Hitler's Dismantling of the Constitution and the Current Path of Japan's Abe Administration: What Lessons Can We Draw from History?
この論文の元の日本語文を筆者の許可を得てここに掲載いたします。7月の参院選で衆参ともに改憲派が3分の2以上を占める結果となり、安倍首相はこの秋の臨時国会から改憲の具体的議論をするとの意向を表明していることからこの論文は一人でも多くの人に読んでもらいたいと思います。池田氏は安倍首相を安易にヒトラーに見立てるのではなく「冷静に歴史を見つめ直し、そこから得た教訓を現在の私たちの適切な判断と行動のために役立てる必要がある」重要性を説きます。 @PeacePhilosophy
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ヒトラーによる憲法破壊と安倍政権がたどる道
――私たちは歴史から何を学ぶのか?
池田浩士
1.はじめに
安倍政権は昨年夏、強い危惧と反対を表明するする日本社会の世論を無視して、「安保関連法」と呼ばれる一連の法律を強行成立させた。この法律に対しては、法律家や憲法学者たちからも「明らかに憲法違反である」という批判が続出し、これの廃止を求める声は現在もなお弱まってはいない。
現行の日本国憲法がその前文と第9条で明記している「戦力の不保持」と「戦争の放棄」は、これまでにもすでに、この規定を骨抜きにし無効にするような様々な法律によって蹂躙されてきたが、安倍内閣が強行成立させた「安保関連法」は、「国際紛争を武力によって解決すること」を禁止する憲法に真っ向から違反して、「集団的自衛権」の名のもとに「自衛隊」が海外で実際に武器を使用して戦争行為を行なうことを、容認するものである。これは、同じ自民党の歴代政権さえもが一貫して「容認できない」としてきたことであり、自民党自身のこれまでの方針にも反する決定なのだ。この決定によって、日本という国家は、憲法を改訂さえしないまま、憲法に違反して、「戦争する国」となった。
自民・公明連立の安倍政権によるこの憲法蹂躙は、多くの点で、ヒトラーによるヴァイマル憲法の破壊という歴史的先例を思い起こさせる。言うまでもなく、現在進行している事態を過去の歴史事例と安易に結び付けて論じることは、慎まなければならない。「オオカミがやってくるぞ!」という扇情的な叫びや、「安倍は第二のヒトラーだ!」という単純なレッテル貼りは、本当に起こりつつある現実から人びとの目をそらすのみで、むしろこの現実に対処する道を誤らせかねないだろう。しかし、私たちは、過去の歴史から学ぶことができるのであり、学ばなければならないのである。デマゴギーを撒き散らすのではなく、冷静に歴史を見つめ直し、そこから得た教訓を現在の私たちの適切な判断と行動のために役立てる必要がある。
2.ヒトラーはヴァイマル時代の公正な選挙によって政権の座に就いた
アードルフ・ヒトラー(Adolf
Hitler)という政治家も、彼が率いた「国民社会主義ドイツ労働者党」(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、 英語に直訳すればNationalsocialist German Laborsparty)、略称「ナチ党」も、その党の構成員たちである「ナチス」(Nazis)も、現在では、もっぱら否定的な評価を込めてしか語られることがない。それは、彼らが行なったこと、つまり、政治的反対派の弾圧やユダヤ人とロマ民族のホロコースト、さらには「生きる価値のない存在」と彼らが名づけた障害者や「遺伝病者」、「労働忌避者」など社会的マイノリティの虐殺、そして侵略戦争と非戦闘員の殺戮などが、人類史上もっともおぞましい残虐行為として、記憶されているからである。しかし、そのヒトラーとナチ党は、周知のとおり、クーデタや陰謀によって政権の座に就いたわけではなかった。ナチ党は正規の国会議員選挙によって国会の第一党となり、党首であるヒトラーが合法的に大統領によって首相に任命されたのである。つまり、ドイツの有権者がみずからヒトラーを選んだのだった。しかも、その国会議員選挙は、その当時(そして今でもなお)歴史上もっとも民主主義的な憲法であるとされた「ヴァイマル憲法」の下で行われた。ヴァイマル憲法は、現在の日本国憲法もまたその多くを受け継いでいるような人権条項を含んでいた。思想・信条の自由、言論・出版の自由、集会・結社の自由、通信の秘密、居住の自由、身体の自由(令状なしには身柄を拘束されない)などが、それによって保障されていた。
そのような憲法がヒトラーのあの「独裁」を生んだということは、驚くべき歴史的事実である――と思われるのは、不思議ではない。だが、ヴァイマル共和制のドイツからヒトラー・ドイツへの道筋を具体的に見つめ直してみると、なぜこのような歴史過程が現実となったのかが、私たちにも理解できるだろう。そして、この歴史過程は、多くの点で、現在の日本の政治的・社会的な状況についての深刻な危惧を喚起させずにはいないのだ。
ヴァイマル憲法下のドイツ、いわゆるヴァイマル共和国には、多数の政党があり、それぞれに固い支持基盤があった。これらの諸政党のうち、長期にわたって最大勢力だった社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands; Socialdemocratic Party of
Germany)も含めて、14年間のヴァイマル時代に一度でも国会で過半数の議席を占めた政党は一つもなかった。これは、現在の自民党とその前身の政党がほとんどすべての時期を通じて政権を握ってきた第二次世界大戦後の日本とは、大きく異なる点である。その中で、一地方政党から出発したナチ党が、急速に勢力を伸ばして、ついに国政第一党となり、政権を掌握したのだった。だが、そのナチ党も、実は、国会で過半数を占めたことはついになかったのである。1933年1月30日に政権の座に就いたとき、わずか三分の一の得票率と、同じ比率の議席数しか持たなかったナチ党のヒトラー首相は、首相を含めて12人の閣僚からなる内閣に、首相以外にはわずか2名のナチ党員しか入閣させることができなかった。 そこでヒトラーは、政権成立の2日後に国会を解散して、3月5日に出直し選挙を行なった。すでに警察力を握っていたヒトラー政府は、批判勢力に対するすさまじい妨害を繰り広げた。それにもかかわらず、ナチ党は得票率約44%で、総議席数647のうち288議席を得るにとどまったのだった。注目すべきことに、この得票率は、日本におけるもっとも最近の国政選挙である2014年12月の衆議院議員選挙のさい、比例代表の枠で自民・公明の連立与党が獲得した得票率、約47%と近い数値である。現在の日本の場合は、国政選挙での投票は小選挙区と比例代表枠との複合になっており、小選挙区での高い議席獲得数が政府与党の圧倒的な勝利につながっている。しかし、有権者の政党支持率を客観的に反映しているのは、比例代表枠での得票率である。そこで47%の支持しか得ていない自公連立の安倍政権は、実は有権者の半数以下の支持しか受けていないのである。
小選挙区が与党を圧倒的に有利にする現在の日本の制度とは対照的に、ヴァイマル時代のドイツの選挙制度は、考えられる限り公正に民意を反映するものだった。全国一律に比例代表制のみで、有権者は自分が支持する政党に投票し、各政党は得票数6万票ごとに1議席を獲得する仕組みになっていた。しかも、ヴァイマル時代の国会議員選挙の投票率は、70%台後半から80%台後半と、概して極めて高かった。1933年3月5日の選挙(これが、事実上、ヴァイマル憲法の下での最後の選挙となった)では、投票率は88,7%に達していた。この選挙でのナチ党の得票率44%、獲得議席数288は、客観的に民意を反映していたと言える。すなわち、この時点でもナチ党は、第一党であるとはいえ有権者の半数以下の支持しか得ていなかったのだ。それにもかかわらず、ヒトラーは、あのような独裁体制を実現することができたのだ。これは、私たちが現在の安倍政権の政治について考えるとき、大きな示唆を与えてくれる事実である。
3.もっとも民主的な憲法がなぜヒトラー独裁を生んだのか?
たとえ半数以下の支持しか得ていなくとも、政権を握れば民意に反した政治を断行できるということを、ヒトラーとともに日本の安倍政権も、私たちに教えてくれる。とは言え、ヒトラーのナチ党も安倍の自由民主党も、曲がりなりにも国政選挙で第一党、最大の議席数を獲得したのである。では、ヒトラーのナチ党は、なぜ国会の第一党になることができたのか? そして、誰がそのナチ党を支持したのか?
ナチ党が国政舞台で初めて大きな注目を浴びるようになったのは、1930年9月の国会議員選挙での躍進によってだった。この選挙で、それまでわずか12議席だったナチ党は、一挙に107議席を獲得して、一躍国会第二党となったのである。それは、1929年10月に始まる世界経済恐慌が生んだ一つの大きな結果だった。世界恐慌によって、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツは、ようやく始まりつつあった戦後復興から、一挙に不況のどん底に落とされた。失業率は急激に上昇し、深刻な社会不安が増大した。その中で、ナチ党は党首ヒトラーの決断力と指導力と実行力を売りものにし、ヒトラーは「強いドイツを取り戻す!」と叫んで、有権者を惹きつけた。失業率は、ヒトラー政権誕生の前年、1932年にはついに「完全失業率=44,4%」という驚くべき高率に達した。この年の7月の国会選挙で、「失業をなくす!」と叫び続けたヒトラーのナチ党は、得票率37,4%でついに国会の第一党となった。同年11月の選挙では得票率33,1%に後退したが、第一党の地位を保ち、1933年1月30日、大統領はヒトラーを首相に任命せざるを得なくなったのだった。
では、ナチ党に投票したのは誰だったのか? 実は、ナチ党に投票したのは、失業者ではなかったのだ。さまざまな統計を分析した結果、つぎのようなことが明らかにされている。すなわち、失業者たちが投票したのはドイツ共産党(Kommunistische Partei Deutschelands; Communist Party of Germany)だった。今はまだ失業していないが、次は自分が失業するのではないか、という不安を抱くいわゆる無党派層が、ナチ党に一票を投じたのである。これは、安倍政権が、「三本の矢」、「新三本の矢」と、経済政策を矢継ぎ早に打ち出して、失業不安や先行き不安におびえる人たちの支持を取り込んでいる事実を、思い起こさせる。
ヒトラーのナチ党はまた、「仮想敵」をつくることによって、人びとの不安を自分たちの側に惹きつけた。「この大失業は、ドイツ人から職を奪っている奴らがいるからだ」、「我々はそいつらからドイツ人のために職を奪い返す!」と叫び、生活困窮と社会不安を特定の社会構成員たちの仕業であると主張した。こうして、ユダヤ人に対する敵意と差別が煽られ、ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)に至る道が開かれた。だが実は、当時ドイツのユダヤ人は、人口のわずか0,9%にも満たなかったのである。そのユダヤ人が、完全失業率44,4%という事態に対する責任を負っているはずもない。それをナチスは仮想敵として宣伝し、ユダヤ人への敵意を増殖させた。こうしたデマゴギーもまた、安倍政権の手法を思い起こさせる。安倍政権は、韓国や中国の脅威を強調し、この両国を事実上「仮想敵国」としている。そのことによって、日本国内の世論が反韓国・反中国へと導かれ、「ヘイトスピーチ」としても表われているような在日外国人に対する排外主義的憎悪の下地となっている。生活が苦しければ苦しいほど、近い将来に対する不安が大きければ大きいほど、私たちは、仮想敵に対する憎悪をかきたてる言動によって動かされやすくなるのだ。
ヒトラー・ナチスと安倍政権とのこうした個別的な類似点を指摘すること自体に、意味があるのではない。ヒトラーと安倍によって導かれている私たち自身を、改めて見つめ直すことが、重要なのだ。私たちの歴史上の先行者であるヴァイマル時代のドイツ「国民」は、このようにしてヒトラーに追従した末に、ヴァイマル共和制がヒトラー独裁を生むことを許してしまったのである。
ヴァイマル憲法を否定していたヒトラーは、憲法の改訂をいわば「悲願」にしていたにもかかわらず、1933年3月の出直し選挙でも、憲法改定に必要な三分の二以上の議席を得ることができなかった。そこで彼は、「全権委任法」と通称される法律(正式名称は「帝国Reichと民族民衆Volkの苦難を除去するための法律」)を、新しい国会で強行採決し、成立させたのである。この法律は、立法府である国会の権限を奪って、政府が法律を制定できることを定めていた。しかも、政府が制定する法律は国会の事後承認さえも必要とせず、首相(つまりヒトラー)が認証すればよいことになっていた。それどころか、その第2条では、政府によって制定される法律は「憲法に違反することができる」と明示されていたのである。この「全権委任法」によって、ヴァイマル憲法に基づく共和制は崩壊し、ヒトラー・ナチ党による独裁体制が「合法的」に始まることになった。
では、なぜ国会はこのような法律を成立させたのか? あるいは、ヒトラーによる憲法破壊は充分に予想されることだったにもかかわらず、なぜ3月の国会選挙でナチ党が議席を伸ばし、第一党の座を守ることができたのか?――この二つの疑問に答えるためには、二つの歴史的事実を見なければならない。まず第一に、国会がこの法律を成立させるにあたっては、ある一政党の役割が決定的な意味を持ったのである。ヴァイマル憲法の下でも、憲法改定や、憲法の規定を変更するような法律の制定には、国会議員総数の三分の二以上の出席と、出席議員の三分の二以上の賛成が必要だった。すでに述べたとおり、ナチ党だけではこの数に遠く及ばなかった。ナチ党に賛同する極右諸政党の議席数を加えても、必要な数には届かなかった。ところが、護憲勢力である「ヴァイマル連合」の一翼を担ってきたカトリック政党のドイツ中央党(Deutsche Zentrumspartei; German Central Party)が、法案採決の直前に、自己保身のためにヒトラーに追随する道を選び、欠席戦術を放棄して「全権委任法」に賛成票を投じたのである。この事実もまた、日本の現在の政治状況を思い起こさせるかもしれない。いずれにせよ、法律を自由に制定できるようになったヒトラー政府は、ほどなく「政党新設禁止法」という法律を制定して、ナチ党以外の政党の新設と既存政党の存続を禁止したので、信念を捨ててヒトラーに追随することで政治権力を保持しようとした宗教政党、ドイツ中央党もまた消滅した。
では、そもそもなぜ3月の選挙でナチ党が勝利したのか、という第二の問いについても、具体的な歴史的事実がその答えを示している。それは、「全権委任法」以前に、すでに憲法を破壊する政治的実践が、ヒトラーによってなされていたという歴史的事実である。たしかに、安倍政権が2015年夏に強行成立させた「安保関連法」は、日本でもすでに少なからぬ人びとが指摘しているように、ヒトラーの「全権委任法」と比肩するような憲法破壊の重要な一コマだった。しかし、ヒトラーは「全権委任法」によってだけ憲法を破壊したのではなかった。ナチスの場合も安倍政権の場合も、憲法破壊は「全権委任法」と「安保関連法」だけにとどまらないのである。
4.「大統領緊急命令」条項と自民党の改憲草案
もっとも民主的とされるヴァイマル憲法は、しかし、その第48条で「大統領緊急命令」という例外的な権限を大統領に与えていた。「公共の安寧と秩序が著しく破壊されもしくは危険にさらされるときは、公共の安寧と秩序の回復のために要する措置を、必要な場合は武力を用いて、講じることができる」という権限を大統領に与え、この目的のために、憲法が保障する基本的人権を一時的に全部もしくは部分的に失効させることを、認めていたのである。このいわゆる「国家緊急権」を二度にわたって発動することによって、ヒトラーとナチスは、政権獲得後の国会議員選挙の選挙戦に、強力な介入を行なった。大統領ヒンデンブルクに布告させた第一回目の大統領緊急命令は、政府やナチ党にたいする批判、ストライキの呼びかけなどを禁じ、これに反する集会や印刷物を禁止した。これによって、反対派の諸政党が選挙運動を大幅に制限されたことは、言うまでもない。投票日の一週間前に起きた国会議事堂放火事件は、第二の大統領緊急命令の口実とされた。この緊急命令によって、大統領や政府要人の殺害を謀議したり教唆したりしたものは死刑または終身刑もしくは15年以上の懲役刑に処せられることになり、放火犯は共産主義者だったという真偽不明の根拠でドイツ共産党が禁止され、国会議員選挙の共産党候補者全員に逮捕状が出された。「謀議」や「教唆」という容疑は、警察・検察当局によるいわゆるデッチ上げがもっとも容易にできるものであることは、改めて言うまでもない。この二度にわたる大統領緊急命令こそは、「全権委任法」に道を開いたものであり、ヴァイマル憲法に致命傷を負わせた政治暴力にほかならなかった。
ところが、この事実もまた、ヒトラーとナチスが行なった過去の暴虐にとどまるものではないのである。安倍首相が繰り返し自らの「悲願」であることを訴えている憲法改定と、それは無縁ではないのだ。自民党が2012年に発表した憲法改定草案は、その第98条と第99条で、「緊急事態の宣言」とそれにともなう措置について規定している。第98条では、「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。」とされている。そして第99条では、「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。」とされている。
ヒトラーは、欧洲大戦(第一次世界大戦)の敗戦国ドイツが戦後のヴェルサイユ条約で過酷な賠償責任を負わされ、歴史ある文化国家としての誇りも踏みにじられて、戦後復興もはたせぬまま大失業状況に苦しんでいる現状をアピールした。安倍首相は、現行の日本国憲法を戦勝国による「押し付け憲法」であるとする自民党の一貫した主張を受け継ぎ、さらに強調して、自分の政権の下で「改憲」を実行することを公言している。そして、どの国であれ憲法に「緊急事態」条項があるのは当たり前のことだ、という意味の主張をしている。だが、日本国憲法は、当たり前のことではないことを規定することによって、「戦争によらない平和」を実現する決意を全世界に示したのである。日本国憲法が、ヴァイマル憲法にさえあった緊急事態条項、それが歴史的事実としてヒトラーへの道を開くことになった緊急事態条項を含んでいないのは、戦力の不保持と戦争の放棄という基本理念とまったく同一の理念の表明にほかならない。
5.誰が政治と社会の主体なのか?――日本国憲法第12条の意味
政権を掌握し、さらには法律も自由に制定できるようになったヒトラーは、あのすさまじい大失業状況をわずか数年で本当に解消した。首相就任の時点には半数にも満たなかったヒトラーに対する「国民」の支持は、年を追って急上昇した。それどころか、ヒトラー体制は、ドイツの敗戦後、ナチスの数えきれないほどの残虐行為が明らかにされたのちも、体験者たちの圧倒的多数が「あの時代は良かっ」たと回想するほどの安定感と充実感を「国民」にもたらしたのだった。彼らがそう感じているかたわらでは、社会のマイノリティたちが、自由をも生命をも奪われていたにもかかわらず。
戦後初期のドイツでは、「あの残虐行為や侵略戦争をやったのはヒトラーとその配下のナチスどもであり、ドイツ国民はむしろ被害者だった」、「国民は知らなかったのだ」、あるいは、「だまされていたのだ」、という見解が支配的だった。この見解は、悪いのは軍部と財閥と国粋主義者たちだった、という戦後日本の一般的観念と共通している。
ナチス・ドイツの時代について、戦後ドイツで「あの時代は良かった」という実感が生き続けたことには、根拠があった。ヒトラー体制は、現実に、失業を解消したばかりではなく、「生き甲斐のある」社会をつくったからである。ナチスは、文字通り、ボランティア社会を実現した。大失業状況が解消されたのも、ボランティア労働によるところが大きかった。ナチスは、ヴァイマル政府の施策を受け継いで、失業者を「自発的労働奉仕」という名のボランティア労働に従事させ、さらには失業者以外の若者たちにもそれを奨励した。これによって、多くの国民が、現在の窮状からドイツが脱出するために自分の自発性と社会貢献の精神を役立てることを、当然の義務と感じ、それに誇りを抱くような社会的風潮が醸成された。そして、「自発的労働奉仕」自体が失業を減少させることはなかったが、法外に安い賃金(チップ)だけで労働力を使うことができるようになった土木建設業や基幹産業が、それによって利潤を蓄積し、やがて正規の従業員を雇うことができるようになったのである。この過程は、貧困と格差が広がる中で企業が利潤を内部留保し、非正規雇用がますます拡大することで統計上では失業率が低下し続けている現在の日本の状況と、無縁ではない。
ボランティア精神が社会に行きわたったころ、ヒトラー政府は、1935年6月、「自発的労働奉仕」にかわる「帝国労働奉仕」(Reichsarbeitsdienst)の制度を法律によって定め、18歳から25歳の間に6カ月の労働奉仕に携わることを、国民に義務づけた。正規の労働者賃金の15分の1にも満たない小遣いと引き換えになされたその奉仕労働によって行なわれた建設工事でもっとも有名なものは、自動車専用高速道路(アウトバーンAutobahn)である。
その一方で、ヒトラー政府は、失業者や生活困窮家庭がとりわけ暮らしにくい冬の期間を「国民」全体が支援するため、というキャッチフレーズを掲げて、「冬季救援事業」というボランティア活動を呼びかけた。人びとは、これに応じて募金活動や救援物資を集める活動に自発的に参加することになった。これ以外にも、社会の様々な部署で、すべての国民に、「自発的な」活動の場が用意された。こうして、国民は、国土建設の主人公となり、社会的活動の主体となったのである。ナチス・ドイツは、まさに、安倍内閣が目標とする「一億総活躍社会」だったのだ。ちなみに、自発的労働奉仕にかえて労働奉仕義務を定めた「帝国労働奉仕法」の制定は、ナチス・ドイツがヴェルサイユ条約の桎梏を破棄して徴兵制を復活させることを宣言した日から、3か月後のことだった。
ヒトラーが歩んだ道をあらためてたどってきたのは、それが現在の日本で繰り返されてはならないからである。1930年代のドイツが日本に再現するということを、私は言おうとしているのではない。それを再現させないのは私たちである、ということを、改めて確認したいのだ。もっとも民主的だとされるヴァイマル憲法を、ヴァイマル・ドイツの「国民」たちは生かすことができなかった。彼らは、窮状から脱出することを、ヒトラーという政治家にすべて委ねてしまったのだ。それとは別の道を選ぼうとするとき、私たちは、あらためて私たちの憲法と向き合わなければならないだろう。「憲法は為政者や権力者を縛り、彼らに義務を負わせるものであって、国民に義務を課するものではない」という言いかたが、とりわけ現行憲法を擁護する立場の人びとによって、しばしばなされる。だが、日本国憲法はその第12条で「この憲法が保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これをほじしなければならない」と定めているのでる。自らの自由と権利を護り実現する義務と責任は、為政者や政治家ではなく、私たち自身にあるのだ。議会制民主主義とは、職業政治家に全権委任することではない。
ヒトラーは「全権委任法」によって全権委任を国民から要求し、それを国民に義務付けた。自民党の改憲草案もまた、「緊急事態」を口実にして政府への全権委任を国民に義務付けることを、実行に移そうとしている。私たちは、ただ単に「護憲」を言い続けるのではなく、憲法に反した現実を覆して憲法の理念を生かすために、政治と社会の主体にならなければならない。だが、それはそのような主体なのか?――ナチス・ドイツの「国民」たちは、用意され管理され操作された様々なボランティア活動を通じて、社会の主人公となった。その彼らには、自分たちが溌溂と生きる傍らで差別され抹殺されていく少数者たちを、見ることができなかった。私たちは、むしろそのような社会のマイノリティを見つめることによって、圧倒的多数に居直る現政権には見えないものを見るのである。私たちは、そういう社会的主体なのである。たとえ数の上では少数者であっても、その少数者こそが、多数派の傲慢と暴虐を許さない責任を負っている。民主主義社会は、そのような少数者によってこそ、民主主義を実現するのだ。国会の第一党となったヒトラー・ナチスの歴史は、私たちに、いまこそ、それを教えているのである。
池田浩士(いけだ ひろし)
1940年生まれ。
元京都大学教員、現在は同大学名誉教授。
研究分野は、ドイツ文学・ファシズム文化論。
主な著書:
『ファシズムと文学―ーヒトラーを支えた作家たち』(1978年)
『抵抗者たち―ー反ナチス運動の記録』(1980年)
『〔海外進出文学〕論』シリーズ、全5巻、既刊3巻(1997年~)
『虚構のナチズム――「第三帝国」と表現文化」(2004年)
『子どもたちと話す 天皇ってなに?』(2010年)
『ヴァイマル憲法とヒトラー――戦後民主主義からファシズムへ』(2015年)
『池田浩士コレクション』全10巻、既刊5巻(2004年~)