最近、沖縄で平和ガイドをなさっている沖本裕司さんとメールを通じて知り合いました。沖本さんは、「南京と沖縄を結ぶ会」の事務局長で、さる10月16日、南京で日本語通訳ガイドをつとめるTさんの講演会を行ったとのこと。その報告レポートをここに紹介します。
|
10月16日、宜野湾セミナーハウスで講演するTさん |
中国・南京のTさん、初めての沖縄訪問
戦跡と基地をめぐり、南京事件の講演会も
2019.10.20 沖本裕司
10月15~18日の日程で、中国・南京市の日本語通訳ガイド、Tさんが沖縄を訪れ、沖縄の戦争と基地の現場をめぐった。ひめゆりの塔と資料館、魂魄の塔、平和の礎、八重瀬岳の第1野戦病院壕跡、那覇市泊の外人墓地、県立博物館屋外展示場、嘉数高台、佐喜真美術館、嘉手納道の駅、チビチリガマ、恨之碑、金城実さんのアトリエ、辺野古浜テント、ゲート前、八重岳野戦病院跡、三中学徒の碑、愛楽園、首里城、豊見城海軍壕を4日間かけて見て回った。
辺野古ゲート前の座り込みと機動隊との攻防を真剣な表情で見つめたTさんは、帰国後、「テント村と座り込みの皆さんの不屈な闘争に心を打たれました。改めて敬意を表したいと思います」とのメッセージを寄せた。
また16日夕には、宜野湾セミナーハウスで「一南京市民が見る‘南京事件’」と題して講演会を開き、‘南京事件’について詳しく語った。会場となった宜野湾セミナーの2階会堂に集まった30人近くの市民を前にして、どうして‘南京事件’が起こったのか、その背景、経過、犠牲の実態などについて話した。語り口は力強く、かつ明瞭にして具体的。大げさな言葉や態度は一切なく、豊富な研究と知識に裏付けられた説明だった。
Tさんの日本語はほとんど独学だという。小学5年生の時、文化大革命が勃発し学校が閉鎖。3年後学校が再開され、5年のまま小学校卒業とみなされ中学に進んだが、しばらくすると、農村への「下放」により南京を離れた。そこで8年間。南京に戻ってくることができた時、すでに20代の半ばだったTさんは日本語で身を立てることを決心し、兄から譲ってもらった日本語の教科書の勉強に取り組んでいったという。握手したとき分かった大きくて固い手は、中国現代史の荒波を生き抜いた独立心と向学心の象徴と思えた。
進行役は名桜大教員の稲垣絹代さん。稲垣さんはTさんとの出会いと縁について話した。それによると、南京国際交流公司の日本担当だったTさんが受け入れ窓口となって、南京はじめ中国全土の日本軍侵略の戦跡を回り中国の人々と交流を重ねるツアーの案内ガイドを務めたとのことだ。Tさんは30年にわたって日本語通訳ガイドとして活躍してきたという。
Tさんはまず「沖縄は歴史的、文化的に中国とのつながりの強い島だと思う」と切り出し、自己紹介したあと、「私は研究者でも学者でもないが、これまで通訳ガイドとして重ねてきた勉強と経験をお話ししたい」と述べて本題に入った。
南京の通訳ガイド・Tさんの話(要旨)
「日本軍の南京占領に伴う捕虜、非戦闘員、一般市民、女性に対する虐殺、放火、強姦、略奪など、日本ではいわゆる‘南京事件’と言われている事柄は、中国では南京大屠殺と言っている。この場では‘南京事件’とよんで話を進めていきたい。南京事件とは、1937年、昭和12年12月13日から6週間にわたる日本軍による非戦闘員の虐殺をいう。
南京事件の前に何があったのか。日中戦争だ。1931年に始まった「満州事件」は1937年に7月の北京、8月の上海と続き、12月の南京に至った。南京は当時の中国国民政府の首都だ。日本政府は当初、南京に手を出す考えを持っていなかった。ところが、上海占領した現地部隊は大本営の命令を無視して独走し戦線を拡大した。大本営は追認した。中支那方面軍の司令官は松井石根大将。兵站、すなわち後方支援なしで南京へ進撃した。その結果、現地調達の略奪、強奪が繰り返され、いわゆる三光作戦、奪い尽くし、殺し尽くし、焼き尽くすという事態が繰り広げられた。上海から南京に至る間にすでにかなりの被害が発生した。これら被害のまとまったデータはない。日本軍との戦争のあと、国共内戦が続き、史料が残されていないからだ。
南京は明の時代に造られた歴史のある城塞都市だ。南京と日本との結びつきも古い。南京豆、南京錠、南京カボチャなど、南京と名の付く日本の言葉も多い。琉球とのつながりもある。攻撃した日本軍は主に、京都の16師団、金沢の9師団、熊本の6師団。中国国民党軍は日本軍と戦った後に南京から撤退し、残ったのは50万人の非戦闘員と敗残兵だ。そして、当時の金陵女子大(現在の南京大)のある地域に難民区が設けられ、保護を求めて20万人が入った。
日本軍の入城式は12月17日に予定された。この入城式に向けて城が陥落した13日から集団的、個別的に「南京大掃除」が始まった。戦後、東京裁判と並行して南京裁判が進行した。犠牲者30万人が定説となっている。日本軍が何をしたか。東史郎という人がいる。彼が一兵士としてつけていた日記をもとにまとめたのが『わが南京プラトーン~一召集兵の体験した南京大虐殺』(青木書店、1987年)だ。
南京には多くの日本人が来訪する。日本人の認識は分かれている、30万人虐殺を認めない人も多い。虐殺そのものがなかったという人もいる。30万人の証明は無理なこと。しかし、その数が仮に10万にしても3万にしても大虐殺の事実に変わりがない。
生存する被害者の聞き取りを一刻も早く進めなければならない。被害者の人々は傷つき苦しんだ自らの体験を、日本からの訪問者に証言したあと、必ず‘来てくれてありがとう’と述べる。しかし、南京を訪問する日本人はほんの一部に過ぎない。多くの日本人は知らないし、南京を訪問しない。今日の会場に、ジョン・ラーベの日記『南京の真実』(講談社、1997年)など、たくさんの文献が参考資料として展示されているのを見て、みなさんの関心の高さに驚いた」
来年3月南京訪問、12月13日映画と学習会
質疑では、「当時8路軍は何をしていたか」「8年前南京の記念館に行ったことがある。制令線について聞きたい」「沖縄戦の第32軍の牛島司令官や長参謀長は中国からやってきた。慰安所を持ち込んだことでも有名だ」などの意見が出された。
南京の日本軍が沖縄戦の32軍の中心を担ったという事実に留まらず、沖縄戦と南京事件とは深く関連している。チビチリガマの惨劇に登場する中国大陸の従軍看護婦・知花幸子さんは、日本軍の残酷極まりない蛮行を見聞きした経験から、「米軍に捕まると男も女も恐ろしい目にあわされて殺される」と吹聴して、住民がガマから出て米軍に投降して生き延びる道を閉ざす役割を果たした。その結果、140人の読谷村波平区の避難住民のうち85人がガマの中で死んだ。大半が12才以下の子どもたちだった。
そのように、沖縄戦のさ中日本軍経験者の男女が各地にいて、米軍に対する敵意と恐怖心をあおったであろう。米軍に対する恐怖心を植え付ける「鬼畜米英」「ヒ―ジャーミーの赤鬼」という日本軍による教育と「生きて虜囚の辱めを受ける事勿れ」という戦陣訓による軍人・軍属・軍経験者の支配が沖縄戦の県民被害を増幅させた。
74~5年前の戦争で廃墟と化し未だ軍事基地の重圧下にある沖縄こそ、日本軍のホロコーストの被害を受けた南京とつながらなければならない。滞在中の意見交換を通じて、来年3月に沖縄から南京を訪問しよう、前段として12月13日に映画と学習会を持とう、ということが提起された。
アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』を読もう
Tさんの沖縄訪問に向けた準備として私は全力で文献を読んだ。日本軍が南京で何をしたのか。日本軍兵士の証言、中国人の証言、外国人の証言などすべてを総合すると、南京事件の全体像がある程度浮かび上がってきた。それは、「日本の中国侵略」と一言で表現するにはあまりにも残酷でおぞましい日本軍による虐殺・略奪・強姦・放火の数々だった。第一線軍部隊の非道悪行を容認し奨励する仕組みが、天皇の名を冠した軍隊の中にあるとしか言いようがない。
アイリス・チャンは在米3世のジャーナリストだ。中国から家族と共にアメリカに逃れた両親から南京大虐殺の話を聞いて育った。1997年に英語で出版し大反響を巻き起こした『ザ・レイプ・オブ・南京』(日本語版は同時代社、2007年)で、アイリス・チャンは無比の情熱をもって、南京事件の全貌を描き出すと共に、次のように指摘した。「南京大虐殺が、ユダヤ人のホロコーストや広島のような明白さで世界に意識されていないのは、被害者自身が沈黙していたからである」。
そして、アイリス・チャンは「忘れられたホロコースト」として、「戦後史がどのような経過を辿ったとしても、南京大虐殺は人間存在の名誉に染み付いた汚点だった。しかし、汚点を特に厭わしくしているものは、歴史がこの事件に対する適切な終焉を全く完遂していないことである。60年が過ぎても、国家としての日本は未だに南京の犠牲者たちを埋めようとしている。1937年のように土の下に埋めるのではなく、歴史の忘却の下に」と告発した。
日本人の当事者意識の希薄に支えられて、戦前の天皇制国家の延長上に国家権力を担う政治家・官僚の居直りが続いている。過去の誤った歴史を直視できないことは日本の不幸だ。まず、南京市民の立場からの包括的な研究書たるアイリス・チャンの著作から始めよう。日本の右翼言論のすさまじい攻撃を受けたことが原因の一つとなったのか、アイリス・チャンはうつ病をやみ36才の若さで自ら命を絶った。この本は彼女の遺作だ。翻訳者・巫召鴻の『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』(同時代社)と共に読むことをお勧めする。次に、日本人の南京訪問の中で生まれた著作として、早乙女勝元編で草の根出版社から出ている『ふたたび南京へ』など数冊。さらに、日本軍兵士の証言は、光文社と晩聲社の『三光』、機関紙出版の『天皇の軍隊』シリーズなど中国帰還者連絡会がいろいろな形で出したものや下里正樹『隠された聯隊史』(青木書店、1987年)、森山康平『証言記録三光作戦―南京虐殺から満州国崩壊まで』(新人物往来社、1975年)がある。当時南京に住んでいた外国人の証言は、ジョン・ラーベ以外にも、マギー牧師の日記『目撃者の南京事件』(三交社、1992年)やヴォートリンの日記『南京事件の日々』(大月書店、1999年)がある。
南京とのつながりを強めよう。市民レベルのみならず、行政レベルでも、現在日本で名古屋市のみにとどまる友好都市を結ぶ地方自治体を増やそう。南京へ行こう。
|
彫刻家の金城実さんのアトリエで、Tさんと金城さん。魯迅の彫刻をバックに。 |
<沖本裕司さんプローフィル>
1946年、大阪生まれ。住吉高校卒業。一橋大学中退。1970年、沖縄移住。現在、沖韓民衆連帯メンバー。韓国語通訳案内士。平和ガイド。島ぐるみ八重瀬の会事務局長。南京・沖縄をむすぶ会事務局長。
12月13日にはこのような催しをするそうです。
このブログでの関連投稿
上海、南京、大連、旅順の旅
http://peacephilosophy.blogspot.com/2018/01/my-report-of-historical-study-tour-to.html
ほか、南京大虐殺に関する
過去の投稿はここをクリックしてください。
琉球新報連載「乗松聡子の眼」では2017年年末に2回にわたり「南京と沖縄」のつながりについて書きました。
2017年12月4日 「戦争を記憶する年末 侵略と向き合う責任」
2017年12月31日「沖縄と南京 つながる大虐殺 アジア冒とくする『黎明の塔』」
これのマーク・イーリ氏による解説と英訳は『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』に掲載されました。
From Nanjing to Okinawa – Two Massacres, Two Commanders