This is peace journalist Yumiko Kikuno's report of the April 2nd talk by Kim Yeonghwan. See here for the English report. For Kim Yeonghwan's profile, see here (scroll down).
4月2日、日系センターに着くと、若々しい桜の花々にエスコートされるように、講演会場へと足を運びました。高知県にある平和資料館の事務局長をされ、東アジアの平和を育てるために数々の活動、研究、講演を精力的にこなされている韓国出身の金英丸(キム・ヨンファン)さんのお話は、平和活動に関わるときに、必ず抱えていた私の中のジレンマに希望の光を当ててくれました。
金さんは、1997年に北海道の朱鞠内というところで、遺骨の発掘作業を行うために始めて来日されました。その遺骨というのは、戦時中、強制連行され、ダムや鉄道建設のために強制労働を強いられた末、栄養失調、事故、そして虐待などで亡くなられた方々の遺骨なのです。この発掘作業に参加したのは、韓国、日本、在日朝鮮人、アイヌの若者でした。50年以上もの間、たった50センチの土の下に埋められ沈黙するしかなかった犠牲者の遺骨は、発掘作業にあたった若者たちに多くを語りかけるのでした。日本の若者は加害の事実を知り、韓国の若者は日本人の被害者のことも知り、在日朝鮮人の若者は彼らのルーツに対面することになったのです。日本政府の解決されていない戦争責任に対する姿勢が、朝鮮半島分断の長い苦しみに大きく影響しているのだと、まさに教科書の歴史では知ることが出来なかった事実を学ぶのでした。金さんは、和解への過程には、まず知ること、そして違いを確認し、認め合うことが欠かせないと話しました。
また、金さんが用意されたスライドで、発掘された遺骨や、お寺に保管されていた韓国人の位牌、発掘作業の状況などもくわしく知ることができました。この作業中は雨が多かったことから、それは犠牲者の涙の雨だろうと話されていたそうですが、私には、犠牲者の方々の「やっと見つけてくれてありがとう。」という嬉し涙が作業者の方たちに降り注いでいるように見えました。
そして2002年4月からは、高知県の「平和記念館・草の家」を拠点に金さんの平和活動が本格的に始まりました。この平和資料館の特徴の一つは、原爆や空襲などの日本が受けた被害だけでなく、南京大虐殺、旧日本軍性奴隷などの日本が与えた加害にも目を向けていること。二つ目は、戦前から日本帝国主義に抵抗して犠牲になった人々の展示。最後は、現在世界で起こっている紛争に対しても運動を展開し、絶えず平和のメッセージを送り続けていることです。また、1997年から10年間、東アジア共同ワークショップを開催し続けています。日本人、韓国人、在日朝鮮人の参加者と共に、日本と韓国を行き来し、強制連行犠牲者の遺族や体験者の話を聞いたり、旧日本軍性奴隷の犠牲者を尋ねています。また、在日朝鮮人の生活も調査、研究されています。
講演会の参加者から、「あまり加害にばかり焦点を当てると、逆に日本の若者を平和活動から遠ざけることになりはしないか?」という質問がでました。それに対して金さんは、罪を認めることは恥ではないく、加害の事実を知るということは、相手を理解するということにつながり、事実に目をそむけては解決につながらない、と話しました。「悪いことをしたら、素直に謝りなさい。」と、誰もが小さいころに一度は親に叱られたことがあると思います。人は完璧ではありません。失敗や過ちを犯すことはあります。でも大事なことは、失敗や過ちを犯した後に、それを認め、そこから何かを学ぶという姿勢なのだと思いました。これは、若者よりも、大人がなかなか出来なくなってきていることのように思えました。
さらに金さんは、韓国の米軍基地や、朝鮮半島分断の調査も行っています。今、日本では、明日にも北朝鮮が攻めてくるような報道がされていますが、実際に韓国内では、北朝鮮は攻撃する意志も軍事力も持っていないことは周知の事実なのです。正しい情報が交換され、交流が深まれば、東アジアに米軍基地は必要ではなくなると話されました。そして、朝鮮半島が統一されれば、九州から船で韓国へ渡り、そこから鉄道で北朝鮮を経てパリまで旅行できる時が来る、と話されるのを聞いて、飛行機嫌いで海外旅行をしたことがない父と一緒にパリまで行くことができる日が、そう遠くないうちに実現しそうな気がしてきました。
金さんはこの10年間で多くの方たちに出会い、交流を深め、市民の連帯を築いてこられました。私もバンクーバーに来てから、韓国人、中国人の友達ができ、お互いの歴史を語り合うこともありました。そこでいつも抱えていたジレンマは、個人間の絆は、政府間の平和に発展できないものだろうか?というものでした。金さんは、政府に与えられた歴史を知識とするのではなく、個人の話を直接聞きに行き、質問をしたりして交流することを続けることが、国家間のナショナリズムを乗り越えることにつながると話されました。そのとき私は、以前、人間関係で悩んでいたときの、ある人のアドバイスを思い出しました。「相手を変えることはできないが、自分が変われば、自分を取り巻く周りの人が変わる。」私たちは、直接的に政府を変えることはできないかもしれないが、私たち一人一人の歴史認識に対する姿勢を変え、相手を理解しようと行動し、そして加害に目をそむけない態度を示し続ければ、政府は変わらざるおえなくなるでしょう。そんな希望を金さんは私に与えてくれました。
講演を聞き終えたころ、外はすっかり暗くなっていました。でも、昼に見た桜の花が自ら光を放っているかのように、淡く、白くざわめいていました。そして、風に乗って、「自分が変わる・・・。」と桜たちにささやかれた気がしました。
菊野由美子
ピース・ジャーナリスト
講演会 「私たちがつくっていく東アジアの平和」に参加して
4月2日、日系センターに着くと、若々しい桜の花々にエスコートされるように、講演会場へと足を運びました。高知県にある平和資料館の事務局長をされ、東アジアの平和を育てるために数々の活動、研究、講演を精力的にこなされている韓国出身の金英丸(キム・ヨンファン)さんのお話は、平和活動に関わるときに、必ず抱えていた私の中のジレンマに希望の光を当ててくれました。
金さんは、1997年に北海道の朱鞠内というところで、遺骨の発掘作業を行うために始めて来日されました。その遺骨というのは、戦時中、強制連行され、ダムや鉄道建設のために強制労働を強いられた末、栄養失調、事故、そして虐待などで亡くなられた方々の遺骨なのです。この発掘作業に参加したのは、韓国、日本、在日朝鮮人、アイヌの若者でした。50年以上もの間、たった50センチの土の下に埋められ沈黙するしかなかった犠牲者の遺骨は、発掘作業にあたった若者たちに多くを語りかけるのでした。日本の若者は加害の事実を知り、韓国の若者は日本人の被害者のことも知り、在日朝鮮人の若者は彼らのルーツに対面することになったのです。日本政府の解決されていない戦争責任に対する姿勢が、朝鮮半島分断の長い苦しみに大きく影響しているのだと、まさに教科書の歴史では知ることが出来なかった事実を学ぶのでした。金さんは、和解への過程には、まず知ること、そして違いを確認し、認め合うことが欠かせないと話しました。
また、金さんが用意されたスライドで、発掘された遺骨や、お寺に保管されていた韓国人の位牌、発掘作業の状況などもくわしく知ることができました。この作業中は雨が多かったことから、それは犠牲者の涙の雨だろうと話されていたそうですが、私には、犠牲者の方々の「やっと見つけてくれてありがとう。」という嬉し涙が作業者の方たちに降り注いでいるように見えました。
そして2002年4月からは、高知県の「平和記念館・草の家」を拠点に金さんの平和活動が本格的に始まりました。この平和資料館の特徴の一つは、原爆や空襲などの日本が受けた被害だけでなく、南京大虐殺、旧日本軍性奴隷などの日本が与えた加害にも目を向けていること。二つ目は、戦前から日本帝国主義に抵抗して犠牲になった人々の展示。最後は、現在世界で起こっている紛争に対しても運動を展開し、絶えず平和のメッセージを送り続けていることです。また、1997年から10年間、東アジア共同ワークショップを開催し続けています。日本人、韓国人、在日朝鮮人の参加者と共に、日本と韓国を行き来し、強制連行犠牲者の遺族や体験者の話を聞いたり、旧日本軍性奴隷の犠牲者を尋ねています。また、在日朝鮮人の生活も調査、研究されています。
講演会の参加者から、「あまり加害にばかり焦点を当てると、逆に日本の若者を平和活動から遠ざけることになりはしないか?」という質問がでました。それに対して金さんは、罪を認めることは恥ではないく、加害の事実を知るということは、相手を理解するということにつながり、事実に目をそむけては解決につながらない、と話しました。「悪いことをしたら、素直に謝りなさい。」と、誰もが小さいころに一度は親に叱られたことがあると思います。人は完璧ではありません。失敗や過ちを犯すことはあります。でも大事なことは、失敗や過ちを犯した後に、それを認め、そこから何かを学ぶという姿勢なのだと思いました。これは、若者よりも、大人がなかなか出来なくなってきていることのように思えました。
さらに金さんは、韓国の米軍基地や、朝鮮半島分断の調査も行っています。今、日本では、明日にも北朝鮮が攻めてくるような報道がされていますが、実際に韓国内では、北朝鮮は攻撃する意志も軍事力も持っていないことは周知の事実なのです。正しい情報が交換され、交流が深まれば、東アジアに米軍基地は必要ではなくなると話されました。そして、朝鮮半島が統一されれば、九州から船で韓国へ渡り、そこから鉄道で北朝鮮を経てパリまで旅行できる時が来る、と話されるのを聞いて、飛行機嫌いで海外旅行をしたことがない父と一緒にパリまで行くことができる日が、そう遠くないうちに実現しそうな気がしてきました。
金さんはこの10年間で多くの方たちに出会い、交流を深め、市民の連帯を築いてこられました。私もバンクーバーに来てから、韓国人、中国人の友達ができ、お互いの歴史を語り合うこともありました。そこでいつも抱えていたジレンマは、個人間の絆は、政府間の平和に発展できないものだろうか?というものでした。金さんは、政府に与えられた歴史を知識とするのではなく、個人の話を直接聞きに行き、質問をしたりして交流することを続けることが、国家間のナショナリズムを乗り越えることにつながると話されました。そのとき私は、以前、人間関係で悩んでいたときの、ある人のアドバイスを思い出しました。「相手を変えることはできないが、自分が変われば、自分を取り巻く周りの人が変わる。」私たちは、直接的に政府を変えることはできないかもしれないが、私たち一人一人の歴史認識に対する姿勢を変え、相手を理解しようと行動し、そして加害に目をそむけない態度を示し続ければ、政府は変わらざるおえなくなるでしょう。そんな希望を金さんは私に与えてくれました。
講演を聞き終えたころ、外はすっかり暗くなっていました。でも、昼に見た桜の花が自ら光を放っているかのように、淡く、白くざわめいていました。そして、風に乗って、「自分が変わる・・・。」と桜たちにささやかれた気がしました。
菊野由美子
ピース・ジャーナリスト
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