克服」という課題


―「反大日本帝国コンセンサス」の確立に向けた思索のために―

成澤宗男 

Ⅰ.「克服」すべき「過去」とは

 安倍晋三首相による昨年12月26日の靖国神社参拝は、隣国の中国や韓国のみならず、世界的に大きな驚きと批判を引き起こした。日本の首相がこれほどの広がりと激しさを伴って否定的評価の対象となったのは、おそらく戦後例がないだろう。のみならず世界は、安倍という右翼政治家の行動や体質だけに留まらず、改めて日本という国家が戦前はナチスドイツと共にファシズム陣営に属していた過去を呼び起こし、同時にその現在の在りようが、過去からどの程度までに距離を置きえているのかという点について、疑念を抱いたのではないだろうか。

 だが、考察すべきは海外の論評ではない。12月26日に起きた事態を招いた、敗戦から来年で70年を迎えようとしているこの国の現実に対しての、私たち自身の批判力こそが問われている。1945年9月2日の対連合国降伏文書調印をもって戦前と断絶したはずの戦後という時代で、首相・閣僚の靖国神社参拝のみならず、大日本帝国の価値観、制度、そしてそれが過去に手を染めた様々な犯罪を、なぜこの国は未だ清算できないままでいるのか―という検証が求められているように思える。

 そもそも戦後の出発点にあっては、戦前という「好ましからざる」時代と決別し、それとは別の内実を伴った国として出発せねばならないという認識が大まかではあれ前提としてあったはずであり、またなければなかった。日本国憲法が、前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」したと宣言しているのは、その意思表明の一つであるのは疑いない。

 しかしながら、そもそも戦前において何が「犯罪的」であり、「克服されるべき」ものとして認識されるべきかという課題に対し、今日までなお曖昧な回答しか用意されていないのではないだろうか。同じ敗戦国として戦後の歩みを比較される機会が多いドイツ(統一前の西ドイツを含む)は、「好ましからざる」ものとはナチス的なるものの一切を示し、その清算を「過去の克服」という語を用いて、政治的立場を超えた国全体のコンセンサスにしたと見なされている。

 一方で戦後日本がドイツと比較した場合、どこまで「過去の克服」について自覚的であったのか、あるいは仮に自覚的であったとして、そもそも「克服」すべき「過去」(「好ましからざる」もの)とは、具体的に何であると認識されてきたのか。振り返れば、戦後の社会において「過去の克服」に向けての自覚的な姿勢が確立され、それを実現するために論議された形跡は全体としては乏しい。当然ながら、いったい何が「克服」されるべきかという国民全体の共通の理解も生み出されはしなかった。ほぼ唯一、戦後において新たな社会の集団的記憶として認められるのは、戦争(具体的には太平洋戦争として記憶されている戦争)への嫌悪感、あるいは厭戦意識であったろう。

 しかしながら、戦争とは大日本帝国が手を染めた数々の犯罪、犯罪的行為の一部であって、そのすべてでは毛頭ない。のみならず、その戦争は最終的に対米英蘭豪を交戦国とするアジア太平洋戦争まで拡大したことで大日本帝国の瓦解を結果したが、もしこの国家がより賢明で合理的判断が可能な指導者を擁していたならば、日中戦争は対米英蘭豪開戦の前にいずれかの段階で政治解決できたと推測される。あるいは1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北を契機に交戦国との何らかの停戦を実現したなら、本土空襲や沖縄戦、原爆投下、さらには国民生活の極度の困窮という、今日まで太平洋戦争の記憶として最も強く留めている事態も回避された可能性を否定できない。

 そのように戦争が少なくとも極度の「敗北」感と国民の日常生活の破綻を伴わずに終結していたなら、戦争への嫌悪の度合いは減じられたのではないかという推測が成り立つ。戦後嫌悪されたのはあくまで「敗戦」なのであって、必ずしも戦争一般ではなかったろう。そのためいくら「敗戦」あるいはそれをもたらした戦争指導だけを否定的に評価しようが、そのことによって戦争を恒常化していた戦前との断絶、または「過去の克服」が即成し遂げられるはずもない。戦争が問われるとしたら、後述するように敗戦に終わったアジア太平洋戦争に留まらない大日本帝国の戦争すべてであろう。


Ⅱ.大日本帝国総体を問う視座

 では、戦後で「克服」されるべき「過去」とは具体的にいかなる事柄を対象とすべきなのか。おそらくそれは、

A. 教育勅語(国民教育)に象徴される天皇絶対主義、及びその精神的支柱をなした国家神道への服従強要と精神の自由否定

B. 朝鮮半島や台湾等の植民地支配とそこでの被支配者に対する蔑視・偏見、及び差別、

C. 特高警察・思想検事・憲兵等による極度に暴力的な治安弾圧

D. 自国本位思想と武断主義に基づいた侵略政策――

という項目を内包した、大日本帝国的なるものの一切であると考えられる。

 無論、実質的には1868年1月3日の王政復古から始まった大日本帝国の時代にあって、これら4つの項目が等しく同様の強度を持ち続けたのではない。そもそも、朝鮮半島の支配と大陸への拡張主義を熱烈に支持するような忠君愛国のナショナリズム=「皇国意識」が形成されたのは1894年の日清戦争以降であるとされ、昭和期のファシズムについても1935年に2度出された「国体明徴に関する政府声明」のような神懸かりの国家主義は、「大正デモクラシー」期には相対的に抑制されていたと考えられる。その端緒となって攻撃された美濃部達吉の「天皇機関説」も、それ以前は公認の憲法学の通説とされていた事実は良く知られている。また1938年から開始された国家総動員体制は、戦前において特異の制度であったのは言うまでもない。

 しかしながら時代ごとの強弱はあれ、4つの項目を生み出す理念的制度的基盤はすべて大日本帝国の初期から散見されるのであって、通常「15年戦争」と表現されている1931年9月18日の満州事変勃発以降の戦時下の時代に、問題が限定されているのでは決してない。

 例えばA、Bはすべて明治期に確定し、特にBについては関東大震災時の朝鮮人虐殺が象徴している。Cについても大逆事件や亀戸事件・甘粕事件等で示された凶悪さは、30年代の治安弾圧と共通する。Dについても、山縣有朋が1890年12月6日の第1回帝国議会における「施政方針演説」で示した、「主権線(国境)の守護」と「利益線(注=主権線と密着に関係した隣接区域)の保護」という、2つの「国家独立自衛の道」が軍事的原型である。

 大日本帝国は以降、「主権線の守護」の後に軍事行動を起こし、「利益線」としての朝鮮半島を支配した後もさらに対外膨張を続け、朝鮮半島に隣接する満州を新たな「利益線」として掌握した後は北支(中国北部)へと手を延ばし、日中全面戦争を引き起こした。その結果もたらされた軍事的行き詰まりの打開を求め、東南アジアの資源強奪を目的に真珠湾攻撃に先立つマレー半島侵攻作戦に打って出たのだった。

 また1905年4月4日に策定された「帝国国防方針」では、より具体的に「満州及び韓国に扶植したる利権と亜細亜の南方竝太平洋の彼岸に皇張しつつある民力の発展とを擁護するは勿論 益々之を拡張するを以って帝国施政の大方針」とすると明記してあるが、歴史は「大方針」通りに進んで「皇軍」が「拡張」を続けた結果、自滅する結果になった。

 その意味で1945年9月2日の降伏をもたらした戦争は、遠因をたどれば大日本帝国の明治期の軍事方針に行き着く。しかも、日本軍による1937年12月から数か月続いた南京大虐殺は、日清戦争時の1894年11月の旅順における一般民虐殺事件や、同年から1895年にかけての朝鮮における東学農民軍に対する凄惨な殲滅戦からの延長ともいえよう。満州事変を引き起こした関東軍による1931年9月8日の柳条湖の南満州鉄道爆破事件が、謀略性という点で、日清戦争の火ぶたが切られた1894年7月23日のソウル・景福宮の攻撃と軌を一にしているのも、決して偶然ではない。後者は、「日本軍が発砲された」という虚偽名目で、日本軍が朝鮮政府の国王がいた景福宮を攻撃・占領。目的は、開戦目的を捏造するために国王を捕虜にし、「清国軍を朝鮮から追い出してくれ」という「公式の要請文」を入手するためだった。

 このように、大日本帝国とは、これらの項目が壊滅までの時期において最大公約数的に通低していた、本質的に抑圧的侵略的な国家であった。したがってドイツにおいて「反ナチス」が国民的コンセンサスであると同様に、この国においても「反大日本帝国」がそのようなものとして受け止められるべきである。

 ちなみに日清戦争は以後50年あまりに及ぶ大日本帝国による侵略戦争を駆り立てた帝国主義的ナショナリズム形成の端緒となったが、「国民作家」司馬遼太郎の『坂の上の雲』における「明るい明治と暗い昭和」なる対比のおかしさをここで指摘する必要があるだろう。歴史修正主義そのものであるこの書では、昭和の軍国主義と侵略戦争があたかも1905年の日露戦争終結後に生まれた「おごり」の結果であるとし、さらに司馬は「日本における狡猾さ」や「卑劣としか言いようのない国家行動」は大正期に「用意された」(『ロシアについて』)と述べる。

 つまり大日本帝国が、この二つの戦争後に初めて悪しき軍事的変質を遂げたかのような主張であって、幼稚極まる珍説だが、多くの読者を獲得して俗耳に入りやすい分、歴史認識の上では危険極まりない。司馬は『坂の上の雲』で、日露戦争自体が中立を宣言した大韓帝国を無視してその国土を蹂躙するという国際法の違法行為から始まったという不当性すら、何の言及もしていない。


Ⅲ.日独の歴史的スパンの差異

 したがって、すでに触れた「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」したという日本国憲法前文の中の「戦争」とは、国民の多くの念頭にあったと思われる対米英蘭豪戦争に限ることは本来できないはずだ。あるいは、日中戦を含む「15年戦争」でもない。「15年戦争」の端緒である満州事変が、日清戦争と日露戦争という大陸への侵略のプロセスと切り離して説明可能なはずがないからであるが、にもかかわらず日清と日露の二つの戦争をめぐっては、司馬に代表されるように侵略戦争と認識される程度が今でもこの社会で乏しいのは悪しき傾向だろう。

 振り返れば「15年戦争」どころか、日清戦争を前後し、1945年まで半世紀以上にわたり大日本帝国は侵略戦争と軍事行動を継続してきたのであって、1875年の江華島における朝鮮への軍事挑発に始まり、以後の台湾出兵、シベリア出兵、山東省への出兵等を考慮すれば、侵略戦争あるいは軍事膨張主義も強弱はあれ、30年代以降だけに留まらない大日本帝国の本質的属性と見なされる。

 このように、戦争だけでも大日本帝国総体としての視点を見失うならば、「過去の克服」は困難となろう。同時にこのような視点からすると、戦後の課題としての「過去の克服」とは、ドイツと異なってはるかに歴史的スパンが長いという事実に気付く。ナチスは権力を掌握した1933年3月23日の全権委任法採択以降、ベルリン攻防戦の果てに連合軍に降伏した1945年5月8日まで、わずか12年と2ヵ月余の命脈を保ったに過ぎない。なおイタリアのファシズムはもう少し長いが、それでもムッソリーニのローマ進軍から3日後の1922年10月31日に国家ファシスト党と人民党・自由党・社会民主党の連立による第一次ムッソリーニ政権が成立して以後、連合軍とイタリア新政府が単独休戦した1943年9月8日まで約20年程度であった。

 しかしながら大日本帝国は、王政復古から数えれば77年続いたのであり、現時点で戦後をまだ時間的に上回っている。そこでは、ドイツのワイマール時代に相当する経験も存在しない。そのためかドイツの「過去の克服」が反ナチスコンセンサスと同義であるものの、日本には戦後、「反大日本帝国コンセンサス」は生まれず、具体的に何が「克服」されるべきかの国民レベルでの一致した認識すら確立はされなかった。それはドイツのように30年代に社会から勃興した特異な一団が短期間支配したのではなく、戦前は軍や官僚、宮中、そして政治家も含めた極めて重層的かつ複雑な支配構造が長期間形成されていたため、意思決定者の特定も責任の所在も単純ではなかったためでもあろう。

 そのため、「克服」されるべき対象の特定化が困難となり、ドイツと異なる歴史の長さと広がり、深さから起因して、「克服」を容易には成しえなくする長期間に及んだ大日本帝国的なる社会認識・価値観の定着・継続化が今日まで確認できる。例えば、天皇崇拝、個を圧する集団主義、『侵略戦争』であったという明確な政府見解の不在、靖国・護国神社の現存、歴史修正主義の再興、例年の「全国戦没者追悼式」に見られるような戦死者があたかも戦後の復興と繁栄に寄与した如くの一種の英霊信仰―等。

 ドイツ国民にとって、ナチスが権力を掌握していた12年と2ヵ月余とは、一種の時間的限定性を伴った異常な時代として認識する余地があったはずである。しかし日本の場合の77年という歳月はあまりに長く、その時代的限定性が乏しい分、1945年9月2日以降は大日本帝国からの断絶よりも、こうした継承面がより濃厚に現れているのは否めない。

 日本が戦後、国際社会に復帰するために不可避だった極東軍事裁判にしても、張作霖爆殺事件が起きた1928年6月以降の日本政府、軍による侵略戦争の「共同謀議」が裁かれたのであって、大日本帝国そのものが対象であったのでは決してない。しかもこの占領下の裁判以外、国民が主体的に大日本帝国の犯罪的行為やその制度を正面から追及するような試みは乏しかった。

 さらに、極東軍事裁判自体の不十分性(例えば裕仁の免訴、日本軍「慰安婦」や強制連行に象徴される残忍な植民地支配と東南アジアにおける強制労働=捕虜・住民の虐待についての審理からの除外、中国大陸における細菌兵器・毒ガスの使用の不問、極めて限られた人数の処罰、開廷期間の時間的短さ等)に加え、米国の日本民主化への熱意の喪失が輪をかけた。「克服」すべき課題が山積されたまま時代は本格的な冷戦期を迎え、「過去」との断絶の意欲が決定的に薄れて、「過去」の指導者の復権と、彼らを組み込んだ新たな米国による支配体制の再構築が優先的に進行したのだった。


Ⅳ.断絶より継承という面の優勢

 その結果生じたのが、戦前との対峙の意識を欠き、自身の所業について極度に無自覚で突き詰めた反省も放棄し、日本国憲法で示されたはずの国民主権と基本的人権、平和主義という基本的理念すら、戦前的要因を背景に常に脅かされ続けている戦後という弛緩した時代である。「反大日本帝国コンセンサス」はついに確立されることはなく、それどころかA級戦犯容疑者が一国の首相になり、侵略戦争を推進した高級軍人も堂々と国会議員に当選したほか、米国主導による1954年7月の自衛隊創立に動員された。

 しかも判明しただけでも1697人以上(「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」調べ)を拷問やリンチで殺害した特高警察は、誰一人刑事罰を受けることもなく、いち早く警察組織内で警備公安部門として温存・再編されて今日に至っている。ドイツの「過去の克服」の内実とは、①「ナチス犠牲者への謝罪と補償」、そして②「ナチス犯罪に対する司法での刑事訴追と処罰」であったとされる。だが戦後日本では、①の「犠牲者への謝罪と補償」の不十分性はここでは触れないが、②についても占領下の極東軍事裁判とまったくの不徹底に終わった公職追放以外、ドイツと異なって独自に戦犯を裁いたこともなければ、こうした特高警察の暴虐を「司法での刑事訴追と処罰」の対象とすることもないままに終わった。

 かつて吉田茂は、以下のように述べ、1945年の断絶を否定してみせた。「日本の憲法は御承知の如く五箇条の御誓文から出発したものといってもよいのでありますが、所謂五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情を唯文字に現わしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります……。日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。……日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行なわれたことはないのであります。……故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表したに過ぎないものであります」(1946年6月25日、帝国議会衆議院本会議での発言)。

 そもそも、大日本帝国憲法で「神聖にして侵すべからず」という政教一致の神権政治を司る天皇が、「朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓」ったという内容を「衆またこの趣旨に基き協心努力せよ」と「勅語」で命令した上意下達の「御誓文」が、どう「民主主義」と関係するのか。

 これほどの露骨な歴史的歪曲を時の最高権力者が容易に口にできたのは、吉田自身が身を置き、支配の一環を担った権力構造である明治期以降の太政官制が戦後もそのまま官僚機構として生き延び、継続しえたことの自負の裏返しではなかったのか。無論、戦後の西ドイツ国家も官僚機構(特に諜報機関)から見れば人的に戦前との継続性が認められようが、その政府が戦前について「圧制政治」や「暴虐なる政治」ではなかったなどと言い訳するほど愚かではなかったろう。

 無論、すでに1940年代後半から開始されていた丸山眞男や石田雄といった先駆者による「戦争責任」の考察は、何ごともなかったように敗戦以前から「民主政治」が続いていたかのような虚偽に挑戦する意義があった。その試みは大いに評価されるべきではあるが、こうした問題意識は限られた知識人以外国民全体から見れば広がりを持たなかったし、さらには「戦争責任」の問いかけ自体、満州事変以降の政治過程に限定されていた。

 その時代、「15年戦争」で跳躍した軍人や超国家主義者、官僚、政治家の戦争責任を追及することは当然ながら喫緊の課題であったろう。だが、本来追及されるべきそうした者たちが一人残らず物故者となったと思われる戦後69年目の今日、なすべき「過去の克服」とは、戦争責任者の追及継続を包摂しながら、「15年戦争」にまで行き着き、あるいはそれを生み出した土壌である前述した4項目をはじめとした大日本帝国の価値観、制度、行動様式の一切の原則的否定に他ならない。戦争犯罪に時効はない以上、「15年戦争」の戦争犯罪の責任追及は今日においても避けられない課題である。ハンガリーで2012年7月、97歳の元警察幹部がホロコーストに加担したとして逮捕された事件は、改めてわが国のそうした追及の「甘さ」を知らしめているが、そこで前提とされるべきは、あくまで「15年戦争」に留まらない「反大日本帝国コンセンサス」なのである。


Ⅴ.執拗に生き永らえる「戦前」

 かつての西ドイツにおいても、ホロコーストへの加害責任の自覚に基づいたナチスの犯罪追及が社会的に本格化したのは1980年代まで待たねばならなかった事実を想起するなら、この国における「過去の克服」は開始が遅れはしても、断念されてよいはずがない。 しかも、そうした「遅れ」に起因する退化的事象がすでに構造化している。

 前述の4つの項目に照らすならば、Aは横行する教育現場での「日の丸・君が代」強制と教科書記述(日本軍「慰安婦」、南京大虐殺等)の国家統制、首相・閣僚・国会議員ら公人の靖国神社参拝と、それを推進する宗教右翼を中心とした「日本会議」に見られる大衆運動としての「大日本帝国への回帰」、戦死者を「今日の繁栄の礎」などと規定する新たな英霊化等である。Bは近年一部右派誌や週刊誌、夕刊紙による、戦前の「暴支庸懲」を思わせるような商業主義と裏腹の隣国への執拗な憎悪と蔑視の扇動、Cについては、戦前の最も残忍な抑圧装置である特高の継承者であり、不当にも活動実態が一切公開されていない警備公安警察の野放しの人権侵害、市民的諸権利の破壊―という形で具体例が挙げられよう。「過去」が克服されるどころか、このように別の形態でかねてから再生している。

 特にCについての以下のような動向は、この国がかつての大日本帝国と本質的な差があるかどうか疑わしい抑圧性を強固に保持する人権後進国家であるという事実を雄弁に示していよう。
  1. 「3・11」以降に高揚した反原発を求めるデモを典型として、平和に行進しているだけの市民に対する機動隊・警察の暴行や無差別逮捕。
  2. 共産党や労働組合、反原発をはじめとした市民運動に対する違法なスパイ潜入工作や日常的監視。
  3. 市民団体の集会に対する、私服の公安が会場周辺に大挙して集結してのこれ見よがしの威圧。
  4. 免許証記載の住所と現住所の違いなど、狙いをつけた活動家に対するごく些細な口実による逮捕と家宅捜索といった違法捜査の横行。
ここで細部を紹介する余裕はないが、こうした実態は記者クラブ制度による警察権力とメディアの癒着によってほとんど報じられることはないか、あるいは報道されても警察サイドに立って“過激派の犯行”などと誤報がまかり通るケースが大半である。今もこの社会は、暴力と遵法精神の欠如、市民的諸権利の無視を特徴とする警備公安警察をチェックする機能を有してはいない。またDについても、侵略主義こそ対米従属と引き換えに影を潜めたものの、そもそも歴代首相が過去の戦争を「侵略戦争」と明言した事例が稀であるという事実は、為政者からして「過去の克服」の姿勢がドイツとは異なり、著しく欠如している実態を示す。のみならず、そのことが隣国からの許容しがたい不信を招くに至っている。
 今回、安倍が参拝した靖国神社にしても、「先の『大東亜戦争』は、わが国の自存自衛と人種平等による国際秩序の構築を目指すことを目的とした戦いでありました」(靖国神社内の軍事博物館『遊就館』の発行物から引用)などと公言している。


 
Ⅵ.侵略を否認する態度

 そこに参拝した安倍自身、2013年4月23日の参議院予算委員会で、侵略という用語について驚くべき発言をしている。席上、自民党の丸山和也議員が、「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」との一説がある「村山談話」(戦後50年に当たっての村山内閣総理大臣の談話。1995年8月15日)を取り上げ、「まったく中身を吟味しないまま、とにかくあいまいなまますみませんというような、事なかれ主義でうまく仲よくやりましょうよみたいな文書」で、「歴史的価値はまったくないと思うが、総理はどう思われますか」と質問した。
これに対し、安倍は「村山談話」について得たりとばかり同調しながら、次のように述べているのだ。

 「特に侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」

 だが、1974年12月14日の国連総会で採択された総会決議3314の付属書の第1条では、侵略について「国家による他の国家の主権、領土保全若(も)しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義されている。しかも日本は採択に加わっているが、もしドイツ連邦共和国の首相が国会で安倍と同じ答弁をしたら、周辺国でどのような反響を巻き起こすであろうか。

 さらにこの答弁後の同年5月16日、民主党の辻元清美衆議院議員が「『侵略の定義』など安倍首相の歴史認識に関する質問趣意書」を提出し、その中で①日中戦争②「満州国建国」③太平洋戦争④真珠湾攻撃の4つを例に挙げ、安倍自身が「侵略行為だったという認識か」と具体的に質問した。ところが、回答はすべて一律に「国際法上の侵略の定義については様々な論議が行われており、お尋ねについては確立された定義を含めお答えすることは困難である」としている。

 いったい、前述の総会決議3314付属書の「確立された定義」に、どのような「論議」があるというのか。そして①から④までの事例が「確立された定義」に照らして侵略でないとすれば、安倍が「引き継ぐ」と言明している「村山談話」の「植民地支配と侵略」とは、具体的に何を指しているのか。
1945年6月26日にサンフランシスコで制定された国際連合憲章では、第1章で国際連合の「目的及び原則」として、「平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧」と明記してある。これは、第二次世界大戦中の日本やドイツなどの国家の行動が念頭されていたのは間違いない。

 しかも同じサンフランシスコで6年後の1951年9月8日に調印された、日本の国際社会への復帰を認める対日講和条約では、前文で「日本国としては、国際連合への加盟を申請し且つあらゆる場合に国際連合憲章の原則を遵守し、世界人権宣言の目的を実現するために努力」すると明記されている。にもかかわらず日本は、国際連合憲章で繰り返してはならないとされた過去の「侵略行為」について、戦後69年を迎えようとしている今日においても「定義は無い」と公言し、それが自国の過去の行為であるかどうかすら「お答えすることは困難である」などという姿勢を崩してはいない。戦後が出発するにあたって前提とされた認識と、現在の公権力の姿勢の乖離は深刻である。


 
Ⅶ.近づく「戦後の平和」の終焉

 またDの「自国本位思想」については、Bの「蔑視・偏見・差別」とも関連しながら、近現代史において沖縄への政策に濃厚に認められ、今日まで継続している。琉球王国は、1609年の侵攻後薩摩の支配を受けた上、1870年代には明治政府により日本への強制併合に向けての動きが進んだ。1879年3月27日に700人前後とされる装警官・軍隊を率いた琉球処分官が首里城に乗り込んで琉球王朝を滅ぼした後、大日本帝国は沖縄を徹底した皇民化教育の優先対象とした。その一方で、対米英蘭豪戦争ではとうに戦況が決していた段階で沖縄を「皇土」から除外し、「本土決戦の捨石」にした。日本軍の戦闘に巻き込まれ、なかには避難壕から追い出されたり、捕虜になるよりは自ら死ぬことを強制されたりして、沖縄県民の実に4人に1人という約15万人もの住民の死者を出す大惨事に至らせた。

 ところが占領下の1947年9月19日、裕仁はおそらくは自身の保身だけのために宮内府御用掛・寺崎英成をGHQの外交顧問に派遣し、「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を25年ないし50年、あるいはそれ以上軍事占領し続けることを希望している」という旨の「メッセージ」を託している。その後、調印されたサンフランシスコ講和条約の第3条で、沖縄は「合州国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」よう定められ、その結果1952年4月28日の日本の「独立」とは切り離されたが、この処遇が裕仁の「メッセージ」と無縁であったはずがない。

 その結果、沖縄では米軍による基地建設のための「銃剣とブルドーザー」による土地強奪が加速し、1972年5月15日の「本土復帰」から40年以上たった今日も、全国の米軍基地の約74%が沖縄1県に集中し、無数の基地被害が続くという異常事態にある。それどころか名護市辺野古には、海兵隊普天間基地「移転」に名を借りた、海兵隊を運ぶ強襲揚陸艦の接岸も可能な新基地の建設も強行されようとしている。

 こうした不断に沖縄県民に犠牲を強い、苦痛を及ぼし続けている歴史の経緯が、琉球処分以降の差別政策と無縁であるはずがない。県民が今日も対峙しているのは、大日本帝国以来の、沖縄を常に犠牲にしても意に介さない「ヤマト」の「自国本位思想」「植民地主義」に基づいた政策と、強制併合しておきながら、本音では沖縄を「日本」とは見なさない差別的心情ではないのか。

 その沖縄は、またもや軍事的な緊張感に襲われている。憲法9条と「専守防衛」という建前を次々に破棄して海外遠征軍としての性格を強めている自衛隊との共存を許してきた思考的怠惰は、武力衝突を当然視するような現在の対中感情の悪化に伴い、尖閣諸島を巡る最悪の事態に発展しかねない事態をもたらした。そこで真っ先に犠牲になるのは沖縄であり、そこではさらなる自衛隊の軍事強化が図られている。

 同時に「日米同盟」と称した軍事同盟に対する思考停止と現状追随は、集団的自衛権行使の合憲解釈によって世界の軍事紛争に自衛隊が参戦する可能性を排除できないところにまで行き着きつつある。戦後における「過去の克服」がまったく未完のまま、今後も歴史的退行と思考停止を重ねるのであれば、平和主義と同義とされたという意味での戦後という時代の終焉が通告されるのは時間の問題となろう。

 スペインのファシズムは1939年8月8日にフランコが権力を掌握してから戦後も長らく生き延び、最終的にそこから脱したのは1978年12月6日に議会が民主化を謳った新憲法を承認するまで待たねばならなかった。大日本帝国は、自爆的な対米英蘭豪開戦にもし踏み切らなかったら、ナチスドイツ崩壊後もその強固な国内抑圧機構を武器にスペインよりはるかに長く生き残り続け、日本人自身が自力で天皇神政国家から脱却する可能性はほとんど限られていたと思われる。 

 それゆえに敗戦とは国民にとってある意味で恵みであったはずだが、大日本帝国からの決別すら未だ果たしえない現在の戦後国家が、今後果たして自らの主体的意思と努力で生まれ変わり得るのか、という深いペシミズムを覚えざるをえない。特に「過去の克服」の阻害要因であり、官僚制に支配され、卑屈な対米従属でありながらナショナリズム的言辞を振り回したがる自民党という利権集団の半恒久的な与党化が避けられない様相が濃くなった今日、その危惧の念を強くする。もはや、「8・15」のような外部からの好機は期待すべくもない。


Ⅷ.求められている課題とは何か

 だが、座してこのまま事態が推移するのを眺めているわけにはいかない。戦後を語の真の意味での「戦後」とさせ、そのための理論的精神的基盤となるであろう「過去の克服」=「反大日本帝国コンセンサス」の確立に向けた、広範な社会運動としての歴史の総括と学習が求められている。
前述した80年代における旧西ドイツのホロコーストに関するナチスの犯罪追及を可能にしたのは、地域の市民が参加した郷土史の調査と発表、さらには記念碑の建造を活動の主内容とした「歴史工房」の全国的な広まりであった。そこでは少なくない妨害があったとの報告もあるが、被害者意識を中心とした集団的記憶を加害者としての立場に変容させていく上で、大きな役割を果たしたとされる。日本も、その実践と経験に深く学ぶべきであろう。

 今日、日本軍「慰安婦」は「捏造」であるとか、南京虐殺は中国の「宣伝」であるといった、日本の右派勢力及びその言論機関の「歴史」についての言動が旺盛を極めているが、それを許したのは、護憲や平和を語りながらも、真に戦前の歴史と向かい合ってはこなかった私たち自身の怠慢であると受け止めるべきである。それを踏まえるならば、前述したような妄言の批判に留まらず、以下に掲げたような課題も考慮されるべきだろう。

  1. 「15年戦争」の時代を中心とした反戦抵抗者たちの足跡の掘り起こしと顕彰。ドイツでは「白バラ」のショル兄妹のような勇気ある抵抗者の歴史は正しく継承されているのに反し、この国では反戦抵抗者には未だ目もくれず、逆に「特攻隊」や「硫黄島の玉砕」など、まったく軍事的には無価値の作戦で犬死した兵士らに異常なまでの哀悼が集中しているのは、深刻な歪みではあるまいか。むしろ真に語り継ぎ、志を継承すべきは、海軍で「聳ゆるマスト」を発刊して反戦を訴えた阪口喜一郎、「戦争は罪悪である」と門徒に語って真宗大谷派の一時布教師資格を剥奪された竹中彰元、兵役拒否を訴えた「灯台社」の明石順三ら、誇るべきこの国の良心であろう。
  2. 天皇裕仁の戦争責任追及。近年の資料発掘や研究の進展で、裕仁が「15年戦争」で果たした能動的な役割は解明されてきた。しかしながら、事実に基づくそうした認識は、社会で定着しているとは言い難い。その理由は、天皇を現人神とした大日本帝国の悪しき遺産によるタブー化に他ならず、裕仁が「平和主義者」で陸軍好戦派の被害者であったかのような誤った歴史的神話を横行させ、戦前の正しい認識の障害となっている。のみならず、豊下楢彦著『安保条約の成立』(岩波新書)で示されたように、占領下で裕仁が自身の保身だけのため、吉田茂ら政府当事者ですら許容しなかったような対米従属による「売国的」な旧安保条約の調印に向け暗躍した経緯がある。その隠された「戦後責任」についても、さらにメスが入れられるべきであろう。
  3. 特高による弾圧の実態解明と、獄死者ら犠牲者の追悼。1)と関連するが、戦後の最たる精神的怠惰の典型は、治安維持法の犠牲者に対する正当な評価・追悼の念の欠如、責任者追及の姿勢の欠落であろう。それは、大日本帝国的なるものへの拒否感・否定的評価の弱さの反映でしかなく、繰り返すように今日の民主主義の最大の脅威である警備公安警察の野放し状態と密接に関連している。未だ犠牲者の行方が不明となっているケースすらあり、二度と同じ犯罪を繰り返させないためにも警察署内のリンチや拷問、女性に対する性的虐待の実態と共に、下手人の特高警察の氏名と所属、戦後の処遇について仔細な調査が待たれる。
  4. 戦争犯罪者たちが戦後復活した過程の解明。『ニューヨーク・タイムズ』紙のティム・ワイナー記者著『LEGACY of Ashes  The History of CIA』では、60年安保闘争時の首相であった岸信介や自民党、及び賀屋興宣らその有力指導者らが、米国諜報機関の資金援助を受けていた事実が記されている。東条内閣の閣僚でA級戦犯容疑者だった岸やその盟友で海軍の嘱託として大陸における戦略物資の調達を担った児玉誉志夫らが釈放されたのみならず、戦後の国家権力の中枢あるいはその周辺に返り咲き、影響力を保持した経過は依然未解明な部分が多いが、こうした事実は戦後の保守政治の正当性のみならず、それを許した戦後という時代の未熟さを根幹から問うている。これまで触れてきたような大日本帝国の本質的な温存も、この未熟さゆえに派生したと考えられ、「過去の克服」を阻む要因を形成している。である以上、大日本帝国の残党の戦後における返り咲きの謎解明の意義は、強調されすぎることはない。
  5. アジア諸国から提訴された戦後補償裁判の支援と加害責任の究明。1995年を前後して、大日本帝国時代の日本軍「慰安婦」や人体実験、強制連行・労働、爆撃、遺棄毒ガス兵器等の被害補償・救済を求めて約70の訴訟が起こされている。これらの被害者に対する謝罪と補償は、司法の場ではごく一部を除いて実現していない。これは、明らかに戦後日本の過去の直視を怠った結果であり、侵略と植民地支配、占領という戦争責任からの逃避である。市民の裁判闘争への支援と、勝訴に向けた事実解明への協力が急務となっている。

Ⅸ.終章

 昨年末の安倍の靖国神社参拝に関し、米国大使館は「失望した」という異例の強い調子のコメントを発表した。だが、靖国参拝に象徴される大日本帝国的なるものの負の遺産とは、米国の戦後政策が温存させたものに他ならならず、米国は「失望」などと口にする権利を持ち合わせているはずがない。

 米国は日本支配の円滑化のために裕仁を利用しようと東京裁判では被告としての追訴を妨げ、さらには反共政策を優先して1948年12月23日にA級戦犯7人を処刑した翌日、岸や児玉ら戦犯容疑者19人を裁判にもかけずに釈放した。1951年8月6日には1万人あまりの公職追放を解除したが、その結果戦後を支配した保守勢力の結集が可能になった事実を思えば、天皇を頂点とした大日本帝国は「反共の防波堤」として米国の支配下に甘んじ、協力することと引き換えに命乞いをして、戦後新たに装いを変えて生き延びたと言えなくもない。

 しかしその代償こそ、ジョン・ダレスの言う「望むだけの兵力を、望む場所に、望む期間、日本に駐留させる」という、外国軍隊の半永久的駐留を可能にさせる「権利」を安保条約によって米国に与え、さらに日米地位協定で事実上国家主権も売り渡すという属国化ではなかったのか。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効、すなわち「独立」以降の戦後とは、それまでの米占領軍が引き続き何者にもコントロールされず、実質的な占領政策を延長することが安保条約と日米地位協定によって担保されている時代でもある。

 米国がそれを可能としたのは、大日本帝国の基本的な温存策としての裕仁や保守勢力、あるいはA級戦犯容疑者の笹川良一も含めた反共右翼との結託に他ならない。戦後を支配したそのような政治勢力に「過去の克服」を期待するのは最初から無理であって、言い換えれば戦後における「過去の克服」の構造的な困難性、あるいは「戦争責任問題の合理的な解決を阻む理由」(荒井信一『戦争責任論 現代史からの問い』)については、当の大日本帝国を軍事的に解体させた米国自身が作り出したという面が極めて大きい。

 前述した4つの歴史的に克服すべき課題は、米国が対米従属の保守勢力を使って生み出した戦後の秩序に桎梏とはならないがゆえに存在し続けた。自民党が戦後一貫して、「靖国神社国営化」法上程や紀元節の「建国の日」としての復活、「日の丸・君が代」の法制化、教育基本法の改悪をはじめとした戦後教育制度への攻撃等の前時代的な政策を続けてきても、それが日本の外国軍基地撤去を含む軍事的外交的自立化へと向かわない限り、米国にとっては許容範囲であったと言えよう。

 今回の安倍の靖国参拝への反応も、同じ米太平洋軍の指揮下にある軍事司令部がそれぞれ置かれている日本と韓国が無用な摩擦を起こし、さらには必要以上の中国との対立が生じれば、米国のアジア戦略にとってマイナスになると判断されたためであって、靖国そのものへの内在的批判とは次元を異にする。

 1959年3月30日、東京地裁(伊達秋雄裁判長)は、57年7月に東京・砂川における米軍基地建設に反対し、基地内に入ったとして刑事特別法違反で逮捕・起訴された被告7人に、安保条約そのものが憲法第九条に違反しているとして無罪を言い渡した。米国駐日大使のマッカーサー2世が即座に司法に介入し、最高裁長官の田中耕太郎と示し合わせて国に最高裁へ飛躍上告させ、当時進行していた新日米安保条約調印前に合わせて59年12月16日に逆転判決を出させたのは周知の事実である。

 この一連の経過は、米軍が占領期初期に制定のイニシアチブをとった日本国憲法、及びそこに体現された平和主義をはじめとする戦後的理念が、冷戦の本格化により安保条約に象徴される当の米国自身の対日政策にとって、今度は障害に転化したのを意味していた。すでに憲法の施行から4年にも満たない1951年2月1日の同条約改定に向けた東京での事務局交渉で、米国側から「再軍備のため憲法を改正することは困難か」と打診されているのは、その証左の一つかもしれない。

 しかしながら大日本帝国との決別とは、殺し、殺されるという戦争からの決別でもあったはずだ。であるならば、安保条約によって米国という戦争と軍事紛争を常とする国家に軍事基地を提供し、侵略の前進基地として機能させるのは、東京地裁判決を待たずとも、憲法前文で示された「恒久平和」の精神と真っ向から対立すると考えられる。無論、今日においてもこの判決の正当性は何ら失われてはいない。

 顧みれば戦後という時代は、「過去の克服」を成し遂げる前に、対米従属構造というまた新たに「克服」すべき「過去」を無自覚なままその初期に形成して今日に至っている。そのために、本来の「過去の克服」が至難になっているのは間違いない。言い換えれば、戦後早くから「過去の克服」の努力が続けられたなら、米国が大日本帝国を再編して作り上げた憲法理念と反する対米従属構造の最大の障害を生みえたはずであった。だからこそ米国は、繰り返すように「過去の克服」とは真逆の方向で旧支配層を温存したのである。

 こうした戦後的事情によって、過去の検証とは、現状批判の有効な武器になっていると考えられる。問われているのは私たち自身の歴史との向き合い方であり、怠惰であるのはもはや許されない。そして、「過去の克服」とはすぐれて「現実の克服」に通じ、在るべき未来にとっての障害を「克服」する糧となるはずだ。である以上、その実現に向けた努力が開始されたならば、いかに困難ではあれ真の民主化と独立、さらには真の隣国との和解の契機となるだろうことを信じて疑わない。


成澤宗男(なるさわ・むねお)
1953年、新潟県生まれ。中央大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了。政党機関紙記者を務めた後、パリでジャーナリスト活動。帰国後、衆議院議員政策担当秘書などを経て、現在、週刊金曜日編集部員。著書に、『オバマの危険』『9・11の謎』『続9・11の謎』(いずれも金曜日刊)等。

このブログにおける過去の成澤氏による寄稿はこちらをクリックしてください。アクセスの多かったものとして以下を紹介します。

成澤宗男: 安倍晋三と極右歴史修正主義者は、世界の敵である

成澤宗男:「山下俊一」という「3・11」後に生まれた病理


Thursday, May 08, 2014

ニューヨーク・タイムズ社説、安倍首相の解釈改憲への動きを批判 The New York Times Editorial Criticizes Abe's Move to Reinterpret the Pacifist Constitution

ニューヨーク・タイムズの電子版に、安倍氏による解釈改憲の試みを批判する社説が出た。紙版では、5月9日のニューヨーク・タイムズ国際版(International New York Times)に掲載されるのこと。

Japan’s Pacifist Constitution
日本の平和主義的憲法
http://www.nytimes.com/2014/05/09/opinion/japans-pacifist-constitution.html



Prime Minister Shinzo Abe of Japan is pushing for an expanded role for the Japanese military that would allow it to fight alongside allies beyond the country’s territory. He seeks to shoulder greater global security responsibilities by what he calls proactive pacifism.
日本の安倍晋三首相は、日本の軍隊が国境を超えて同盟国とともに戦うことを許すような役割の拡大を推し進めている。積極的平和主義と呼ぶものによって、安倍首相はより大きな世界的な安全保障の責任を担おうとしている。
 
But he faces a major hurdle. Article 9 of the Constitution, which has been nominated for the Nobel Peace Prize this year, states the Japanese people “forever renounce war as a sovereign right of the nation.” Mr. Abe’s aim to change the powers of the military would require a constitutional revision, which would mean winning two-thirds approval in both houses of Parliament, followed by a referendum — a very tall order. So instead, Mr. Abe seeks to void Article 9 by having the government reinterpret the Constitution. Such an act would completely undermine the democratic process.
しかし安倍首相は大きなハードルに面している。今年ノーベル平和賞にノミネートされている憲法の第九条は、日本国民は「国権の発動たる戦争・・・永久にこれを放棄する」と定めている。安倍氏が目的としている軍隊の権限の変更は、国会両院の3分の2の承認の上に国民投票を要するという、大変困難なものであるからだ。だから替わりに、安倍氏は政府に憲法を再解釈させて九条を無効にしようとしている。このような行為は完全に民主的過程をないがしろにするものだ。
 
Mr. Abe’s highest political goal is to replace the Constitution written and imposed upon the Japanese by the American Army following World War II. For 67 years, not a single word has been amended. Mr. Abe strongly feels that the Constitution imposes an onerous restriction on Japanese sovereignty and is outdated. Still, as critics point out, he should know that the Constitution’s primary function is to check government power. It is not something that can be altered by the whim of government. Otherwise, there is no reason to bother with having a constitution at all.
安倍氏の政治の至上目的は、第二次世界大戦後米国陸軍によって起草され日本に課された憲法を取り換えることである。67年間、一言も修正は入っていない。安倍氏は、憲法は厄介な制約を日本の主権に課すものであって時代遅れであると感じている。しかし、[安倍氏を]批判する人たちが指摘するように、憲法の主要な機能は政府の権力を抑制するものであるということを安倍氏は知るべきである。政府の思い付きで変えられるようなものではない。さもなければ、そもそも憲法などを持つ理由さえなくなってしまう。
 
As things stand, only the New Komeito Party, the junior coalition member of the government with a deep pacifist bent, could inhibit Mr. Abe’s ambition. Without New Komeito, the prime minister’s government loses its majority in the upper house, so Mr. Abe is doing his utmost to come up with a way toward a constitutional reinterpretation acceptable to New Komeito. The other eight opposition parties are in disarray. Mr. Abe has a strong hand, and Japan is facing a genuine test of its democracy.
現状では、深い平和主義傾向を持つ政権の少数派連立メンバーの公明党だけが安倍氏の野心を抑えることができる。公明党ぬきでは、与党は参議院で過半数を失う。安倍氏は公明党に容認可能な憲法再解釈への道を考え出すことに最大の努力を払っている。他の野党8党は足並みが揃っていない。安倍氏の出方は強気であり、日本の民主主義は真正な試練に直面している。
 
原文は
http://www.nytimes.com/2014/05/09/opinion/japans-pacifist-constitution.html
 
(翻訳・乗松聡子 翻訳はアップ後微修正する可能性があります)

以下も見てください。NYTは月一で安倍政権の批判をするかのごとく社説を連発してきています。

ニューヨークタイムズ社説、憲法を個人の意のまま変えようとする安倍首相を最高裁で裁けと警鐘(2014年2月19日社説の訳)
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2014/02/japanese-translation-of-nyt-editorial.html

ニューヨークタイムズ社説: 安倍氏の危険な修正主義(和訳)
(2014年3月2日社説の訳)
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2014/03/japanese-translation-of-new-york-times.html

↑こちらのリンクには、このブログで訳した他のNYT社説等のリストも出ています。

 

Tuesday, May 06, 2014

オバマ発言誤訳問題がなぜ重要なのか

4月24日日米共同記者会見でのオバマ発言誤訳問題については以下のブログ投稿を見てください。既存メディアで取り上げたのは琉球新報と、琉球新報の記事にリンクした Yahoo と 47ニュースだけで、実質的には琉球新報だけでした。「正しくない」という訳の入った報道を全国配信した通信社をはじめ全国メディアは一社も訂正していません。

尖閣問題をエスカレートするのは profound mistake「深刻な過ち」とオバマが安倍に釘をさした言葉を,日本のメディアの多くは重視せず、「正しくない」と誤訳したりしてごまかしている。

Profound mistake を「正しくない」と訳しますか??? 日本のメディアはねつ造に近い 訂正してください

【御用通訳に注意】オバマ発言誤訳は日米共同記者会見の同時通訳によるものだった。官邸HPの動画でも誤訳。

もう一言伝えたいことがあり、さっきツイッター@PeacePhilosophyで言ったことをここに書き写しておきます。

オバマ発言誤訳問題:「尖閣問題エスカレートを続けるのは深刻な過ち」とオバマが安倍に言ったprofound mistake を「正しくない」と通訳が意図的誤訳としか思えない訳をしたことを私がここまで問題視している本質が一部の人に伝わっていないような気がします。

これはオバマ氏が安倍氏にたいして行った重要な警告を小さく見せ、メディアにもさらりと報道でスルーさせるようにしむける効果がありました。この発言を全く報じていないところもありました。この生半可な訳語でなければここまでスルーできなかったはずです。

また私は通訳の能力を問うているのではありません。通訳がとっさに間違えてしてしまうようなことはありますが、今回のは明らかに通訳の間違えというより言葉の言い換えです。

この言い換えには、日本政府が尖閣で武力衝突が起こること自体を「深刻な過ち」ではなく、「正しくない」程度のことであると思っているし市民にもそう思わせたいという意図が隠れているのではないかと思うからです。読み過ぎだと言われるかもしれませんが私はそう考えています。

私の疑いには理由があります。安倍首相とその側近たちは、日本が内外に甚大な被害をもたらしたアジア太平洋戦争、対中国戦争を、日本の「深刻な過ち」とは思っておらず、「正しくなかった」程度にしか思っていないとしか思えない言動を繰り返してきたからです。今回の事はその態度を象徴しています。

私は、隣国との武力衝突を「深刻な過ち」ではなく、「正しくない」程度のこと、ひいては「好ましくはないがやむを得ないかもしれないこと」といった認識に市民を引きずり込むようなあらゆる勢力を批判し抵抗していかなければいけないと思っています。付けたしでした。

@PeacePhilosophy

追記。TUP(Translators United for Peace) の@MiyamaeYukariさんがツイッターで返答をくれました。
              
心の底から同意します。政府や報道機関が英語をごまかして訳することに怒りを覚えるだけでなく、それがまかり通ることを許してきた「知識人階級」の怠惰に嫌悪感を抱いています。関係者は今回の乗松さんの真摯な指摘を受け止め、速やかに改善して欲しいです。

Sunday, May 04, 2014

解釈改憲による集団的自衛権行使容認は、立憲主義が禁じる憲法破壊の行為:浦田賢治


憲法記念日に思うこと

 

憲法施行67週年記念日の現在、内閣の了解をえず「政府方針」で集団的自衛権の行使容認の首相見解を発表しようとしている。背景にある政権与党では、中国や北朝鮮を念頭に、集団的自衛権について「必要最小限度での行使」で議論をまとめようとしている。この解釈に憲法の改正は必要ないという。これらは立憲主義が禁じる憲法破壊の行為である。安倍政権は、“選挙独裁”の「大権国家」の執行部になって、憲法反逆罪を犯している。アベノミクスでは「物価」と「金融システム」の安定という日銀法の目的に違反している。TPPでは多国籍企業に国の立法主権を売り渡す。首相の靖国参拝で政教分離の原則を踏みにじっている。これらは国内法でも国際法でも「法の支配」の原則にそむくことだ。
 

いま求められる歴史認識とかかわって、憲法の平和主義の特質をどうとらえるか。欧米帝国主義の時代に世界に船出した明治日本は、開国以来、日清・日露などの7つの戦争を経て近代化した。また「琉球処分」を経てこの「国民国家」は、台湾・朝鮮の植民地帝国となり、中国やアジア太平洋諸国を侵略して、人類史上未曾有の惨禍をもたらした。この自覚と反省が、河野談話(1993年)村山談話(1995年)に示され、菅談話(2010年)でもあらわされた。
 

ヒロシマ・ナガサキの原爆体験は核時代の自覚をもたらした。日本国憲法はこうした時代背景の中で誕生して、平和と軍縮の方向を示す普遍的規範となった。①戦争を放棄する、②戦力を持たず、交戦権を否認する、③平和的生存権を保障する。このうち②戦力の不保持と交戦権の否認が、(主権国家は自衛権と軍事力にたよるという)近代の憲法と国際法の傾向に照らして、日本国憲法の平和主義の特質である。
 

だから朝鮮戦争(1950年-53年休戦)の時期、良心的知識人たちは世界平和と全面講和を求めて苦闘した。だが日本の支配層は、アメリカ主導の西側諸国とだけ講和条約をむすんだ。ソ連も中国もインドも除外された。それから63年後の現在、米国の「アジア回帰」政策が揺れている。中国と韓国は経済成長めざましく、北朝鮮の核開発は進んでいる。安倍政権は「中国や北朝鮮を念頭に」と言っているが、これを認めるのは「地球の裏側まで」集団的自衛権の行使を許す「蟻の一穴」を掘ることである。これに対して憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」して、平和と安全を保持するという道をすでに選んだのだ。「北東アジア平和協力構想」もある。この道は核時代の平和と安全保障に通じる。
 

では法律家は、どうしたらいいのか。未来を見据えた明文改憲阻止運動の戦略立案と実行も大事だ。しかし現在、安倍政権とその与党首脳たちが憲法反逆罪を犯しているではないか。すでに秘密保護法で日本民衆の自由と人権が脅かされている。だから自覚的な民衆は、アベノミクスの増税と軍事基地の強化と安倍の靖国参拝に果敢に反対している。創意工夫した「1点共闘」の大衆的運動が起きている。法律家の憲法活動も憲法闘争も、選挙独裁の諸政策にたいして、大衆の抵抗行動となぜ、どのように連帯するのか。正解を求め考えながら勇気をもって行動すること、これが喫緊の課題ではなかろうか。

(2014年5月3日記) 

浦田賢治 早稲田大学名誉教授・憲法


★☆★ 


このブログの浦田賢治氏の過去の投稿もご覧ください。

浦田賢治: 「核兵器と核エネルギーの犯罪性」
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2011/10/kenji-urata-nuclear-weapons-and-nuclear.html 

 福島大学と日本原子力研究開発機構(JAEA)の協定への疑義
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2011/07/jaea-lawyer-poses-quesitons-over.html 

Nago City Mayor Susumu Inamine's public events in New York City (May 16 and 17) and Washington, D.C. (May 19 and 20) 稲嶺進・名護市長訪米時の公開イベント案内

Here are four public events during Nago City's Mayor Susumu Inamine's visit to the United States in mid-May.


1) New York City, May 16

Time and Date:18:30~20:00, May 16 (Friday)

Location: Room 309(in the library) Teachers Colleage, Columbia University. See map HERE.

Register HERE.

Susumu Inamine, mayor of Nago City, will come to Columbia University. Nago is a city in Okinawa prefecture where construction of a new US military base is planned, despite opposition by the majority of Nago's residents and the whole Okinawa. Mr. Inamine will talk about the current situation and his perspective on the US-Japan relationship.

2)New York City, May 17 (For details go to the previous post on this blog.)

US Military Bases in Okinawa and the Japan-US Relationship

Time and Date: 13:00 - 15:00, Saturday, May 17
(Door opens 12:30. Light refreshments will be served)

Place: Gallery of the Community Church of New York,
28 East 35 Street (between Madison and Park Avenues), NYC

Free admission. No registration necessary.

Organized by: New Diplomacy Initiative;
Inquiry: ndinitiative6@gmail.com

--- The event starts with Mayor Inamine's presentation “No New Base Will be Allowed in My City, Whether on Land or Sea” followed by comments by guest experts Mark Selden and Steve Rabson, and Q & A.

For details go to: https://www.facebook.com/events/746325405399682/
or http://peacephilosophy.blogspot.ca/2014/05/mayor-susumu-inamine-of-nago-city.html


3) Washington D.C., May 19

LUNCH DISCUSSION WITH Mayor Susumu Inamine of Nago, Okinawa on the Prospects for a New Marine Corps Air Base on Okinawa (At CATO Institute, DC)

Time and Date: 11:30 AM - 1:30 PM, Monday, May 19
Place: The Cato Institute, 1000 Massachusetts Avenue, NW, Washington, DC
http://www.cato.org/events/directions

Discussion with Denny Tamaki, a member of the House of Representatives of Japan.

Lunch will be provided, but seating is limited, so please respond to events@cato.org, if you would like to attend****

Questions about the event can be directed to Travis Evans (tevans@cato.org) at CATO.

For details, https://www.facebook.com/events/271186116386005/?source=1


4) Washington, D.C., May 20

US Military Bases in Okinawa and the Japan-US Relationship

Time and Date: 6:00 PM - 8:00 PM, Tuesday, May 20

Place: Busboys and Poets, 14th & V
2021 14th Street NW, Washington, DC 20009
phone: 202-387-7638
http://www.busboysandpoets.com/about/14th-v

A Discussion with Nago City Mayor Susumu Inamine, and Member of the Japanese House of Representatives (Okinawa) Denny Tamaki Organized by:Busboys and Poets & New Diplomacy Initiative (ND)           
http://www.busboysandpoets.com/events/event/us-military-bases-in-okinawa-and-japan-us-relationship

Inquiry: Busboys and Poets, phone: 202-387-7638
New Diplomacy Initiative, info@nd-initiative.org
For details: https://www.facebook.com/events/1440683952839158/

Friday, May 02, 2014

Mayor Susumu INAMINE of Nago City, Okinawa to speak in New York City, Saturday May 17 5月17日・稲嶺進(いなみね・すすむ)名護市長ニューヨーク公開イベント 案内


名護市の稲嶺進市長が訪米し、5月17日はニューヨークにて公開イベント「沖縄米軍基地問題と日米関係」を行います。稲嶺氏は「海にも陸にも新たな米軍基地は造らせない」という演題で講演、そして「海外識者・文化人沖縄声明」の賛同者であるマーク・セルダン氏(沖縄を英語で発信し続ける『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』編集コーディネーター)、スティーブ・ラブソン氏(ブラウン大学名誉教授)をコメンテーターとして迎えます。ニューヨーク近辺のお知り合いに広めてください。


US Military Bases in Okinawa and the Japan-US Relationship

 

An Afternoon with Susumu INAMINE, Mayor of Nago City, Okinawa

 

Seventy years after World War II, Okinawa, devastated as a battleground in the Pacific War (1941-45), continues to be occupied by the US military, mostly marine bases, which pose threats to safety, health, and life of people and the environment. Despite steadfast opposition by the majority of the people in Okinawa, the US and Japanese governments are forcing through their plan to build yet another marine airbase with a military port. The massive reclamation required would damage the endangered bio-diverse environment of the northeastern shore. Mayor Susumu Inamine of Nago City, site of the planned base construction, was first elected in 2010 and re-elected this January, both times on a platform of opposition to the new base. This is his second visit to the United States to lobby with policymakers and to raise awareness and encourage people in the United States to support his appeal. Please join Mayor Inamine and a panel of experts to discuss what Americans can do to bring justice and democracy back to Okinawa.

 

Time and Date:
13:00 – 15:00, Saturday, May 1 7
 
Place: 
Gallery of the Community Church of New York, 28 East 35 Street
(between Madison and Park Avenues), New York City

 

12:30   Door opens (Light refreshments will be served.)

13:00 – 15:00

              Introduction, followed by Mayor Inamine’s presentation
 

              “No New Base Will be Allowed in My City, Whether on Land or  Sea”
 

              Comments and discussion by:

                            Mark Selden, Coordinator of Asia-Pacific Journal: Japan Focus

                            Steve Rabson, Emeritus Professor of Brown University

              Followed by Questions and Answers  

 

Organized by:        New Diplomacy Initiative (NDI)

Sponsored by:       The Action for Justice Committee of Community Church

                                   Nago City

                                   Peace Philosophy Centre

Inquiry:                   Akifumi Matsuzaki ndinitiative6@gmail.com

沖縄「100人委員会」による、知事選に向けての声明

 
前投稿に続き、「沖縄の平和創造と人間の尊厳回復を求める100人委員会」による沖縄知事選に向けての声明を掲載します。「100人委員会」のブログは、ここです。
 
 
沖縄県知事選挙へ向けて県民の力を結集しよう
 

本年11月の沖縄県知事選挙まで、およそ半年になりました。候補者の顔はまだ見えませんが、県民の関心は次第に高まりつつあります。沖縄の現状を直視し、住民の声に耳を傾ければ、県政を託すにふさわしい人物のイメージは、具体的に浮かびあがってきます。

まず、大切なことは、有権者との約束を誠実に守り実行する責任感の強い人物であることです。さらに、沖縄の諸問題を解決していくための道筋が、政策に具体的で明快に示されていること。そして、住民の生活と安全を守るために、住民の先頭に立って真摯に働く人物であることです。
 

安倍内閣の進めている内政・外交・防衛政策は、沖縄の民意とことごとく対立し、矛盾を深めています。「憲法の上に安保がある」と言われて久しい沖縄の現実は、改善されるどころか、問題が一層深刻化しています。そして今や、憲法の精神そのものが形骸化しております。沖縄の辺野古、高江、普天間、与那国、竹富等で起きていることは、深層でつながっている問題です。これらの課題に取り組むことは、憲法を取戻し、憲法の精神を蘇えらせる、崇高な闘いだと言えます。
 

今度の県知事選挙の争点は明確です。辺野古の新基地建設を絶対に許さない、普天間飛行場の閉鎖・オスプレイ撤去、これが最大の争点です。2006年、2010年の県知事選挙では、基地問題が争点化されず、住民の意思が反映されないもどかしさがありました。しかし、今回は辺野古や普天間を争点から外すことは出来ません。むしろ、安倍政権は正面から安保・防衛問題を争点にすえて、沖縄住民と対峙しようとしているかのようにさえ見えます。このような安倍政権の暴挙は、知事選を通して打破しなければなりません。
 

昨年1月、沖縄から「建白書」が安倍晋三内閣総理大臣に届けられ、オスプレイの配備撤去、普天間基地閉鎖・撤去、県内移設断念を直訴しました。これには、沖縄県内41市町村長、議会議長が署名しています。県民の総意と言えます。ところが、日本政府はこの県民の要求に応えるどころか、住民を分断し、支配する策略にでました。まず、自民党5人の国会議員が屈服し、続いて仲井真知事が脱落しました。しかし、住民の決意はゆらいでいません。今年1月の名護市長選挙での稲嶺進市長の勝利は、そのことを明確に示しています。沖縄防衛局は、名護市長選挙で示された住民の意思に挑戦するかのように、辺野古の埋め立てのためのボーリング調査に着手しています。
 

辺野古移設反対、普天間基地閉鎖・撤去、オスプレイ撤去の沖縄住民の声は、県外をはじめ北米や西欧にもその支持が広がっています。今年1月にオリバー・ストーン氏、ノーム・チョムスキー氏らが呼び掛けた「名護市辺野古の新基地建設中止を求める国際電子署名」は、3月末で1万人を超えています。11月の県知事選挙は、世界がその帰趨に注目しています。選挙結果が、辺野古の新基地建設断念、普天間の閉鎖・撤去に直結するからです。今や沖縄の基地問題は世界の知識人とも連帯することが出来るようになりました。この国際的連帯の輪を知事選に生かす戦略も考えなければなりません。

私たちは、是が非でもこの選挙に勝利し、沖縄の未来を切り拓き、基地のない沖縄の将来を創造するこれらのことを着実に実践すれば、沖縄の構造的差別を解消することも可能です。
 

決意を込めて、取り組むことが大切です。名護市長選挙で示された地元住民の要求を実現し、沖縄住民の意思を尊重することを知事候補者選びの基本理念とし、沖縄住民各層・各界の幅広い声を結集するために、あらゆる努力を傾注しましょう。

安倍政権以降、アジアの周辺国との緊張が激化しています。尖閣・竹島の領土問題、靖国参拝・慰安婦等の歴史認識問題をめぐる中国・韓国との関係悪化は、沖縄の基地問題にもつながっています。与那国への自衛隊配備は、中国との関係悪化を口実にしています。集団的自衛権の問題も、平和憲法を守ることと切り離せません。
 

基地問題の他にも県政の課題は山積しています。一括交付金をいかに自治体の自立に資するように活用するか、非正規雇用や失業等若者の雇用不安、消費増税と生活防衛、竹富町の教科書問題に見られる教育への政治介入問題等、いずれも憲法で保障された権利と人間の尊厳の回復にとって見過ごすことの出来ない重要な問題ばかりです。

今度の県知事選挙は、憲法の精神を大切にし、憲法を生活に生かす誇りある闘いでなければなりません。そのための取り組みを早急に進めることを願います。
 

                            2014430
 

           沖縄の平和創造と人間の尊厳回復を求める100人委員会

 

顧問:大城立裕  大田昌秀  由井晶子

共同代表:安里英子 石原昌家 内海=宮城恵美子  上里賢一

     高良沙哉  高良鉄美  照屋寛之  比屋根照夫