「岡まさはる記念長崎平和資料館」のニュースレター「西坂だより」の2013年10月1日号(第71号)に、館長高實康稔氏による、この夏オリバー・ストーン監督が資料館に訪れたときの報告が巻頭文として掲載されています。高實氏の許可を得てここに掲載します。当ブログ運営人の私(乗松聡子)はオリバー・ストーンとピーター・カズニック2013年の夏の来日、来沖を企画・同行しましたが、この資料館は日本の歴史記憶の中で欠けがちである日本の侵略と植民地支配の歴史、被爆都市長崎における朝鮮人被爆者の被害の記録、朝鮮人強制連行労働者たちの苦悩の記録を記しているところです。私は2007年に初めて訪れて以来会員となり、民間の寄付と入場料だけで成り立っているこの孤高の資料館を応援してきました。日本人なら誰でも一度は訪れるべき場所と思っています。「語られないアメリカ史」The Untold History of the United States という大作(ドキュメンタリー映像シリーズと本)を昨年から今年にかけて世に出したオリバー・ストーン監督とピーター・カズニック教授にとって、この「語られない日本史」を地道に語る資料館こそ長崎で訪問するにふさわしい場所ではないかと思って勧めました。オリバーは猛暑と多忙な日程の中で予定を調整したり体調を整えたりしながらスケジュールをこなしていましたが、この資料館の話を私から聞いたときから「ここだけは絶対行きたい」とずっと楽しみにしていました。「Oka Masaharu」という日本語の名前は覚えにくく、彼の中では Atrocity Museum (アトロシティー・ミュージアム「虐殺資料館」)という理解になっていました。訪問したのは8月10日だったのですが、8月8日に日テレの「ニュース0」の村尾キャスターとの対談を行った長崎港のターミナル近辺に長崎市の主要観光地の地図があり、それを見て私に「今度行く虐殺資料館はどこだ」と訊ねました。私は「残念ながら公共のマップにこの資料館が出ていることはまずありません」と答えざるを得ませんでした。この資料館は多くの観光客が訪れる「26聖人殉教地」のすぐ近くにあります。長崎駅から歩いて5分ほど。地図はここ。オリバーが訪問したことを長崎新聞、NHKワールド、朝日新聞などが取り上げ、オリバーもことあるごとにインタビューなどで触れているので問い合わせが増え、来訪客も増えたようです。これを読む皆さんも長崎でぜひ行って見てください。オリバーはいまだに名前がなかなか言えず、「長崎に小さいが大変重要な資料館がある」としか言わないのですが、名前は「岡まさはる記念長崎平和資料館」です。@PeacePhilosophy
8月10日、資料館にて、左からオリバー・ストーン監督、館長の高實康稔氏、 同行・通訳を務めたピースボート共同代表の川崎哲氏。(写真は川崎氏提供) |
評価された資料館の存在
―オリバー・ストーン監督が残した言葉―
岡まさはる記念長崎平和資料館理事長 髙實康稔
大盛況のシンポジウムにて
本年8月8日、長崎ピースウィーク実行委員会の主催でオリバー・ストーン監督・ピーター・カズニック教授が語る「アメリカ史から見た原爆投下の真実」というシンポジウムがありました。勤労福祉会館講堂が満席のうえに大勢の立ち見が出るほどの聴衆を前に、ストーン監督とカズニック教授(アメリカン大学)は、「原爆投下は日本を降伏させるために必要であった」とか「降伏を早めて100万人もの人命を救った」とか言う今なお根強い正当化の主張を「神話にすぎない」と断じ、ソ連に対して核兵器の脅威と軍事力の優位を見せつけることこそが最大の目的であったと、詳細な論拠を挙げて力説しました。また、日本の降伏を決定づけたのは原爆投下ではなく、ソ連の参戦であったことも指摘しました。これは決して新しい見解ではなく、歴史学の上ですでに実証されていることですが、原爆投下の誤った見方に対する強い警鐘であったといえるでしょう。長崎への原爆投下は、その照準店が都心の常盤橋であったことから、無差別爆撃によるプルトニウム原爆の破壊力テストであったことも明らかです。「日本人は戦時中の加害の真実をよく見るべきだ」というカズニック教授の要請と、「日本人は芸術性も高い民族なのに、戦時中なぜあれほど残虐になれたのか」というストーン監督の質問が印象に残りましたが、「オリバー監督が長崎で行きたがったところは、原爆の犠牲になった朝鮮人や中国人の追悼モニュメントでした。岡まさはる記念館も見たいと言っていますが、長崎市の観光マップには載っていません。」というパネリストの乗松聡子さん(バンクーバー在住、ピース・フィロソフィー・センター代表)の発言には、会場がどっと沸きました。
オリバー・ストーン監督が資料館を訪問!
8月10日、ストーン監督が来館され、私が案内役を務めました。通訳はピース・ボート代表の川崎哲さんが引き受けてくださいました。ストーン監督は入館して正面の朝鮮人被爆者の展示を一瞥するや否や、緊張した面持ちでした。まず、資料館の設立の経緯と趣旨を簡潔に述べ、14歳で端島(軍艦島)に強制連行された徐正雨さんのことを象徴的な事例としてお話しし、模型の飯場で劣悪な衣食住と過酷な労働現場について説明しました。次いで1万円札の拡大カラーコピーを前に、福沢諭吉の朝鮮・中国侵略思想を読み上げると、ストーン監督は頷きながらじっと見入っていました。階段部分の展示説明では、時間の関係で大雑把にならざるを得ませんでしたが、731部隊のところで「被害者のなかに生存者はいるか」と問われましたので、私は即座に「一人もいません。撤退時に全員殺したと、元隊員から直接聞いた。」と答えました。「日本はアジアで何をしたか」の大パネルでは、フィリピンについての質問の後で、餓死寸前のヴェトナムの少女の写真に説明を求められたので、「ジュート=麻の栽培だけをさせて米を作らせなかったので200万人も餓死した」と説明すると、悲憤を噛みしめておられるようでした。2階のメイン展示場では、「慰安婦」コーナーで、広大な日本軍占領地と「慰安所」の所在地を示す地図の前でしばし立ちつくしておられましたが、日本軍の傀儡(かいらい)軍である「満州国軍」に少年義勇兵を殺害させている写真と日本兵自身が中国人を殺害して微笑んでいる写真の説明として、「戦場での日本兵は天皇制軍国主義教育によって日本を神の国と信じ、徹底的に異民族を蔑視していた」と述べると、無言のうちにも納得されたように感じました。そして、時間に追われながら、最後に常石敬一著「標的・イシイ」を示して、「米国が731部隊の戦争犯罪を免責したのは、マッカーサーとウィロビーとサンダーソンの3人が決めたことに始まる」と告げると、「イエス」と応じて深々と頷かれました。この件についても敢えて触れたのは、「731部隊罪証陳列館」と友好館提携を結んでいる資料館の使命でもあるとの思いからでしたが、『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』を著された方だけに十分承知しておられ、その歴史認識に改めて敬意を抱かずにはいられませんでした。
ストーン監督が資料館を去るに当たって、長崎新聞の石田謙二記者らが感想を求めると「東京にもなければならない」と答えられ、居合わせたスタッフ一同感激しました。石田記者の記事は翌日の長崎新聞に掲載され、大きな反響を呼びました。
NHKの国際放送ニュースラインでも紹介
私は8月12日から17日まで南京を中心に訪中しておりましたが、その間にNHKからストーン監督の資料館訪問の写真を求められ提供したことを帰国後に知りました。その写真を使ったニュースラインの映像もウェブリングで見ました。ストーン監督の訪問を報じたものとはいえ、資料館の存在を世界に紹介した意味も大きいと思います。
NHKのBS深夜放送でもストーン監督が一言
8月25日午前0時から2時間、NHKのBS放送で「オリバー・ストーン監督がスタジオで直言―原爆×戦争×アメリカ、歴史を直視する時」という番組があり、ストーン監督とカズニック教授が大学教授や学生、市民と対話しました。『プラトーン』を初め、ストーン監督の作品を織り込みながら、じっくり語り合う啓発に富んだ番組でしたが、その最後の場面でストーン監督が「長崎には日本の加害責任を問う民間の歴史資料館があった。あまりお金はないようだったが。東京では無理なのだろうか。」とさりげなく語られ、資料館訪問の印象が悪くなかったことに安堵するとともに、資料館の存在を評価してくださったことに感激一入でした。また、番組(録画)を見終わって、設立18年にして今やストーン監督に評価されるに至った資料館も岡先生の発意がなければ存在しないことをふと思い、今後ともその先見の明を肝に銘じて維持していくことを心に誓いました。
(たかざね・やすのり)
熱心に説明をきくオリバー。(写真は川崎哲氏提供) |