終戦記念日に寄せて
― 被害者であるまえに加害者だった -
小林はるよ
日本で国家的な行事が行われる記念日は、しばらく前までは、原爆記念日と終戦記念日でした。記念日は、単に国家的であるだけでなく世界史的な意義を持つ日であるために、国家的記念日になるのでしょう。東日本大震災の起きた3月11日も、国家的な記念日になりつつあります。
東日本大震災の被害が地震と津波だけであったなら、国家的な記念日にはならないでしょう。東日本大震災は、これから何百年ものあいだ、世界中に影響を及ぼす歴史的な事故である福島の原発事故のきっかけとなったために、国家的記念日になろうとしています。ところがふしぎなことに、3月11日のころのマスメディアは、原発事故についてはほとんど報道しません。津波の被害がいかに悲惨だったか、いかに地域が悲劇にくじけることなく、「元のように」復興しつつあるかが、当事者、支援者によって語られるのです。
こうした東日本大震災の記念日のあり方は、原爆記念日と終戦記念日のあり方と、よく似ています。どの記念日も、毎年その日になると、日時も式次第も、例年どおりの式典が行われる年中行事、季節の行事になっている感があります。私は現在の日本の国家的記念日の式典は、基本的に災害被害者の追悼式だと思います。
外国の国家的な記念日は、独立記念日とか戦勝記念日、革命記念日等、その国の現在の体制の出発点になった日を記念して祝い、これからもこの体制を発展させましょうとの、思いを、国民的に新たにするという主旨のようです。そして、こうした主旨には、記念日以前の国家的状況が、歴史的に倫理的にまちがったものであり、現在の体制がより良いもの、進歩したものだという認識が含まれていると思います。
原爆記念日と終戦記念日も、その出発の時点では、それまでの日本の国家体制と侵略戦争への反省をふまえて、日本がこの日を機に平和的な民主的な国になる、そのうえで、二度と核兵器の被害をこの世に起こさせない国になるという主旨を持っていたはずでした。少なくとも日本の侵略の犠牲になったアジア諸国の人々は、当然、これらの国家的記念日は、そうした主旨に基づいているものと思っていたでしょう。
けれども日本国民の多数は、日本の核武装を主張する閣僚がいる政権の成立を許してしまいました。その政権はなるべく早い機会の改憲も意図しています。要するに、原爆記念日と終戦記念日はどちらも、当初の主旨を実現していないのです。(東日本大震災の記念日は、原発事故が起きた日であることを隠して、津波の被害者を追悼し、地域の復興を讃える記念日になっています。)
いろいろ妨害要因はあったにしても、けっして少なくない人々が、日本という国は終戦を機に平和的な国、民主的な国として再出発するという主旨の実現を目指して、それぞれ努力してきたはずです。そうした努力にはいったい何が欠けていたのだろう。何がまちがっていたのだろう。結論としては、終戦のその日までは、日本がアジア諸国に対する侵略国であったという認識、それゆえに、日本はアジアの諸国に対して一方的な加害国だったという認識が、完全に欠けていたのです。
敗戦を機に、日本が平和的な民主的な国として再出発するという主旨にとっては、現憲法が公布された日(1946年11月3日)のほうが、よりふさわしかったはずです。けれど、それは祝日にはなりましたが、国家的記念日にはされずじまいでした。
降伏した日を国家的記念日として、現憲法公布の日を国家的記念日にしなかったのは、日本政府にも、そして大多数の日本人にも、終戦であれ敗戦であれ、戦争とはアメリカとの戦闘のことだという理解しかなかったことの表れです。ポツダム宣言は、アメリカだけではなく英国と中華民国への無条件降伏を求めており、日本の世界征服の企ての停止を求めていました。無条件降伏が文字どおりの無条件であるならば、「国体の護持」も降伏の条件にはならないはずでした。それを降伏の条件のように了解し合っていたのは、日本とアメリカだけでした。
降伏した日、屈辱の日であるはずの日を国家的記念日にするふしぎ。そのふしぎは、現憲法公布の日を国家的記念日にせず、終戦記念日を国家的記念日にした日本政府にとって、その日はアメリカによって国体が護持された日、国体が「安堵」され、国体が存続しうることになった日だったからと考えるとつじつまが合います。
アジアの人々が日本の侵略によって被ることになった被害や屈辱の認識は、正直に言えば私自身にも、せいぜい、この二十数年来のこと、日本の右傾化がますますはっきりしてきてからのことです。それまでは私も、反戦・平和の運動とは、自分たちの被った被害の悲惨さを確認し合うこと、語り継ぐこととばかり、思っていました。そうしていれば、「あんな悲惨な体験をすることには二度となってほしくない」と誰でも思うに決まっていると思っていたことになります。
平和教育にしても、子どもたちにも被害者としての悲惨や悲劇を語り継ぎ、疑似体験させていれば、自分たちはそんな目に合いたくないと考えるようになるはずと思ってきたことになります。日本でも平和教育はされてきたのです。原爆ドーム、ひめゆりの塔への修学旅行も、語り部の悲惨な体験談を聞かせることも、盛んに行われてきました。教科書にも採択されている童話「一つの花」や「ちいちゃんのかげおくり」も、戦争の究極の被害者、子どもの悲劇、戦争のもたらす悲劇を描いています。
それなのに、若者のあいだの改憲支持者の率は高いようです。日本の平和教育は、まちがっていたのです。「一つの花」も「ちいちゃんのかげおくり」も、どちらも、出征兵士の父を送り、その父を失う子どもたちの悲劇。でも、自分たちの家や土地を奪い、抵抗する者を殺したり強姦したりする兵士たちが送られる先にいる子どもたちの悲劇は、物語にはできないほど、悲惨でしょう。日本の反戦童話は、兵士が送られた先の人々に読ませられる物語ではありません。
日本には今、就業や結婚のためたくさんのアジア諸国出身の人々が暮らしています。その子どもたちは、日本の学校に通い、教科書でこうした「反戦童話」を読むことになります。先生たちは、出征する父親が、どこへ何をしに行ったのか、子どもたちに話せるのでしょうか。
私が子どものころから反戦派のつもりだったのは、フィリピンに終戦のほぼ1年前に召集されて従軍した父の影響です。父は、「アメリカとの戦争は負けだ」と、同僚と激論したことがあると言っていました。その父にとっても、戦争は、フィリピンを舞台にアメリカとしたもの、でした。フィリピンは戦争の舞台にすぎなかったのです。父は「フィリピンゲリラ」という言葉をときどき使いました。それで私は「ゲリラ」という言葉を憶え、フィリピンをジャングルの中に「ゲリラ」が出没する、未開な地域であるようにイメージしました。日米戦争は侵略国同士が、侵略した地域を蹂躙して争った戦闘だったことを知ってから、「リベラル」を自認していた父の、アジアの国々と人々についての見方の限界を知るようになりました。そして私がその父の見方の限界を受け継いでいたことも。
今も8月15日が近づくと、平和を願い、不戦を祈る集いが催され、戦争の悲惨、悲劇が語られます。「こんなご時世だから」なおのこと、心してそうした集いをせねばとお誘いの文が呼びかけてきます。空襲被害の悲惨、飢え、物資の不足、家族の戦死・・・それらの経験は悲劇には違いありませんが、そうした被害は、日本が加害に乗り出していなかったら、ありえなかった被害です。日本は明治維新以来、ほんの最近まで、日本がアジアでは唯一の加害国であったことを自覚できていませんでした。今も、国家としては侵略加害を否定し続けています。まず加害があっての被害だったことを自覚しない反戦、非戦の訴えは、国内の反戦派を増やすこともできず、子どもたちを反戦・平和の担い手に育てることもできませんでした。戦争被害体験を聞く私は、加害があっての被害だったことを、気まずい沈黙をもって終わることになっても、経験していない人にはわからない、と非難の目を向けられても、語らなければならなかったと、悔いとともに思います。
戦争に反対するということは、平和を願ったり、戦争がないようにと祈ったりすることではなく、戦争の悲惨や悲劇を語り合うことでもなく、自分たちの政府が戦争を起こすことを止めさせることであり、自分たちの政府が戦争を企てることに反対することなのです。
小林はるよ氏の前回の投稿(6月22日)
こばやし・はるよ
岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。
岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。
「私にとっての中国 日本にとっての中国」
関連投稿(2015年8月15日)
乗松聡子「降伏70周年の日に―内向きの戦史観からの脱却を」
小林さん、このたびの投稿をありがとうございました。一人でも多くの日本人に
ReplyDelete読んでもらえたらと願います。
一点突っ込むとすれば「終戦記念日」という概念そのものについてです。この日
は天皇裕仁がポツダム宣言受諾すなわち降伏を国民に伝えた日であり、正式には
「終戦」は戦艦ミズーリ号で日本が降伏文書に調印した9月2日です。これを
「終戦」の日とせず天皇が降伏を宣言した日を「終戦」の日とすること自体に、
戦前と戦後の天皇制のおそらく意図された違憲的連続性が見られると思います
(それは、今の天皇明仁が自ら天皇制を定義しようと試みた、先日の「お気持ち」
宣言の違憲性にも通じます)。おまけにこの降伏は天皇裕仁の「英断」によるも
のだったとの神話が日本に広がっています。そもそも前体制の長が降伏したのに、
その同じ長だった人物が翌年11月3日(これも奇しくも明治天皇誕生日と一致)
に民衆の前に華々しく登場し新憲法公布を宣言したのです。そこで民衆は天皇の
前で万歳三唱までやっているわけですね。これが、国として前体制に決別する姿
に見えますか。説得力ゼロですよ。だから小林さんが言うように、11月3日は
過去に決別した日のはずなのにそのような「国家的記念日」的な意味合いはもた
せずに「文化の日」といった意味の曖昧な祝日にしておき、8月15日ばかりが
強調され、「英断」神話とともに、現憲法ではあってはならないはずの天皇の威
信的イメージが作られ続けているのです。小林さんのエッセイは天皇を論じてい
ませんが、私はこれを読んであらためて、日本が過去を顧みらず加害を認めない
ことはまさしくこの「天皇制の連続性」に象徴されているのだと再認識しました。
私、終戦記念日に閣僚が靖国参拝したがるわけがもう一つ、わかっていなかったと気が付きました。
Deleteけっきょく、日本はあの敗戦で変われなかったのですね。戦前と戦後は見事に連続したわけです。
人的な入れ替えもありませんでした。入れ替えられたのは左翼のほうでしたね。
変わっていないことの認識が、「左」のほうの人たちに弱かったことになりますね。
私も、かなり違和感があったものの、はっきりとは認識できていなかったことが、今回、わかってきた気がしています。
Deleteあの「戦時中の悲劇体験」の語りの中には、率直に言えば、自己陶酔の響きがありました。
学徒動員の学徒の行進に涙した人が、従軍慰安婦のカミングアウトには、一滴の涙もこぼさない。