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Sunday, January 28, 2018

上海、南京、大連、旅順の旅 My report of a historical study tour to Shanghai, Nanjing, Dalian and Lvshun

In December 2017, I travelled to Shanghai, Nanjing, Dalian, and Lvshun (Port Arthur), four places in China, to learn about the history of Japanese colonization and aggressive war in the continent. I was part of the tour organized by Nanjing Massacre researcher Tamaki Matsuoka. (For more information about Matsuoka in English, see USC Shoah FoundationXinhua, CGTNPeople's Daily.)The purpose of the tour was primarily to commemorate the 80th anniversary of Nanjing Massacre, and to learn the less known "Port Arthur Massacre" of 1894 during the Sino-Japan War of 1894-5. See also my latest article,
"From Nanjing to Okinawa – Two Massacres, Two Commanders."

昨年12月に参加した中国への旅の報告記事を紹介します。 「南京と沖縄」のつながりに注目した記事は12月4日、31日の『琉球新報』に掲載され、英語版が『アジア太平洋ジャーナル』(『グローバルリサーチ』に転載)に出ました。1月19日号の『週刊金曜日』には「旅順大虐殺と南京大虐殺の現場を訪ねて―明治期に遡る大日本帝国の暴虐の系譜」という題で記事を出しています。この長いバージョンは「東アジア共同体研究所・琉球沖縄センター」の次号の紀要に掲載されます。

侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館 2017年12月13日 夕暮れ時


中国侵略戦争の記憶の地を訪ねる――上海、南京、大連、旅順

乗松聡子


2017年12月。
1937年同月、日本軍の南京攻略戦において捕虜、投降兵、敗残兵の大量虐殺、南京城内外と近郊農村において一般市民の虐殺・強姦、放火や略奪が大規模に繰り広げられた「南京大虐殺」から80周年を迎えた。この事件は37年12月初頭から約6週間にわたる期間に集中したが、傀儡の中華民国維新政府が成立する38年3月末頃まで起こった。だから「80周年」の追悼は、2018年の新年を迎えた今も、続いているのだ。

私はこの80周年の節目に南京にいたいと思い、昨年12月12日から19日、南京大虐殺研究者の松岡環氏が主宰する「第33次銘心会南京友好訪中団」にカナダから参加した。松岡氏は1980年代以来、30年余にわたり南京大虐殺をはじめ、中国全土での日本の侵略戦争の調査を行い、南京攻略戦に参加した元日本兵250名、南京大虐殺の被害者300名余から聴き取りを行った。その成果を国内外で出版、映画制作、講演活動等で発表してきている。

33回目となる今回の訪中団には松岡氏のほか14名、それに加え長崎の「岡まさはる記念長崎平和資料館」から「第15回日中友好・希望の翼」として3名が合流し計18名が参加した。その内訳は大学生4名を含む、元教員、市民活動家、会社員など20代から80代までの多彩な背景を持つ人々であった。松岡氏によると、冬の訪中団は南京大虐殺の追悼日である12月13日を基軸に日程が組まれており、毎回南京に加え他の場所も訪れることによって日本の中国侵略戦争の歴史を幅広く学ぶねらいがある。今年は、上海半日、南京3日、大連1日、旅順2日の組み合わせであった。


上海 -「南京」前に虐殺は始まっていた

上海淞滬抗戦紀念公園
上海では、日本で「第二次上海事変」と呼ばれるが中国では「8・13淞滬抗戦」として知られる、1937年8月13日から3か月の、抗日民族統一戦線(第二次国共合作)による日本侵略軍との戦いを主に展示している上海淞滬抗戦紀念公園および紀念館を訪ねた。
上海淞滬抗戦記念碑に
献花する参加者
ここでは「世界反ファシズム戦争の東洋における初の大規模戦闘」と解説していたのには目を引かれた。上海は結局攻略されたとはいえ、軍民共に勇敢に戦い、日本側の「中国を3か月で降参させられる」という幻想(「一撃論」と呼ばれる)を打ち破ったという誇りが強調されている。

日本軍の残虐行為の展示コーナーでは、8月23日、宝山区羅涇鎮で無抵抗の2千人以上の市民が焼き尽くし殺し尽くされたという「羅涇大焼殺」があり、その被害者の名前が壁一面に記されていた。案内人を務めた紀念館の宣伝展示部主任である徐泌さんからろうそくの形をしているシールを一人一人渡され、それぞれが選んだ名前の下にシールを貼り、追悼の時間を持った。

羅涇大焼殺の被害者の名前(一部)
たくさんある名前の中からどこに貼ったらいいのか一瞬困惑したが、知らなくても被害者の一人を選び追悼することで、一人一人の被害者には名前と人生があったという当然のことを想い出させてくれた。この上海戦を遂行した松井石根率いる中支那方面軍(第十軍と上海派遣軍)が、略奪、放火、殺害、強姦を行いながらわれ先にと南京への300㎞の道のりを行軍したのである。「南京」を理解するためには上海戦を学ぶことが欠かせない。

南京-80周年の「国家公祭日」
12月12日夜、時速350キロの高速鉄道で1時間、上海から南京に移動した。明けて13日は南京大虐殺被害者を追悼する日だ。江蘇省および南京市の主催で1994年以来追悼式典を行っていたこの日は2014年に「国家公祭日」と指定された。早朝、追悼式典が開かれる侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館に向かうバスの中、団長の松岡氏はこの日の意義を語った。

「侵略戦争において、“惨案”(ツァンアン)と呼ばれる虐殺事件は、南京だけではなく中国全土で起こりました。調査でわかっているだけでも、100人以上の虐殺があったのは390か所、10人以上の虐殺があったのは2300か所にも及びます。」
松岡環氏

この日は全国で南京大虐殺の犠牲者を追悼する日だ。それぞれの地では、その地で起こった“惨案”のことも想起されるであろう。南京では、午前10時ちょうどに街中の車がクラクションを鳴らし、揚子江に浮かぶ船は汽笛を鳴らし、10時1分に1分間の黙とうをする。松岡氏の話を聞きながら私は、中国が全国的に追悼に包まれるこの日、南京大虐殺を否定あるいは過小評価する風潮がまかり通る当の加害国の日本でこの日の意味をわかっている者がどれだけいるのかと思い、暗澹とした気持ちにならざるを得なかった。

1時間ほどの式典は、約1万人の参列者が見守る中、おごそかに行われた。献花、そして荘厳かつ感情に訴えかける音楽若者の参加、放鳩、平和の鐘など、10年間広島・長崎の学習旅行にかかわってきた自分には、原爆の追悼式典と重なる部分が多かった。平和への願いを象徴するシンボルである紫金草は、広島の折り鶴を思い出した。南京の式典での放鳩はいつ終わるのかと思うほど多くが放たれたが、後から聞いたら犠牲者の数約30万を象徴した3千羽だったという。1羽に100人分の命がこめられていたと知り言葉を失う。

紀念館自体が虐殺の地に立っているのだ。代表演説を行った全国政治協商会議の兪正声主席は、「戦争の歴史を学ぶことによって、人々がよりよく歴史を認識し、平和を大事にすることができる。日本軍国主義が発動した中国を侵略した戦争は中国人民に巨大な災難をもたらしたが、日本人民にも同じく大きな災難をもたらした。」と語った。原爆の式典に米国市民が来るように、南京の式典にも日本人はいた。紀念館によると130人の参加があったという。広島・長崎の式典には米国大使が2010年以来参列しているが、南京の式典に日本政府の代表者はいない。

式典はカメラも電話も持ち込み禁止だったので写真は撮れなかった。午後に会場に戻ったときの片付けの最中の写真。

13日午後は、魚営雷や中山埠頭など、揚子江沿岸の虐殺現場を訪ねた。この日は紀念館の主会場だけではなく市内17か所の虐殺現場で同時に追悼式典が開催される。

揚子江沿い、幕府山近くの魚営雷の追悼碑
(1937年12月15日夜、日本軍は捕まえた兵員、武装解除された兵・官9千人余りをここで機関銃で集団射殺。同月、魚営雷・宝塔橋一帯で3万人あまりを再び殺害-碑文より抜粋)
挹江門にはその先の揚子江を渡って逃げようとした国民党兵士や市民が殺到した。行く手を塞がれ多数が虐殺された。南京崇善堂、紅卍字会などが1937年12月より1938年5月まで6回にわたって約5100体の遺体を埋葬した。

1万人以上が虐殺された中山埠頭の追悼碑で


行く先々で眩しいほどの真新しい献花に覆われた追悼碑を見るたびに、この虐殺事件がいかに広範囲で大規模に行われたか、そしていかに地域で明確に記憶されているかを肌で感じた。中山埠頭記念碑の近くで話しかけてきた呉継民さんは、父親が当時19歳の中国兵で、 12月12日に揚子江を渡って逃げ延びたという話をしてくれた。

同様に通りがかりで話しかけてきた大学生の胡陽志さん(同済大学浙江学院電気工学専攻2年生)は、後日くれたメールで「南京の門はあなたたちのために永久に開かれています」と書いてくれた。胡さんは、叔母の祖父が南京大虐殺の被害に遭っている。南京の人々は普段多くを語らないが、頭の片隅にいつもその辛い記憶が残っていると、22歳の胡さんは教えてくれた。

リニューアルされた紀念館の追悼スペース

13日の午後は、長年紀念館と交流してきた銘心会南京と日中労働者交流協会の訪中団に対し、リニューアルされた紀念館の展示を一般公開にさきがけて見学させてもらった。有り難いことである。紀念館に入ってすぐのところには現存する幸存者の写真パネルが並ぶ。紀念館に登録している幸存者でご存命なのが、17年9月末現在で98名ということだ。

キャンドル追悼集会
13日夕方は紀念館敷地内で開かれたキャンドル追悼集会に参列した。この集会には幸存者の夏淑琴さん、劉民生さんらが出席し、当時被害者の治療に献身したロバート・ウィルソン医師の息子もスピーチを行った。国家公祭日にはこのように当時南京難民区で救援活動をした、ジョン・ラーベら西洋人の子孫が10数名招かれていた。

式典後、会場で中国中央電視台の英語放送局CGTNから取材を受け、「日本人としてこの歴史への責任を感じる。歴史の否定が日本で蔓延しているからこそ、私たちのような日本人グループの参加に意義があると思う」と語った部分がその晩に放映され、ネットにもアップされている。当日はホテルのTVでどこのチャネルに行っても国家公祭日の各地での追悼式典の報道や特別番組をやっているという印象であった。広島で8月6日にTVをつけるときをまた連想する。

幸存者訪問
南京滞在中、幸存者お二人のお宅を訪問した。
劉民生さん
お一人は前日式典にも参加していた劉民生さん(男性、83歳)、もう一人は王津さん(女性、86歳)。「訪問」とは言っても簡単ではなく、松岡氏が長年かけて信頼関係を丁寧に築いた上で、日本人の大勢のグループを受け入れること受け入れてくれて、かつそれだけの人が入れるスペースのある家に住んでいる方たちである。劉さんも王さんも、幼かった当時、日本軍に父親を連れ去られて殺され、貧困の中大変な苦労をして生きてきた。このように一家の大黒柱が殺され、残された家族が貧困に苦しむ生活を余儀なくされたケースは無数にあったという。

松岡氏が「心のケア」と呼ぶこの訪問活動は、幸存者を日本に招聘してもそれっきりにはせず、辛い体験を話してくれた人に対してその後毎年必ず訪問を繰り返し、ケアするという姿勢で2001年から約50人に対して行ってきた。

王津さん
平和運動が戦争体験者を都合よく呼び出し、証言させてそのままにするのでは「人寄せパンダ」として利用しているに過ぎないとの松岡氏の指摘には、自分も自らの活動への反省を促された。劉さんの言葉「今の日本政府の高官たちは歴史をなくそうとしている。みなさん、この目で見た歴史を日本で伝えてください。一緒にがんばり平和な世界をつくりましょう」を心に刻み、南京を後にした。

南京から大連に向かう飛行機の中で、参加者の一人である大学生の島尾さんと話をした。大学では英語と中国語を学ぶ島尾さんは、日本で南京大虐殺を否定する傾向について、「もし自分の家族が被害を受けていたらどう感じるのか、考えないのだろうか」と、想像力の欠如を指摘した。南京訪問は初めてで、日本人が行くことで批判を受けるかと思ったが地元の人は心が広く、日中友好を求めていることがわかると語った。良識を持った日本の若い世代に希望を感じる。

大連―植民地支配下、略奪と搾取の玄関港
遼寧省・遼東半島の大連市といまは行政的には大連の一部となっている旅順口区。最初に訪れた大連現代博物館では、この地域が大国の植民地主義に翻弄されてきた現代史が学べる。そこの年表は「1840年の阿片戦争時イギリスの軍艦が遼東半島に侵入、清朝は金洲と沿海の港の防御工事を強化、1860年ふたたび英国軍が大連地区に侵入」という項目で始まる。清朝は1881年に旅順に軍港を建設、1888年に北洋艦隊を編成する。1894-5年の日清戦争後の下関条約で日本に割譲されたが「三国干渉」で返還、98年にロシアが強制的に租借権を得た。そして日露戦争(1904-5)の勝利で日本が遼東半島の権利を再獲得する。
大連現代博物館

大連は満州の玄関港として繁栄するが、その陰には中国人の奴隷的労役があった。博物館には重い荷役に苦しむ労働者たちの彫刻が展示され、「労働者の血の涙-日本人は埠頭で仕事をする人を“苦力”と呼んだ。その“苦力”には労働保護策はなく、毎日12時間働かされた。住まいの条件も悪く、毎日死傷者が出た。満鉄の統計によると、大連埠頭での荷下ろし作業で死傷人数は1911年には1469人、1921年には6435人、1925年から1930年に至る5年間には毎年3000-5000人の死傷者が出た。1929年には5385人死傷者があった。中国“苦力”は血と汗と命をもって大連港の繁栄を作った」とある。

「“工業日本”と“原料満州”との侵略政策による日本帝国主義は大連港を東北の資源を略奪する工具とした。1907年から1931年の間、大連港から石炭265.6万トン、円盤状に固めた豆かす1901.4万トン、大豆1495.7万トン、生鉄717.1万トン大豆油227.2万トンを輸出した。」あらためて、植民地支配というのはその地の資源も、人も、根こそぎ奪いつくすものなのだと思い知らされた。大連・旅順は日本の敗戦時ロシアの支配下に再び置かれ、1955年にようやく中国の主権下に戻ることになる。
見る者の心に重くのしかかる「労工血泪」展示

旅順-「南京」から43年遡る虐殺の系譜

この地に来た主要目的は「旅順大虐殺」の歴史を学ぶためだ。南京のことは知っていても1894年の日清戦争中の旅順大虐殺のことはどれぐらいの日本人が知っているだろうか。松岡氏は「日本人は100人いたら100人知らないと言えるほど知らない。聞いたことはあっても遠い昔に悲惨なことがあったな、程度」と断言する。恥ずかしながら私もその程度の認識であった。

井上晴樹『旅順虐殺事件』
(筑摩書房 1995年)
日清戦争(中国では甲午戦争)は、朝鮮に影響力を持つ清国を排除して朝鮮を日本の支配下に置くための侵略戦争であった。1894年7月23日に日本軍は朝鮮王宮の門を破壊して占領、その二日後の25日に黄海の豊島沖で日本海軍が北洋艦隊を攻撃、続いて朝鮮の清国軍に日本陸軍第一軍が奇襲をかける。朝鮮を制した第一軍は朝鮮・清国境を超えて10月24日清国に侵攻、それとは別に同日大山巌率いる第二軍は遼東半島花園口に上陸、金州に攻め入り虐殺、強姦や略奪を行う。11月21日に北洋艦隊拠点の旅順を占領、その日からおよそ4日間にわたり旅順の市民に対して、年寄りから子どもまでの無差別殺りく、女性の強姦、武器を捨てて無抵抗状態の清軍兵士・捕虜の虐殺を行い、犠牲者は約2万人と推定される。

12月16日、大連市内で、私たち訪中団のホスト役を務めてくれた大連中日文化交流協会、「日本語角」の人たちと一緒に松岡氏の「南京大虐殺」「旅順大虐殺」についての講演を聴いた。松岡氏は、以前この地で南京大虐殺の講演をしたとき、地元の参加者から「旅順のことも調べてくださいね」と言われたことがきっかけで旅順大虐殺の調査を始めたという。これら地元の中日交流市民グループには日本人メンバーも当然いるのであるがこの日の講演会には誰も来ていなかった。

松岡氏は講演で、次々と具体的な資料を示しながら話した。「旅順大虐殺」は、同行していた「伯爵写真家」亀井茲明が多くの証拠写真を残している(訪中団が訪問した大連現代博物館、旅順萬忠墓紀念館、旅順口風雲展覧館ではいずれも亀井の写真が展示されていた)。亀井は「日本兵は、兵農を問わず容赦せず殺した…流れる血、血なまぐさい匂いが満ち満ちて、のちに遺体は原野に埋葬した」という内容の記録も残している。山地元治第二軍第一師団長は「土民といえども我軍に妨害する者は残らず殺すべし」との命令を下している。
1894.12.20 クリールマンの記事。
(大連現代博物館の展示)

新聞記者のジェイムズ・クリールマンが『ニューヨーク・ワールド』という新聞に報道している。12月20日付の長い記事では、日本兵が「少なくとも2千人の無力な人々を虐殺」、「市街端から端まで掠奪」、「街路は切り刻まれた男、女、子どもの死体で埋め尽くさる。その一方で兵士ら、笑う」といった内容が書かれている。また、参戦していた日本軍夫の日記にも、子どもが裸で死んでいる有り様を見て目に涙をためたり、若い娘が露わな姿で死んでいるといった記述が残されている。この事件については、井上晴樹著『旅順虐殺事件』(筑摩書房、1995年)が詳しい。

123年前の出来事でもう幸存者はいないが、松岡氏は幸存者金純泰さんの娘、金道静さんから、父親からきいた話を聴き取っている。「寒風の中で虐殺がはじまった。11月21日日本軍が旅順に攻めてきた。幼い姉二人は泣くとまずいので家族によって井戸に投げ込まれ、男の血筋を守るためお祖母さんと母は2か月の父を抱いて逃げた。その後落ち着いてから帰ったら、近所に殺された人々の死体が山となって血が川のように流れていた」と金純泰さんは繰り返し道静さんに語ったという。

旅順大虐殺が起こった背景には、旅順に入るまえに土城子というところで日本軍が劣勢だったところ逃げ遅れた日本兵が清軍につかまり殺され、死体の耳をそがれたり腹を裂かれたりしたことがある。それに対し山地第一師団長が激昂し皆殺し命令をしたのだ。しかし山地の上官の第二軍司令官大山巌は虐殺をやめさせようとしなかった。そして当時の首相伊藤博文は虐殺を隠蔽することに奔走する。伊藤の命令で陸奥宗光外相は海外メディアに画策電報を打った。①清国兵は制服を脱ぎ捨てて逃亡した。②旅順で殺害された平服を着た者は、大部分が姿を変えた兵士であった。③住民は交戦前に立ち去った。④少数の残留した者は発砲し抗戦するよう命令され、そのように行動した。⑤日本軍は、日本兵捕虜の何名かが生きながら火あぶりにされたり、また責め苛まれたりした上、恐ろしいほどに切り刻まれた死体を見て大いに激昂した。⑥従来通り日本軍は軍規を遵守していた。⑦旅順陥落時に捕らえられた355名前後の清国人捕虜は好遇されており、二、三日うちに東京に連行される。⑥は誇張、他は全て嘘がある。松岡氏は、この日本政府による虐殺の否定の仕方は、南京大虐殺の否定派と全く同じであると語った。

虐殺の記憶の地を歩く
旅順では、地元の地理や歴史を知り尽くしている地域史研究家の姜広祥さんの案内で虐殺や埋葬の記憶の場を訪ねた。
姜さんの案内で
フィールドワーク
姜さんが40年務めた遼寧造船場は1883年創設の遼東半島一の清国の軍艦の造船所であった。日本軍が清国兵士や造船所労働者、その家族を沼地に追い込んで殺害した。造船所は約2000人の工人がおり、一人につき数人の家族がいたであろうことを考えると、被害総数は相当のものになっていたであろうと松岡氏は読む。

日本軍が虐殺の犠牲者の遺体を焼却処理した場所のうちの一つ、白玉山の北東の麓に「萬忠墓」がある。最初は1896年、清朝の役人が墓碑を建て、地域で死者を追悼する場となった。その後も何度かの修築を経て、1994年、旅順大虐殺100周年のときに「旅順萬忠墓紀念館」が建立された。この施設を訪れる者はまず眼前に立ちはだかるように「1894.11.21-24」と大きく刻まれた石壁と対峙する。虐殺が集中した4日間だ。大連や旅順の人々は決して忘れない日付だ。

旅順萬忠墓紀念館
植民地時代の監獄跡博物館

旅順で訪ねたもう一つの侵略戦争時代の遺産ともいえる場所が、「旅順日俄監獄旧址陳列館」である。
旅順日俄監獄旧址陳列館
1898年、旅順を強制的に租借したロシアは支配維持のため1902年にこの監獄を造り、日露戦争後は日本が引き継ぎ、増築した。2.6万平米に及ぶ構内には253室の牢屋、15の工場があり、一時に2000人収容可能であった。ここで日帝に抵抗する者を投獄、強制労働、拷問、処刑していたのである。

安重根が拘禁された監房
あらゆる人間性を否定する残酷行為が行われていたこの監獄は、「東洋のアウシュビッツ」と呼ぶ人もいるようだ。同様に植民地時代の監獄が博物館となっている、韓国の西大門刑務所跡を思い出す。
植民地にはこのように反抗する者を弾圧し恐怖で支配するための監獄が欠かせないのであろう。

この旅順の監獄には、中国人だけではなく朝鮮人や日本人も投獄された。1909年10月26日伊藤博文をハルビン駅で暗殺した安重根も、逮捕後すぐにこの監獄に収容されており、5か月後の1910年3月26日に死刑執行されている。外国人来訪客では韓国人が一番多いという。見学後、暖かい休憩所を提供してくれた周愛民副館長に「日本人も来ますか」ときいたら、「日本人は日露戦争の戦跡を見に旅順に来る人は多いが、ここにはあまり来ません」との答えだった。恥ずかしいことである。

副館長の周愛民さん(左から2人目)は日曜で休日なのに出てきてくれて、寒さがこたえる見学のあと、暖かい会議場を休憩場として提供してくれた。周さん以外は、私たちの旅順見学のガイドを務めた地域史研究家の方々。訪中団と意見交換をした。

旅順虐殺は「明治」賛美を打ち砕く

2018年は「明治維新150年」として、日本では数々の記念イベント、TV番組、出版などが目白押しの様相である。安倍政権はそれらを「明仁退位・徳仁即位」と組み合わせ、天皇中心の軍事帝国時代を賛美するような全国キャンペーンを展開し、自らのたくらむ明文改憲を後押ししようとしているように見える。

日本人の多くは、「大国米国に戦争をしかけた1941年12月の失策のせいで敗戦を招いた」という歴史認識を持っている。日本の加害を意識した人でも、1931年の満州侵攻以降の「15年戦争」という枠組みで考えている人が多い。しかしこの旅での学びが明らかにしたものは、南京大虐殺を生み出した皇軍の野蛮な性質と、アジアの隣人を人間として扱わない醜い差別感情は、決して「15年戦争」と言われる枠組みに収まるものではなく、それは旅順大虐殺に象徴されるように、明治期から脈脈と引き継がれた大日本帝国とその軍隊の本質だということだ。

大日本帝国は1874年の台湾出兵、75年の江華島事件をはじめ初期段階から国外武力行使を行っており、日清戦争は帝国初の本格的侵略戦争であった。日清、日露での勝利が日本の朝鮮や満州の植民地支配につながったのであるから、侵略戦争と植民地支配は明治初期から1945年の帝国破綻まで70年以上、切れ目なく続いていたのである。

広く読まれている司馬遼太郎の『坂の上の雲』に色付けされた日清、日露戦争を美化する歴史観がこの帝国の本質を見えなくしている。実際は、「旅順大虐殺」の史実だけを取っても「明治は古きよき時代」という神話は、いとも簡単に崩れ去るはずだ。

敗戦後の日本社会も70年余に及ぶ侵略戦争と植民地支配の歴史を総括せず、戦後世代に学ばせないことで偏見に無知が加わり、現在社会にはびこる「嫌中・嫌韓・嫌朝鮮感情」やヘイトスピーチといった現象につながっている。さらに「南京大虐殺はなかった」「“慰安婦”に強制はなかった」といった、歴史を積極的に否定することによってアジア隣人の心の傷に塩を塗り続けているのだ。このような社会の傾向に抗い、日本近現代史の事実から目を背けず真摯に学ぶことこそが、再び侵略国家になる道を阻止し、アジアの中で信頼され、平和構築に貢献することができる日本をつくるための基礎となると信じる。

旅順港の日没

(終)

★この学びの機会を提供してくださった松岡環さんと銘心会南京、旅を通じてガイド・通訳をしてくださった盛卯弟さん、大連中日交流協会と日本語角のみなさん、他、中国各地でお世話になった地元の方々、訪中団参加者の皆さまに心から感謝いたします。

★写真は、全て筆者撮影。

関連投稿
日本が克服すべき過去とは何なのか:成澤宗男

他、このブログの過去の「南京大虐殺」関連記事はこのリンクをどうぞ。日付の新しい順に過去投稿が出てきます。




Sunday, January 21, 2018

私にとっての朝鮮 小林はるよ Me and Korea: Kobayashi Haruyo

朝鮮半島のことがニュースで取り上げられる毎日です。オリンピック、日本軍「慰安婦」の歴史、「核・ミサイル」問題など。しかし私たちは日本人として、かつて日本が植民地支配を行った朝鮮半島とそこの人々、そこにゆかりのある人々にどう向かい合うのか、根本に立ち返って深く考えたことはあるでしょうか。このブログに何度か投稿してくれたことのある長野の有機農業家、小林はるよさんの寄稿は、私には読んでいてはっとする瞬間をいくつももたらすものでした。他の読者にとってもそうなのではないかと思い、ここに紹介します。@PeacePhilosophy


私にとっての朝鮮(2000年の時空)-1 古代

小林はるよ

最初の「世界」と最初の「朝鮮」
 私の経験した戦後日本の社会では、外国とは、世界とは、アメリカのことでした。それは、私が子どもだったからの単純な理解とは思いません。アジアと言えば、父が九死に一生を得て還ったフィリピン、父母の家族がいた台湾。でもどちらも、二度と戻ることのない過去の舞台というイメージでした。私が自力で新聞を読むころには朝鮮戦争は終わり、中華人民共和国は成立していました。

 私が初めて意識した「朝鮮」は、弟が憶えてきた「チョウセン、チョウセン」で始まる囃し唄でした。卑し気な嘲りの調子に、暗い気持ちになったことしか、憶えていません。

 大学生になってから「朝鮮」と、本の中で出会いました。教育史の本を読み、戦前の日本が、「朝鮮」を含む「植民地」の人々に、日本語を強制したことを知りました。学校では、母語を使ってしまった子どもに、首から「方言札」を下げさせ、叱り、罰したとありました。私は1945年までの日本の対アジア戦争のおよその経過を、高校日本史の授業で教えられましたが、それは「事変」名と起きた年代の羅列にすぎませんでした。

古代の「朝鮮」との出会い
 それから少しして私は、古代の「朝鮮」と出会いました。もともと古墳、遺跡に興味があった私は、金達寿という在日韓国人作家のシリーズ「日本の中の朝鮮文化」という当時刊行中だった著作を夢中で読むようになりました。金達寿は、日本各地の寺社や地域を一つ一つ訪ね、そこに現在住む人々から、言い伝えられている地名や遺跡の名前の由来、残されている額や碑等の記録を調べ、日本列島のたぶん関東北部のあたりまでの広い範囲に、朝鮮半島から日本に移住してきた集団の痕跡が残っていることを明らかにしていました。私はこのシリーズから、カンラ、またはカラ、コマというような地名が朝鮮半島由来の地名であることを知りました。たしか、金達寿は、ナラもそうだと書いていたと思います。

 「日本の中の朝鮮文化」と出会ってから、私は、古代の日本列島と朝鮮半島(以下、日本と朝鮮と略記)との関係史を読み漁り、その中での論争を知りました。古代の日本と朝鮮の関係史については大きく分けて2つの考え方があります。その1つは、「大和王権同心円的発展説」で、平城京、平安京を都とした「大和王権」つまり、現在の天皇家につながる王権が、近畿地方で成立し、同心円的に日本全土に支配を広げたという考え方です。もう1つは、「大和王権朝鮮半島由来説」、北東アジアから朝鮮半島を経て部族集団や小国家をつくりながら、日本列島に入ってきた人々の流れがあったという考え方です。

 この考え方によれば、朝鮮半島から移動してきた部族が最初に九州地方や山陰地方に小国家をつくり、そのうちの1つが、畿内に移動して大和王権を形成したことになります。「大和王権同心円的発展説」でも、古代の大和王権が朝鮮半島からの人の流れと密接に関係していたことを否定するわけではありません。それは、古事記や日本書紀の記述にもある事実で、当時の大和朝廷は朝鮮半島から来たばかりの人がさまざまな地位に就いて活躍する場で、いわゆる「言葉の問題」は全くなかったようです。言葉の面でも文化の面でも、血族関係においても、きわめて近かったことになります。

タブー
 戦前にはもちろん「大和王権同心円的発展説」が圧倒的でした。朝鮮半島からの人の流れは、大和朝廷の栄華・繁栄に協力・貢献するためと解釈されていました。そして、大和朝廷は列島内で勢力を確立しつつ、朝鮮半島に進出して版図を広げようとして朝鮮半島の小国家と争ったというのが、戦後の歴史教科書に続く、日本の古代の歴史認識です。

 私は日本の歴史を広く東北アジア地域の人の移動、文化の伝達の歴史の中で考えるべきという考え方に心惹かれ、断然、「大和王権朝鮮半島由来説」支持でした。日本列島と朝鮮半島の古代史を学ぶなかで、私は、朝鮮半島が文化的、政治的に日本列島よりも先進地域であったことを知り、認めることができました。古代の人の移動の大きな流れは、朝鮮半島から日本列島へであって、その逆ではなかったことは明らかでした。人の移動が文化的に進んだ、豊かな地域から、そうした文化を必要とする地域へという方向で起きることは当然のことです。ある地域から出ていく集団は、いわば、縄張り争いに敗れて、出ていくのです。未知の地に敢えて出ていく集団があるとは思えません。

 私は、日本が朝鮮半島を植民地化していた戦前、「大和王権同心円的発展説」を朝鮮半島にも強いて、遺物の改竄を試みたことさえあるのを知りました。そして、日本で「大和王権同心円的発展説」が主流であるかぎり、歴史的事実が事実として理解されることはないだろうと思いました。じっさい、「大和王権同心円的発展説」の眼鏡をかけていると、どんな遺跡も、「『大和朝廷の支配がその地域に及んでいた』ことを示す」ものになってしまいます。新聞等で、そうした考古学者の解説を見るたびに、日本ではあいかわらず、「大和王権同心円的発展説」が、学会の主流らしいことを知るのです。

 金達寿の本を読んでいたころ、書店の同じ書棚で「朝鮮人強制連行の記録」という本を購入しました。その本は、買ってから50年近くもたつのに、一度も開かないまま本棚にあります。事実の酷さ、非道さが想像できて、読むのがつらかったのです。日本列島と朝鮮半島の古代史を追うなかで、私は、近現代の日本が朝鮮半島の人々に対してしたことの非道さを、否応なく知るようになっていました。近現代の日本があれほど、朝鮮半島の人々を苛酷に侮辱的に支配したことについては、追われた側だった「分家」が、「本家」への嫉妬や対抗意識を、2000年近い時空を超えて、潜ませてきたせいかもしれません。

私にとっての朝鮮(2000年の時空)-2 今日

 一番近くて一番遠い
 古代史への関心を通じて、私は近現代の日本がいかに朝鮮半島の国と人々を侮辱し苛酷に対してきたかを知るようになっていました。とはいえ、1945年以降の、日本と東アジア地域との関わりについてのイメージは持てないままでしたが、韓国、中国、沖縄には、けっして旅行しないとは決心していました。「北朝鮮」のことはよくわかりませんでした。南北朝鮮は、私にとっては一番近くて一番遠い国々でした。

一枚の写真
 1990年に入り、50代に近くなって、私は「朝鮮」と再び、出会いました。そのきっかけは、1枚の写真でした。写真の中では、板で作られた幅の狭い小屋のような粗末な建物の前に、軍人らしい男性たち数人が、「順番」を待っていました。列の最後尾は、写真の端で切れて、数人の列だったのか、長蛇の列だったのかは、わかりません。でも、それはまさに「公衆トイレの前で順番を待つ」列でした。

 日本側が「従軍慰安婦」と呼んでいた女性たちの一人が、自分が「従軍慰安婦」だったことを初めて公表し、韓国から報道されたのは、1991年のことでした。その女性は金学順さん。金学順さんに励まされるかたちで、韓国内で、それからアジアの各地から日本軍の「従軍慰安婦」だったことを公表する女性たちが出てきて、「従軍慰安婦」問題は次第に全世界に知られることになっていきました。私が見た写真は、おそらく金学順さんが最初に名乗り出て、「従軍慰安婦」問題が世界の目に晒されることになったころ、ほんの一瞬のように日本の新聞紙上に現われたものではないでしょうか。その写真は今も、この問題に関連する書籍の中で探すことができるかもしれませんが、私は二度と見ていません。

 その列が、何をする順番を待っての列なのか、順番が来て小屋に入る人がその中で何をするのかは、一目でわかりました。その写真と「従軍慰安婦」という言葉を初めて見たとき、頭の中を稲妻が走りました。小屋と、その前の列に、古代から近現代までの日本と「朝鮮」との関わりの歴史のいっさいと、とりわけ、日本という社会での女性の地位や女性観の歴史のいっさいが反映しているような気がしました。

日本がいちばん認めたくないこと
 今でも、「金目当て」だったと言い立て、仲間うちで盛り上がっている人たちが日本にいますが、女性にはわかります。あの、昔の公衆トイレのような慰安所の中で被害女性たちが強いられた「こと」を、天にまで届く金塊を積み上げられても、やるという女性はいません。それが毎日毎日一日中続き、逃亡は不可能、逃亡して見つかれば殺されたはずです。あれは、売春、買春ではない、強姦でさえなかったと私は思います。あれは、くりかえし殺されていたに等しい拷問でした。じっさい、最後には、ほとんどの女性が若い命を失ってしまったはずです。名前どころか、何人いたのか、人数さえも残すことができずに。

 日本がアジアへの侵略のなかで国家的に実施した、この「従軍慰安婦」という制度には、日本人の一人である私には、言うもつらいことですが、とても卑しい、忌まわしいものがあります。それを心の奥底では認めるがゆえに、日本の兵士たちは、虐殺行為以上に、口止めされなくても口をつぐんだのではないでしょうか。日本の兵士の家族たちも、虐殺や略奪行為以上に、知りたくなく、聞きたくなかったのではないでしょうか。もし、なんの疚しいこともない、他の国もしている以上の悪いことなどしていないと言うのなら、なぜ、日本はこんなにもむきになって、清楚で上品な東アジアの少女たちが手をつないで立つ少女像を外国の町が建てるというのに反対するのでしょう。あるいは、チョゴリ姿の少女像が祖国の街角に座ることが、なぜ「反日」なのでしょう。

 犠牲になった大部分の女性たちは朝鮮半島出身者でした。日本人が遺伝子をもっとも共有する地域の女性、先進的な文化をもたらしてきた地域の女性たちでした。あまりに理不尽で不当な侮辱であるがゆえに、被害者側は被害を克明に主張するのも、傷にさらに塩を塗られるような苦痛でしょう。「日韓合意」ですが、就任当時の朴槿恵大統領が、「従軍慰安婦の恨みを、韓国民は、1000年たっても忘れない」と言っていたことを憶えています。あの「日韓合意」を私はとても訝しく思っていましたが、当時のオバマ政権の強い圧力があったと最近の報道で知りました。

沖縄での「従軍慰安婦」
 最新の沖縄県史によると、日本は、沖縄本島といくつかの島に少なくとも143か所の「慰安所」を設けていました。これは日本が沖縄をいわゆる「内地」と同等に扱わず、「外地」とみなし戦場と考えていた1つの証拠でもあります。そのために、じつは沖縄での慰安所のあり方から、従軍慰安所の実態が推測できる面があります。慰安所が、兵士の数に対してどのぐらいの数、どのぐらいの割合であったか、1か所での女性の人数はどのぐらいで、その中で朝鮮半島出身者の割合はどのぐらいだったか、生き残れたのは何人だったのか。

 朝鮮半島からの女性たちは、「朝鮮ピー」と呼ばれ、兵士が払う金(女性に直接払われたのではない)は、「朝鮮ピー」に対してはいちばん安く設定されていたそうです。沖縄の住民の証言によると、「朝鮮ピー」と呼ばれていた女性たちには、色白で美しい人が多かったらしいのですが、みな、暗い顔をしていた、反抗的な態度を見せたりすると、それは苛酷に日本兵に罰されていたそうです。ほんとうに、日本は、「朝鮮」を徹底的に差別し、侮辱の限りを尽くしました。

 沖縄全体の慰安所にいた「慰安婦」の人数については、住民の証言によって推測するしかありませんが、そのうちの少なくとも1/2以上が、朝鮮半島出身だったようです。戦後、生存が確認された人は数人。そして、沖縄から朝鮮半島に帰ることができた人はいないようです。韓国で金学順さんが最初の告発者となった1991年に、沖縄でぺ・ポンギさんという朝鮮半島南部出身の、元慰安婦の方が亡くなっています。ジャーナリストの川田文子さんが「赤瓦の家」(筑摩書房)にポンギさんとの交流とポンギさんのこれまでの人生の軌跡を記録しています。

 韓国と書きましたが、もちろん、戦前には南北朝鮮の区別はなかったので、「従軍慰安婦」は朝鮮半島全土から集められていたはずです。20万人いたと言われる朝鮮半島出身者の中には、当然、今の「北朝鮮」の地域からの女性たちが南北の人口比に近い割合でいたでしょう。でも、その人たちの運命については、全くわかっていません。それに、朝鮮戦争がありました。「北朝鮮」地域は米軍と「国連軍」により、第二次大戦中に米軍が投下した全爆弾の量を上回る猛烈な爆撃を受け、人口の20%~30%が殺され、灌漑設備等も破壊され尽くしたと言われています。

 ポンギさんは、熱心に通いつめる川田文子さんに、「ほだされる」ことはなかったようです。ポンギさんは、沖縄が日本に「復帰」した後、沖縄県からの福祉予算を使っての支援の申し出を頑として拒絶し、在沖同胞からの援助だけで、考えうるかぎりの質素な暮らしを続けたと「赤瓦の家」に記されています。そのポンギさんは亡くなる少しまえ、朝鮮半島の地図を撫で、泣きながら、「祖国が再び一つになるまで、私は帰らない」と、訪れた支援の同胞の方たちに語ったそうです。

魂は雨になって降り風となって吹く
 
沖縄 韓国人慰霊塔

【韓国人慰霊の塔碑文】
1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国人青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に 配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰り得ざる魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。
この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓国民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。

願わくば安らかに眠られよ。 1975年8月 韓国人慰霊の塔建立委員会


 2012年に沖縄・摩文仁の丘で、他の碑文群と離れて立つこの碑文を読みました。この碑文の、「波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。」というところに衝撃を受けました。そう、祖国に「帰り得ざる」というところにも。私は、見えない冷たい手、見えない冷たい涙に打たれているような気がしながら、ハングル、日本語、英語で書いてある碑面に見入りました。日本人は、朝鮮半島の人々に赦されることはないのだと思い知ったのです。誰も死者に代わることはできないのですから。

 「祖国に帰り得ざる」と書かれている碑文の語る「多くの韓国人青年」が、沖縄の地で犠牲になったとき、彼の地は南北に分かれていたわけではありません。碑は「韓国人慰霊の碑」ですが、碑文を書いた人が、「祖国に帰り得ざる」人々と記したのは、ぺ・ポンギさんが語っていたように、「祖国が再び一つになるまで」との思いを込めてのことだったかもっしれません。

 分断された民族、悲劇の民族という言葉がありますが、朝鮮民族は、その言葉が世界でもっとも当てはまる民族の一つだと私は思います。
 今の朝鮮民族の分断に、いちばんの責任が、秀吉に始まる、日本の支配層にあることは明らかです。アメリカはそれにいわば、便乗し、利用したにすぎないと言えば「すぎない」のです。

自分には罪がないと思う者は石を投げなさい
 私は、新約聖書の中のこのエピソードが好きです。「従軍慰安婦」問題は、日本の「支配層」「お上」だけの責任、問題だとは思いません。日本人である私たちにはみな、「応分の責任」がある、と思っています。
 せめて、日本が二度と、分断に加担しないように、南北朝鮮が争わされることのないようにとばかり、願っています。

こばやし・はるよ
岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

小林はるよさんの過去の投稿
私にとっての中国 日本にとっての中国
終戦記念日に寄せて―被害者であるまえに加害者だった

※本文中の写真はブログ運営者が2011年5月撮影したものです。

Wednesday, January 10, 2018

ロヒンギャ問題:南アジアの多数派優位主義の歴史 Murderous Majorities by Mukul Kesavan, New York Review of Books

 ロヒンギャ問題をミャンマー人が語るとき、ロヒンギャへの頑なな憎悪に驚かされることがある。この背後には、仏教徒多数派が長年にわたって国民の間に醸成してきた多数派優位主義的感情がある。
 多数派優位主義の中では、多数派の政治的基盤を固めるために少数派の迫害を利用する。大虐殺が起きるたびに、多数派優位主義の政党が勢力を伸ばしていく。このような動きがミャンマーだけでなく南アジアの各国で繰り返し起きてきたことは、歴史をひもとけば明らかだ。
 ガンジーが夢見ていた「一つのインド」は実現せず、パキスタンとインドに分割されて独立したこと自体が、少数派になりたくないというイスラム教徒の望みから出たことだった。インドは独立後しばらく多数派優位主義に抵抗していたが、1983年のアッサム州ネリーのイスラム教徒虐殺事件以後くりかえし起きる大虐殺をきっかけに、多数派優位主義へと突き進んできた。今ではほとんど全ての南アジア諸国が宗教的多数派優位主義の政治体制になってしまった。
 ミャンマーは仏教徒が多数を占めたが、その中に英領インド時代から何世代も住んでいるイスラム教徒を抱えている。イスラム教徒であるロヒンギャを国民と認めないことで選挙権を剥奪し、議会にイスラム教徒が一人もいない状態を実現したのは、皮肉にも民主化プロセスの中で起きたことだった。
 今もロヒンギャの脱出は止まらず、バングラデシュ領内に難民となったロヒンギャの行き先が見つかったわけでもない。だが世界の人々がロヒンギャ問題を忘れ、ロヒンギャ問題の報道が沈静化すれば、ミャンマーの多数派優位主義者は我が意を得たりと勢いづくことになる。その意味でも、この問題に関心を向け続ける必要がある。
 ふり返って日本を見れば、安倍政権が振りまく排外主義的言動とポピュリズムが、南アジアの多数派優位主義と重なって見える。これは全世界的現象なのだろうか、あるいは国民国家というシステムが抱える根本的な問題なのだろうか。

 定評ある書評誌ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス2018年1月 18日号掲載に掲載された歴史家ムクール・ケサバンの書評『Murderous Majorities』を翻訳して紹介する。
 ムクール・ケサバンはニューデリーの大学ジャーミア・ミリア・イスラーミアで植民地時代のインド史を教えている。

原文はこちら。
(注:翻訳はアップ後微修正することがあります。)
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多数派が殺意を抱くとき


ムクール・ケサバン


『ロヒンギャ、ミャンマー大虐殺の内幕』
アジム・イブラヒム著、ムハマド・ユヌス序文
ハースト刊、改訂新版、239ページ、£12.99 (ペーパーバック)

『ミャンマーにおけるイスラム教と国家:イスラム教徒・仏教徒間関係と帰属の政治』
メリッサ・クラウチ編
オックスフォード大学出版局刊、345ページ、$55.00


 ロヒンギャはイスラム教徒のコミュニティーで、その居住地はミャンマー西部ラカイン州の北部に集中している。ラカイン州にはイスラム教徒が何千年にもわたり暮らしてきたが、その人口は植民地時代に英領インド、特にベンガル地方からの移住によって著しく増えた。最近バングラデシュへの集団強制移住が起きる前は、ミャンマー国内のロヒンギャ人口は百万人を少し上回ると推計されていたが、この数字は論争の的になっている。政府はロヒンギャを正当な呼び名と認めたくなかったので、最新の国勢調査にはロヒンギャが含まれていなかった。ミャンマーの軍部指導者が1978年と1990年代初頭、2012年に実施した「一掃作戦」のとき近隣のバングラデシュに逃げ込んだロヒンギャ難民を含めると、総人口はもっと多くなりそうだ。

 ラカイン州とミャンマー全土には他にもイスラム教徒のコミュニティーがあるが、唯一暴力的差別の的にされてきたロヒンギャとは、文化的・民族的に異なる。ロヒンギャの方言ははっきり異なり、民族的に「よそ者」だ。ラカイン州北部に集まって住んでいることが組み合わさると、ミャンマー指導者の目に映るロヒンギャは、同化不可能で、仏教国を自認するこの国の統合に対する脅威だ。

 2017年8月の末に、ロヒンギャ過激派がラカイン州北部でナイフと手製爆弾を使って警察署を襲った。12人の治安部隊員が殺された。ミャンマー軍はロヒンギャの村々への焼き討ちで報復し、民間人の殺害とレイプを行い、50万人以上のロヒンギャを、バングラデシュに逃げざるを得ない状況へ追い込んだ。

 この民族浄化の規模こそが、南アジアにおける多数派優位主義政治の、最も高らかな勝利を表している。ロヒンギャの迫害のおかげで、ミャンマーは近隣諸国の多数派優位主義政党にとって、お手本ともいえる存在になった。ヒンドゥー教国家主義のインド人民党(BJP)が率いるインド政府は8月中旬、インド国内にいる4万人のロヒンギャ(以前の集団脱出による難民)は不法移民だから強制送還すると発表した。9月初めに、ミャンマー軍による「一掃作戦」の凶暴性が知られるようになり集団脱出の規模が明らかになった後でさえ、ナレンドラ・モディ政権では誰一人として声を上げず、一国の政府がしばしば蔓延する人間の苦悩を認めるために使う形式的な憂慮の表明さえ行われなかった。

 多数派優位主義(国家の政治的運命は宗教的あるいは民族的な多数派が決定すべきだという主張)は、南アジアの国民国家と同じくらい古くからあり、脱植民地化の原罪だ。植民地独立後の南アジア諸国は、程度の差はあれ大筋では多元的で非宗教的な国家という理想を掲げて出発したが、独立から約10年を経て、軍部指導者に権力を奪われるか、多数派優位主義政治家によって宗教国家に変貌した。

 パキスタンはイスラム教徒が多数派の国を作るため英領インドから切り出された。建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナーは時に非宗教的国家の考えを支持するかと見えたものの、1947年インド分割(インド・パキスタン分離独立)の時の大量虐殺ともいえる暴力の結果、同国から非イスラム教徒の少数派を事実上排除してしまった。短命に終わった1956年憲法で、パキスタンは自国を正式にイスラム共和国と定義し、以後60年以上にわたって続いている。

 スリランカ(当時のセイロン)は、1948年に非宗教的国家として建国されたが、1956年までにシンハラ人仏教徒の政治家が押し切る形で仏教共和国と再定義され、仏教徒多数派の言語であるシンハラ語を唯一の国語に定めた。この多数派優位主義の動きは、同国の北部と東部に集中する相当数の非仏教徒少数派であるタミル語の話者を隅に追いやることを狙ったものだった。パキスタンから1971年に独立を勝ち取ったバングラデシュは、ベンガル語を話す非宗教的な国として建国されたが、1975年のクーデターの後、軍事政権がイスラム共和国へと変えてしまった。(最高裁判所が2010年に世俗主義を回復したが、イスラム教はバングラデシュの公式宗教のまま残った。)

 ミャンマーを第二次世界大戦後にイギリスから独立させ1947年に暗殺されたアウンサン将軍は、非宗教的な共和国を思い描いていた。しかしミャンマーを独立国家として確立した1948年の憲法は、ほとんどの少数民族に完全な市民権を与えたものの、ロヒンギャには与えなかった。1950年代を通じて、ウー・ヌ初代首相の政府はロヒンギャコミュニティーの存在を認め、ロヒンギャに市民権を与える見通しを示した。1961年の国勢調査では「ロヒンギャ」を一つの人口分類として認めさえした。ミャンマーの明確な仏教国への変貌は1962年に始まり、軍事政権がクーデターで権力を掌握し、仏教国家主義のイデオロギーを押し付けた。この動きが頂点に達した1982年の市民権法は、ロヒンギャが完全な市民権を得ることを公式に否定した。

 皮肉にも、それは2012年から2017年の民政移行期間に起きた。そのとき同国は民族浄化を通して、また民主的手続きと制度から公式にロヒンギャとイスラム教徒全般を排除することによって、純粋に多数派優位主義の政治形態となった。2012年の暴力は(2017年の民族浄化の前兆だったが)、12万人のロヒンギャをラカイン州北部の街から追放し国内強制移住者のキャンプに閉じ込める結果となった。2014年の国勢調査は「外国人」少数派を排除するように作られたもので、ラカイン州の人口のほぼ3分の1がカウントされなかった。これはロヒンギャがベンガル人イスラム教徒と名乗ることを拒否したためで、もしそれを認めてしまうと、ロヒンギャは外国人であって国民ではないという主張に信用を与えかねないと考えられた。この国勢調査は、2015年に行われる同国初の民主的選挙のための新しい選挙人名簿の作成に使われたが、実質的にロヒンギャから選挙権を剥奪し、結果として独立後初めてミャンマー連邦議会からイスラム教徒が完全に消えた。

 政府はその年、ロヒンギャに保健・教育サービスの権利を与えていた登録カードを没収した。このカードは近年まで選挙権の証でもあったが、選挙権は政権が気まぐれで与えたものだった。またこのカードはロヒンギャが持つ身元や居住を示す唯一の公式書類だった。これらの行政処分により、ラカイン州とミャンマー全体で仏教徒が首尾良く支配権を握った。

 選挙プロセスと連邦議会の両方から重要な少数派が消えるということは、南アジアの多数派優位主義者の積年の果たせぬ夢である全面勝利と同然のものだ。ミャンマー選挙の1年前の2014年に、ナレンドラ・モディがBJPを率いてインド総選挙で絶対多数を取った。モディの多数獲得は、BJPから一人もイスラム教徒の連邦議会議員を出さなかったという点で歴史的だった。だが他党から23人のイスラム教徒がインド連邦議会の下院であるローク・サバー(Lok Sabha)に選出されているので、ミャンマーの議会に一人もイスラム教徒がいないというのは多数派優位主義にとってさらに徹底した勝利だった。インドの右派ヒンドゥー教国家主義政党がイスラム教徒から距離を置くのは驚くことでもないが、ミャンマーでイスラム教徒の候補を一人も立てなかったのは、アウンサンスーチーの党であるリベラル野党の国民民主連盟(NLD)だった。

 NLDがイスラム教徒の候補を排除したのには戦略的な理由があったかもしれない。過激主義者の僧侶が扇動した反ロヒンギャ感情に便乗し、民主制への微妙な移行期間では軍の偏見に従ってラカイン州の仏教徒多数派との敵対を避けるため。あるいはNLD党員の偏見のためだ。その結果、既に立場を脅かされている少数派は政治的に疎外された。イスラム教徒を連邦議会から排除し60万人のロヒンギャを乱暴に追放したミャンマーは2017年、宗教的多数派による政治的支配の達成を確実なものにした。

 アジム・イブラヒム著『ロヒンギャ、ミャンマー大虐殺の内幕』はラカイン州で起きている悲劇の客観的な歴史を装ったりしない。これは党派心に基づいた本で、読者に訴えているのは悲劇の歴史理解ではなく、その緊急性と洞察だ。長く待たれていた選挙の直後、2015年に完成したこの本は、民主制への移行により、悲劇的にもロヒンギャはさらに排斥された弱い立場に置かれ、NLDと軍が迫害を止めようと動かない限り、追放の可能性がこれまで以上に高まったと警告する。2017年9月の暴力の後で書かれた改訂版ペーパーバックの終章で、イブラヒムはこの予測の正当性の証拠を検討し、「不安定な状況がコミュニティー全体の民族浄化へとエスカレートするのを我々は見ているのだ」と主張する。彼の洞察、特に2015年の民主制移行を扱った部分はこの本を薦めるに十分な理由だ。

 多数派優位主義は別種の市民権を強く主張する。多数派の宗教と文化を持つ者を真のミャンマー国民とみなす。その他は厚意による国民、つまり多数派のゲストであって、礼儀正しく敬意を持って振る舞うことを期待される。あくまで多数派の計らいによって許容されているのであって、近代民主制での完全な市民権に代わるものではない。中ぶらりんの状態で、慢性的に不安定な状態だ。少数派の完全な市民権を否定するような政治形態は、遅かれ早かれ、少数派の政治的権利を奪う。また居住者であっても全く国民とはいえず、実際は別の地域(インド、パキスタン、タミル・ナードゥ州、あるいはロヒンギャの場合バングラデシュ)に属しているという理由で追放する。ミャンマーには3種類の市民権がある。国民、準国民、そして帰化国民だ。ロヒンギャは外国人に分類される。

 1980年代に至るまで多数派優位主義の誘惑に公式に抵抗していた南アジア唯一の国はインドだった。1950年に立憲制共和国として建国され、世界第3位のイスラム教人口を抱える同国は、相当数のイスラム教徒少数派を、完全で対等な国民として扱った。80%がヒンドゥー教にもかかわらず、インドの宗教的少数派はヒンドゥー教文化への同化を求められているというような感覚は、公式にはなかった。この同化を要求した政党は、モディ首相のBJPの政治的祖先にあたるインド大衆連盟(Bharatiya Jana Sangh)のような弱小地域政党だけだった。共和国の建国から25年の間、ジャワハルラール・ネルーと、続いて娘のインディラ・ガンディーの指導の下、インドは憲法の上では非宗教的国家に留まった。

 1970年代末から1980年代初頭に、非常事態を受けて政治的バランスが変化し、インディラ・ガンディーは1975年から1977年まで独裁的統治を試みた。だが新たな政治を形作った要因には大虐殺もあった。1983年に、ベンガル人を祖先に持つ2千人のイスラム教徒が、アッサム州ネリーの街でわずか数時間のうちに虐殺された。(非公式推計は死者数を1万人以上としている。)虐殺を実行した土着のアッサム人はイスラム教徒をバングラデシュからの不法移住者と考え、その名前が選挙人名簿に載っていることを問題にした。当時比較的新しい国家だったバングラデシュは、同情を示さない隣国民から人口輸出をする国と見なされ、こうした移民はベンガル語を話すイスラム教徒のことが多かったので、外見も言葉も「よそ者」として目立った。

 1983年のアッサム大虐殺はインド政治の転機となった。反イスラム教運動をエスカレートさせて大虐殺を起こした学生組織が政党を結成し、次の地方選挙で易々と勝利を収めた。この事件が示したことは、不法移民が深刻な問題であること、ベンガル人イスラム教徒が政治的なスケープゴートにされたこと、そして最も重要なのは、大虐殺が政治的な利益になりうるということだ。

 1984年に、インディラ・ガンディーが2人のシク教徒の警護警官に暗殺された結果、デリーその他の場所で組織的なシク教徒殺しが起きた。彼女の息子ラジーヴ・ガンディーは、この大虐殺後の選挙で大勝し、ネリーの虐殺の教訓が、今度は国家レベルでより強固なものになった。ボンベイ(1992年〜1993年)とグジャラート州(2002年)で続いて起こったイスラム教徒の大虐殺の後には、シヴ・セーナー(Shiv Sena)やBJPのような暴力に加担する政党が選挙で勝利を収めた。公式には少数派の権利剥奪はなかったが、インドの多数派優位主義政党は少数派に対する暴力を煽れば選挙で票が集まることを学んだ。

 多数派優位主義の暴力は南アジア全域で権力への近道となった。ミャンマー、パキスタン、バングラデシュでは、権力基盤の不安定な軍部指導者が国家を宗教的多数派に寄り添わせることで正当性を得ようとし、インドとスリランカでは侵略的な少数派によって国家が転覆されつつあるという考えを広めた先住民優位主義の政党が選挙に勝利した。20世紀の終わりまでに、多数派優位主義政党は全ての南アジア諸国で政権の座に着くか野党第一党になっていた。

 ミャンマーのイスラム教徒と政府の関係を取り上げた論文集『ミャンマーにおけるイスラム教と国家』にベンジャミン・ションサルが寄稿した小論で、ミャンマーにおける仏教徒の多数派優位主義がスリランカにおけるシンハラ人の先住民優位主義とどれほど似ているかを例証し、最近行われたある会合のことを指摘する。それはスリランカのボドゥ・バラ・セーナ(Bodu Bala Sena:仏教の力の軍)と、反イスラムを明言するミャンマー僧が率いる969運動の間で持たれたものだ。969運動で最もイスラム嫌いの説教者として知られるアシン・ウィラトゥ(Ashin Wirathu)が2014年の末にコロンボを訪れ、ボドゥ・バラ・セーナと969運動の相互理解に関する覚え書きに署名した。両国の国民は「より広い地域的な枠組みの中で自分たちの行動を見はじめている」ことをションサルは示す。

 論文集の別の小論でニーニー・チョー(Nyi Nyi Kyaw)は、969運動の政治運動と、インドの民族義勇団(Rashtriya Swayamsevak Sangh)やBJPのようなヒンドゥー狂信的愛国主義者組織の政治運動とを比較した。高いとされている男性イスラム教徒の生殖能力と、一夫多妻の風習は、ミャンマー仏教徒の将来にとって脅威と見なされる。ここでの主張は、イスラム教徒の男性が「愛のジハード(聖戦)」を仕掛けているというものだ。イスラム教徒の男性が仏教徒の女性を誘惑するのは「生殖戦術のためだ。やつらはたくさん子どもを作り、雪だるま式に殖える」と、969運動の僧アシン・ウィマラール・ビウンタ(Ashin Wimalar Biwuntha)が非難したことを、チョーは指摘する。

 「愛のジハード」や「ロメオのジハード」という言葉は、ヒンドゥー教の頑迷さを示す語彙から直接取ってきたものだ。BJPとその党員は「愛のジハード」を実践するいわゆる侵略的イスラム教徒との戦いに全力で取り組み、街角の自警団が「反ロメオ隊」を組織している。インドで最も人口の多いウッタル・プラデーシュ州の首相は、ヨギ・アデッテナート(Yogi Adityanath)というヒンドゥー教の僧で、ヒンドゥー教青年軍(Hindu Yuva Vahini)という私的な民兵組織を何年にもわたって養い、この実体のない敵に対する戦いを続けている。じっさい、彼が2016年に州首相に選出された最大の理由は、「ヒンドゥー教のストリートギャング」をイスラム教徒に立ち向かわせる彼の能力に実績があったからだった。

 急速に繁殖し布教活動を行うイスラム教徒による人口絶滅という想像上の脅威は、インド、スリランカ、ミャンマーで多数派優位主義を動員するために中心的なものだ。インドのいくつかの州では改宗を厳しく規制する法律を可決した。その暗黙の目的はイスラム教やキリスト教への改宗を防ぐことだが、一方でヒンドゥー教への改宗は復帰と見なされ、ガル・ワプシ(ghar wapsi)つまり「帰郷」と呼ばれる。ヒンドゥー教の多数派優位主義の話法では、イスラム教徒とキリスト教徒は全てヒンドゥー教徒を祖先に持つということになる。

 ミャンマーは、少数民族を乱暴に追放し、残留する者の権利を剥奪し、仏教徒の狂信的愛国主義者の偏見を法律にしてしまう能力において、南アジアにおける多数派優位主義の先導者であり続けている。ビルマ語名称の頭文字を取って「マ・バ・タ」と呼ばれる人種宗教信条保護機構は、人種宗教保護法と総称されていた法案を可決させる運動として2013年に始まった。2年あまりの間にこれらの法案は議会で承認され大統領の署名を受けて法律となった。

 一夫一婦制、避妊、改宗、異宗教間結婚(イスラム教徒が暗黙の標的)に関するあらゆる法律の中で、目に余るほど甚だしく差別的なのは「ミャンマー仏教徒女性の特別結婚法」だ。20歳未満の仏教徒の女性は非仏教徒と結婚する際に親の同意が必要となる。地域の戸籍係には結婚申請書を掲示する権限が与えられる。誰からも異議申立がなかった場合に限り二人は結婚できるが、全ての国民は異議を唱えることができ、その結果として法廷で異議申立を受けなければならない。離婚の場合は、女性が自動的に子を引き取ることになる。この法律の目的は、仏教徒女性と非仏教徒男性の結婚をできる限り難しくすることだ。ミャンマー政府が宗教の擁護者として傑出することができたのは、宗教に基づいて自国の多数派に有利なように法的に差別したからだということに、南アジアの全ての国々の僧、聖職者、多数派優位主義者たちは気付くことだろう。

 南アジアでの多数派優位主義はイスラム教徒を標的にするとは限らない。反抗的な少数派全般を罰する必要から引き起こされるのでもない。多数派優位主義政治の原因は、丹念に構築された多数派の自己イメージだ。自分たちは敵に虐げられ包囲されていて、長く苦しみを受けてきたので、これ以上黙って苦しむのは拒否すると強く信じているのだ。この被害感覚の醸成は、必ず続いて起きるリンチ、大虐殺、民族浄化の必要前提条件だ。

 多数派優位主義は機会均等を頑迷に主張する。スリランカでは、タミル・タイガー(タミル・イーラム解放のトラ)が敗北し、タミル人の故郷を作るという目標は最終的に破棄されたが、ほとんど急進的先住民優位主義者を落ち着かせる役には立たなかった。シンハラ・ラバヤ(Sinhala Ravaya:シンハラ国家の咆哮)や、ラバナ・バラヤ(Ravana Balaya:ラバナの力、スリランカを支配したと信じられている伝説の王を指す)、ボドゥ・バラ・セーナにとっては、タミル人に代わってイスラム教徒が、シンハラ人仏教徒国家としてのスリランカの統合を脅かす存在となった。イスラム教徒のコミュニティーは内戦で孤児となった。イスラム教徒はタミル語を話すので長年にわたってスリランカ国家から不信感を抱かれてきたが、タミル・タイガー支配地域からもタミル人らしさが足りないので追い出された。現在、新たなイスラム教徒の脅威は、人口、金融(通商と産業を支配していると思われているので)、多国籍の問題と見られている。なぜなら一地域のイスラム教徒は、仏教徒世界をイスラム化するもっと広域の共謀の一部として見られるからだと、ションサルは書く。だが、スリランカの多数派優位主義者はイスラム教徒だけを叩くとは限らない。国民遺産党(Jathika Hela Urumaya)が長らく行ってきた、仏教以外への改宗に厳しい制限を課す法案を推進する運動は、キリスト教伝道者に対する嫌悪によって拍車がかかった。

 ほぼ全人口がイスラム教徒(97%)のパキスタンでさえ、少数宗派のイスラム教徒を標的にした。1974年から同国は15年にわたるイスラム化のプロセスを開始し、アフマディ派の信者を非イスラム教徒と断定し、「神への冒とく法」を可決して少数派を迫害するため日常的に使うようになり、シーア派に対し恐ろしい暴力行為を進んで働くスンニ派原理主義組織をひいきにした。イスラム教徒が多数を占めるもうひとつの国バングラデシュでは、ヒンドゥー教徒の人口が減少してきた。シェイク・ハシナ首相の下でバングラデシュ国家はより世俗的になったが、ヒンドゥー教徒、少数民族、無神論者にとっては依然として危険だ。

 最近のミャンマーからのロヒンギャ追放は非難の嵐を巻き起こしたが、これに対してアウンサンスーチー国家顧問やミャンマーの広報官からだけでなく、歴史家、政策専門家、外国人外交官からも弁護の回答が出された。もしこのミャンマーの政策を擁護する主張によって、平時では最大(1990年代半ばに2百万のルワンダ人が国を追われて以来)の強制集団脱出を正常なものと言いくるめることができれば、南アジア全域の少数派はこれまで以上に迫害に弱い立場に置かれることになる。

 ラカイン州での暴力に対するインドの最初の反応は、大虐殺を暗に是認するものだった。インド首相がミャンマーを公式訪問中の9月6日に発表された共同声明によると、「先日ラカイン州北部でのテロ攻撃が発生し、ミャンマー治安部隊員が何人も命を落としたが、インドはこれを非難した。テロリズムは人権を侵害すること、したがってテロリストを殉教者として賛美するべきではないことを、両国で合意した。」共同声明はロヒンギャ難民の集団脱出について一言も触れなかった。ニューデリーでの会議で発言したインドの外務長官は、ミャンマーを批判しないように注意深く言葉を選んだ。

 「多数の人々がラカイン州から集団脱出しているという事実は、明らかに憂慮すべきものです。我々の目標はどうすれば彼らが元いた場所へ戻れるかを見守ることです。簡単ではありません。この状況の解決は、ただ非常に激しく糾弾するのではなく、現実的な対策と建設的な議論を通して行うほうが良いと、我々は感じています。」

 ミャンマー政府とアウンサンスーチーに対する主に西洋諸国からの激しい糾弾は、過剰で、過度に単純化しすぎで、重要なことを分かっていないと批判されてきた。多数派優位主義者の主張では、仏教徒はこれまで西洋諸国の人権団体に巧みに陳情することができなかったので、ロヒンギャの被害者意識に基づく物語はラカイン州仏教徒の心の傷を覆い隠すものだということになる。この主張では、植民地解放の時からラカイン州北部にイスラム教徒の独立自治区を作るよう求めている武装ロヒンギャの活動が強調される。ラカイン州でのイスラム教徒コミュニティーはイギリスが19世紀初頭にビルマを併合した後で大幅に拡大し、ベンガル地方からこの地域への移民の流入を許したという事実が強調される。もし外国人が対立する民族国家主義者の犠牲となったこれら二つのコミュニティーをもっと公平に扱おうとするのなら、ベンガル人イスラム教徒の侵入を受けたラカイン州仏教徒の恨みを、もっと長い歴史の中に位置づける必要があると主張する。

 この立場の問題点は、歴史的な因果応報に公平性などあり得ないことだ。イスラム教徒の残忍な扱いを支持する主張の意味を理解するには、ビルマ人仏教徒のいう土着民と外来者の区別を市民権と帰属の根拠として受け入れるしかない。ロヒンギャが民族として認めて欲しいと要求する理由は、ミャンマーで完全な市民権を得るには、「タインギンタ」(taingyintha:国家人種)のどれかに属していることが必要だからだ。ラカイン州のイスラム教徒をタインギンタから除外し、何世代にもわたり居住しているにもかかわらずタインギンタからの除外にもとづいて市民権を否定する政府の政策は、堂々巡りという点でカフカの小説のように不条理だ。オーストラリアの学者ニック・チーズマンはタインギンタについての記事の中で、「究極的にはミャンマーの問題は『ロヒンギャ問題』ではなく『タインギンタ問題』で…、タインギンタという概念そのものが問題なのだ」と指摘する。

 この最近の残虐行為を報じるニュースのほとぼりが冷めたなら、ミャンマー政府はラカイン州に存在するロヒンギャを減らす計画が実績を上げていると信じる理由ができるだろう。スリランカの仏教徒はブミプットラ(bhumiputra:大地の息子)で非仏教徒はムレッチャ(mlecchas:劣等外国人)だと信じる同国の先住民優位主義者は勢いづくだろう。過去にバングラデシュの不法移民が暴力のきっかけとなったアッサム州のBJP政府は、民族浄化を少なくとも「大地の息子」が行う場合は、加害者がどこまでやっていいかについて、新たな教訓を学ぶだろう。

 最近の暴力について声を上げている反対運動の多くは、ヨーロッパ諸国、外国の人権団体、国連機関から発したものだという事実は、ミャンマー政府とその擁護者を増長させ、何も知らない部外者やプロの「悲しみ屋」の仕業だとして無視している。だがこの殺意ある追放は、西洋諸国と非西洋諸国の間の紛争ではない。ロヒンギャの民族浄化は、南アジアでの多数派優位国家主義の長い歴史の中で、特に悪意のある事件だ。その歴史を認識し、その遺産に異議を唱えなければ、さらに多くの悲劇が待ち構えている。

2017年12月20日

(本文終わり)
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関連投稿
ミャンマー:でっち上げられたロヒンギャ過激派(2017年10月7日)


Saturday, January 06, 2018

新年に向けて New Year Prospects

新年の挨拶を申し上げます。A Happy New Year, with the beautiful sunset at Lvshun Port which I captured on December 18, during the study tour to China (Shanghai, Nanjing, Dalian, and Lvshun). Please note the upcoming publication of the second edition of Resistant Islands: Okinawa Confronts Japan and the United States, 2nd Edition, Rowman and Littlefield, co-authored with Gavan McCormack. Below is the list of my upcoming publications in Japanese. I will continue to publish, edit, and translate articles for the Asia-Pacific Journal: Japan Focus.

昨年12月18日に白玉山から撮影した、美しい旅順港の夕日とともに。今年は年末に参加した上海・南京・大連・旅順の旅をもとにした記事を『週刊金曜日』から出す仕事でスタートです。



昨年は『琉球新報』『沖縄タイムス』や『週刊金曜日』などの媒体での日本語による記事執筆に加え、英語では

筆者としては
The Emperor’s Army and Japan’s Discrimination against Okinawa
(「天皇の軍隊と沖縄差別」)
What We’re Forgetting in March to War with North Korea
(「北朝鮮との戦争への行進の中で忘れているもの」)
訳者としては
Two Faces of the Hate Korean Campaign in Japan
(「日本のコリアン・ヘイトの2つの顔」)

などを発表いたしました。今年春に、ガバン・マコーマックと共著した
Resistant Islands: Okinawa Confronts Japan and the United States
(抵抗する島々:日本と米国に立ち向かう沖縄)
の第二版が米国の出版社 Rowman and Littlefield 社から出ます。

Asia-Pacific Journal: Japan Focus (『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』)ではエディターとして、いろいろな記事に関わっております。英語でアジア太平洋の政治・社会・歴史・文化の諸問題をクリティカルに分析し発信する媒体です。

また、琉球新報で3年間連載した『正義への責任 世界から沖縄へ』がオリジナルコンテンツを加え一冊の本として東京の出版社から出る予定です。なお、琉球新報社からの同題の冊子は①から③まで好評発売中です。ここからセットで買えます

三一書房から1月末発刊の前田朗・木村朗編『ヘイトクライムと植民地主義』のうちの一章『自らの植民地主義に向き合うこと―カナダから、沖縄へ』を書いております。この本の出版記念シンポが東京で2月25日に開催されます(私はカナダにいるため行けません)。

琉球新報では昨年5月から、不定期で「乗松聡子の眼」というコラムを連載しております。これは紙版のみでネットにはありません。

他に、スタディーツアー、シンポジウム等を行う予定です。

今年もよろしくお願いいたします。Hope all will have a great 2018!

乗松聡子 Satoko Oka Norimatsu
ピース・フィロソフィー・センター代表 Director, Peace Philosophy Centre
アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』エディター Editor, Asia-Pacific Journal: Japan Focus
バンクーバー9条の会ディレクター Director, Vancouver Save Article 9

プロフィール、CVは See my bio at: ここ
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