元京都女子大学教授、物理学者の前田佐和子氏から、現在沖縄で大きな問題となっている八重山教科書採択問題についての論考を投稿いただきました。結論の一文「八重山は国境の島である。近隣の民との文化的、経済的な交流と相互理解を深めることしか、この地が平和であり続けることはできない。」に共感し、昨年12月に、ガバン・マコーマック、マーク・セルダン両氏と石垣島を訪れ、大浜長照前市長の自宅を訪れたときのことをを思い出しました。皮肉なことに、そのとき市役所で大浜前市長の住所を教えてくれたのが今回の「つくる会」系の教科書を採択する動きを主導している石垣の玉津教育長でした。大浜前市長は、台湾の蘇澳鎮との姉妹都市提携を含め、近隣諸国との交流を推進した人であり、先島諸島の自衛隊配備について強い懸念を示し、「国境の町に自衛隊は要らない」と強調していました。沖縄戦時、強制的に山岳部に避難させられ多数の人がマラリアで命を落とした八重山は、「軍隊は住民を守らない」ということを身を以て知っているのです。この前田氏の論考は、沖縄の新聞では毎日大きく扱われてきている教科書採択問題の経緯を、政治的歴史的背景も含めわかりやすくまとめたもので、特に日本本土の人たちに読んでもらいいたく思います。(乗松聡子)
2011年9月14日
前田佐和子(宇宙科学研究者、元京都女子大学教授)
(1)八重山の教科書問題
育鵬社の公民教科書。日本地図に沖縄 が示されてもいない。左下の会社のロゴ はフジサンケイグループであることを 明示する。 |
今年6月末、八重山に、突如として中学校社会科教科書(歴史、公民)の選定問題が浮上した。「新しい歴史教科書を作る会」(以後、「作る会」)系列の育鵬社から出版された公民教科書が、八重山地区の教科書採択協議会、さらに石垣市、与那国町の教育委員会で、中味についての検討も吟味もないままに選ばれるという事態となったのである。これを批判する竹富町教育委員会では、東京書籍の教科書を選定し、分裂状態に陥った。八重山の子どもたちに、‘台湾や中国が国境線を介して対峙する国々であり、日本人として、その領土を守ることを教える必要がある’と考える政治勢力が、きわめて政治的に引き起こした問題である。八重山だけでなく、沖縄県全体の住民に大きな衝撃をあたえた。
住民の現実味をおびる戦争への危機感が、いかに強いものであったか?沖縄の世論は、問題が浮上した7月から、育鵬社、自由社出版の歴史教科書が採択されるのではないかということを危惧し、各メディアは連日、大々的キャンペーンを張って世論に訴えた。いったん地区の採択協議会、さらに2つの教育委員会で育鵬社の公民教科書の採択が決まったあと、再度、八重山の教育委員全員の協議の場でその決定を覆し、9月8日、東京書籍から出版された公民教科書を採択した。しかし、石垣市、与那国町の教育長はこれに最後まで反対したため、全員合意の結論が出せず、採決という形を取らざるを得なかった。この採決の正当性を主張する県の教育委員会、これを不服とする石垣市、与那国町の教育長の言い分は対立し、文部科学省や自由民主党を巻き込んで複雑な様相を呈している。
「作る会」系の社会科教科書がどのようにして教育の場に持ち込まれたか、沖縄タイムス、琉球新報、八重山毎日新聞など、地元のメディア報道から、できるだけ具体的な経過を追う。
(2)八重山の軍備強化
昨年12月に策定された新防衛大綱や、中期防衛力整備計画(2011~2015年度)では、「動的防衛力」(1)という新しい概念のもとに、中国との‘領土問題’を口実にして、自衛隊の空白地帯である先島地域の軍備強化が謳いあげられた。台湾まで111kmしかない国境の島、与那国島に、沿岸監視隊を配備することが閣議決定され、離島への実戦部隊配備も検討されている。今では、軍艦が入港するたびに、抗議の旗が揺らめく光景が日常的になりつつある。7月に石垣島に海上自衛隊の掃海艇が入港した際、初めて「自衛隊歓迎」の横断幕があがり、八重山防衛協会や宗教系政治団体が歓迎した。今年8月の地元紙は、すでに、与那国島の南西部にあって牛馬が放牧されている町有地を防衛省が取得し、駐屯地を建設する方針であると報じている。あわせて、地対空誘導弾ミサイルを南西諸島に重点的に振り向ける考えであることも報じている。昨年の、いわゆる尖閣諸島での中国漁船の衝突事件が、この軍備強化に大きな口実を与えていることは明らかである。先島では、毎月100隻以上の中国漁船が付近の海域に現れるというが、その都度、海上保安庁が注意し、退去させて来た。ちなみに、衝突事件以後は毎月数件に激減したとのことである。当然のことながら、自衛隊配備に、住民は不安と疑問のなかに投げ出されている。忘れることのできない沖縄戦の記憶、近隣の民と共生してきた歴史的体験は、軍備を強化しようとする立場からは消し去りたい記憶であり、体験であろうことは、容易に想像されることである。
沖縄への軍備集中、なかでも普天間飛行場の辺野古移設問題は、地元名護市の強い拒否の立場と、昨年4月に9万人が参集した大会での「県内移設反対」の声で、表面的には膠着状態にあったかに見えたが、野田新政権発足と同時に、一挙に新しい様相を帯びてきている。ジュゴンのたわむれる美しい珊瑚の海を埋め立て、ここに巨大な軍用滑走路を建設するため、埋め立て権限を持つ知事を追い詰め、それでも駄目な場合は、権限を知事から取り上げる特別措置法を立法化するのではないかという恐れが、現実味を帯びてきている。先島地域の軍備強化は、辺野古の一大軍事拠点建設、そのすぐ北にある東村高江の新型軍用ヘリ・オスプレイ離発着場建設とともに、沖縄に軍備を集中させる、日米支配勢力が一体となった、軍備強化の重要な一部である。
(3)今年の教科書選定
1997年、「新しい歴史教科書を作る会」が結成され、2000年には扶桑社が出版した歴史・公民教科書が、文部省(現文部科学省)の検定に合格した。その後、「作る会」は2つに分裂したが、それぞれ育鵬社、自由社を作って教科書を出版している。今年、全国で「作る会」系の教科書を採択した地区は、2年前に比べて歴史が2倍、公民は10倍に増加し、それぞれ4~5%程度のシェアを占め、1学年5万人の子どもたちがこれらの教科書で学ぶことになった。自由社版は、歴史年表の盗用や記述の間違いなどが指摘され、今年度は、東京都の特別支援学校に採択された以外は、ほとんどが育鵬社版の採択である。
2006年に教育基本法が改訂され、2008年には10年ぶりに新しく学習指導要領が書き換えられたことにより、‘改訂教育基本法に合致する’という口実を得た「作る会」系の教科書が、いくつかの自治体の教育委員会の強い政治的主導により、導入されることになったのである。2009年、横浜市は全国で初めて自由社版歴史教科書を採択した。今年度、横浜市は全市1地区としたため、149校が育鵬社の歴史・公民の教科書を使うことになった。これに至る手続きの変更は、徐々に進められてきたが、自由社や扶桑社を採択した他の自治体でも、同様の手続きの変更をしている。今回の八重山地区は、協議会の会長が、一挙に、独断的に規約改正と手続き変更を強行したことで、その政治的意図があからさまなったと言える。
八重山地域の人口は、石垣、竹富、与那国がそれぞれ48742人、4042人、1609人と、自治体規模に大きな開きがある。それぞれに教育委員会があり、3つの教育委員会は八重山地区の採択協議会を構成し、石垣市の教育長が協議会の会長を務めている。社会科の教科書採択で、現場の教師たちの意見を排除し、非公開で事を進めようとする、従来とまったく異なる方式が、会長の一存で進められたことで、地域の教育関係者や保護者たちが、まさかという半信半疑のなかで問題に気づいたのは、選定規約の改変がなされて以降、7月に入ってからである。なぜなら、横浜市などで、「作る会」系教科書を採択する際に採られた方式だからである。「沖縄ノート」(大江健三郎著)の、強制集団死(集団自決)に際する元戦隊長の自決命令に関する訴訟で、4月に最高裁判決が下った。沖縄戦の歴史歪曲に敏感にならざるを得ない沖縄の世論がほっと一息つく暇もなく、裁判を理由に教科書から軍命令の記述を削除させた2007年の教科書検定意見を撤回させる、その闘いが始まったまさにそのとき、八重山では軍命令を否定する「作る会」系の教科書を採択する動きが浮上したのである。
8月23日、採択協議会が開かれ、密室のなかの激論が交わされたあと、歴史教科書は1票の差でかろうじて育鵬社をかわして帝国書院が選ばれたが、そのあとに続いた公民教科書は、たいした議論もなく、無記名投票に入り、育鵬社が5票を集めて採択されてしまった。歴史教科書については、「作る会」系を採択することは無理があると予測した協議会会長は、戦術を公民教科書に絞ったことが、あとの報道で明らかにされている。委員の一人が、会長から歴史教科書には帝国書院を選ぶことを前もって確認されたという。この委員は、公民教科書は育鵬社を選んだと証言している。連日の新聞・テレビ報道において、歴史教科書だけでなく、公民教科書も狙われているという意識がやや低かったように感じられる。沖縄教員組合八重山支部の代表が、県民全体を敵に回す歴史教科書ではなく、狙われているのは公民教科書ではないかという危惧が確信に変わったのは、採択協議会で採択される2日まえの8月21日であったと述懐している。
(4)協議会規約改正と制度の変更
具体的な経緯を記すまえに、これまでの教科書採択の進め方を見てみよう。各教育委員会は、教育委員長を代表とし、教育長は教育委員会の指揮監督の下に、すべての実務をつかさどる。3市町から成る八重山地区採択協議会は、教育長、教育委員担当主事、学校指導課長など教育現場を知るもの、PTA代表を加えて9人で構成されてきた。3教育長の1人が会長をつとめ、その3人が構成する役員会が運営にあたる。会長が15種目(9教科)の各種目に3人の枠で現場教員に調査員の委嘱をし、調査員は各教科の教科書を読み込んで順位を付けて推薦図書を決める。推薦された教科書のなかから、推薦上位のものを協議会で討議して、採択教科書を決定する。膨大な教科書内容を精査し、適切な教科書を決定するために運用されてきたルールである。
教科書採択には、2つの法律が関係している。地方教育行政法では、採択権は各教育委員会に帰属する。一方、教科書無償措置法では、複数自治体が1つの採択地区をつくる場合、同一教科書をえらばなければならない。3教育委員会が採択教科書を一本化できなかったことは、この2つの法律のどちらかに矛盾する結果となり、それを解消するためには、3教育委員会委員全員の協議の場で再決定するしか、道は残されていなかったのである。これについては、今年5月に文科省初等中等教育局が公表した「教科書制度の概要」のなかで、「同一の教科書を採択するための協議が整わない場合には、適切な指導・助言を行い、採択の適切な実施に努めること。」とされており、今回、県の教育委員会が法制上の問題をクリアーしながら、再決定にむけて助言したことが、この内容に相当する。そもそも、地区ごとに選定教科書を一本化する現行の制度は、1997年の「規制緩和推進計画の再改訂について(閣議決定)」の中に明記された、「将来的には学校単位の採択の実現に向けて検討していく必要があるとの観点に立ち、当面の措置として、 教科書採択の調査研究に、より多くの教員の意向が反映されるよう、現行の採択地区の小規模化や採択方法の工夫改善についての都道府県の取り組みを促す」の趣旨に沿っていないのである。この閣議決定は、2004年の閣議でも再度、確認されている。
八重山地区採択協議会の会長による突然の「改革」は、6月27日に明らかになった。その内容は、規約の全面改正、協議会委員の入れ替え、現場教員による教科書の順位付けの廃止など多岐にわたる。協議会委員には、教育現場を知る教育委員担当主事、学校指導課長を除外し、替わって、教育委員1名ずつ3人と学識経験者1人に変更された。なかには、教科指導の経験がない委員もいた。これに問題があるとして、県教育委員会は、校長や指導主事を追加するという提案を出したが、役員会で合意が得られなかった。さらに、協議会の決定は、各教育委員会に答申される事から、協議会に教育委員を入れたことは、答申する側とされる側のメンバーが重複することになり、制度それ自体が十分に機能しえないものになった。調査員の選定は、3教育長による役員会の議を経るという規約になっているが、これは守られず、会長の独断で決められた。一度は調査員の委嘱を内示された教員の1人が、理由が不明のまま、委嘱を取り消されたと証言している。一連の手続き変更を主導した協議会会長に対し、地元の八重山毎日新聞は、8月26日、「狡猾な策を弄しすぎた協議会長」というタイトル記事で批判している。
調査員の推薦図書は、これまで順位づけがなされて報告されてきた。基本的に2、3社まで絞り込まれて協議会に提案されるため、上位数社に入らないと選択される可能性はない。今回、順位付けをなくし、かつ、複数推薦を導入したことで、協議会での決定に対する調査員報告の有効性が失われた。事実、育鵬社版や自由社版は、報告書でいずれも推薦されていない。さらに、「特徴・特色のある教科書」という、あいまいな基準を追加して報告させているが、育鵬社版、自由社版ともに、この基準でも報告書には挙げられなかった。住民組織が竹富町に情報公開を請求したところ、育鵬社版公民教科書に対して出された疑問や問題点が、最多の14ヶ所で、ついで自由社版が7ヶ所、残り5社は0から5ヶ所だったことが明らかになった。社会科以外の教科は、調査員の推薦したもののなかから選ばれていることから、社会科については、非常に意図的な規約の改変であり、制度の変更であったことが分かる。ただし、家庭科でも調査員が推薦していない教科書が選ばれており、調査員による選定が、ここでも崩れているが、今日まで、大きな議論にはなっていない。協議会で決定する際、協議会を非公開とし、推薦の有無にかかわらず全ての出版社から無記名投票で教科書を採択する方式に変更された。教育現場の意見を反映させるという基本原則から大きく逸脱した、公平性も正当性も確保できない方法で、教科書が採択されたのである。さらに深刻な問題は、協議会で決定する際、育鵬社版と自由社版にしか目を通していない教育委員長とか、まったく中味を知らないままで投票したと証言した委員もいる。およそ、子どもの立場を尊重し、より多くの教員の意見を反映させるという基本から大きく逸脱している。このような方法でしか「つくる会」系の教科書を採択することができなかったともいえる。
(5)沖縄の世論
採択問題が浮上して以降、数度にわたって琉球新報社と沖縄タイムス社による世論調査が行われた。育鵬社の公民教科書が採択協議会で選ばれる前に、琉球新報社が県内41の市町村教育長を対象にした8月20日のアンケートでは、この時点で、沖縄戦、とりわけ強制集団死への軍の関与に焦点があてられていたので、回答のあった36市町村のほとんどがそれらを重視していると回答した。このとき、石垣市や与那国町の教育長は回答していない。23日の協議会で育鵬社版が採択され、石垣市と与那国町の教育委員会がそれを追認したことについて、沖縄タイムス社が31日に実施した八重山地区の住民電話調査によると、251人中採択に反対が56.2%、どちらとも言えないが23.9%、賛成は19.9%であった。竹富町が東京書籍版を選んだことにたいし、賛成は59.8%にのぼった。選定手続きについて、調査員の推薦した教科書以外のものを選んだことに対し、64.1%の人が反対し、賛成は17.9%であった。教科書の中味に対する以上に、手続きの異常さに多くの住民が危機感をいだいたことがうかがわれる。与那国町への自衛隊配備について、56.6%が反対している。
県民の大きな関心事となっていった9月初旬、琉球新報社は3日間にわたって八重山の20代から70代の住民458人を対象にした世論調査(回答は300人)を実施した。結果は3市町の教育委員全員による再協議の行われた8日直前の7日に発表された。「作る会」系の教科書採択については、34.3%が「絶対に採択してはならない」、27% が「採択してほしくない」と回答し、合わせて61.3%が「つくる会」系教科書の採択に反対する立場を示した。採択に賛成は22%にとどまった。石垣市でも「採択してほしくない」が60.2%、与那国町にいたっては86.7%が「採択してほしくない」と回答した。いかに住民の意識とかけ離れた採択がなされたかは、これを見ると明らかである。公民などの社会科教科書で大切にしてほしいことについて「平和教育」を挙げた人が51.7%、「基本的人権や平等」は21.7%であり、「領土問題や安全保障」は9.7%、「日本人の誇りや愛国心」が6.3%であった。「平和教育」を重視すると答えた人は高い年代になるほど多く、20代の9.1%が「日本人の誇りや愛国心」を挙げていることは、特記すべきことだろう。「平和教育」と回答した人の75.5%、「基本的人権や平等」と答えた人の60%が「つくる会」系教科書の採択に反対している。一方、「領土問題や安全保障」と答えた人の27・5%が「採択してもいい」、31%が「あまり採択してほしくない」と、その対応は分かれた。琉球新報社は、沖縄全県でも調査し、20代以上の一般男女895人中516人から回答を得た。「作る会」系の教科書採択に反対が57.7%、賛成は14.1%で、その差はより大きくなっている。いずれの調査結果でも、60%前後の人が「作る会」系の教科書採択に反対であり、とりわけ自衛隊配備が具体化しつつある与那国町では、ほとんどの住民が反対しているのである。
6月末に協議会会長によって規約改正と制度の変更がなされた直後、7月15日に「子どもと教科書を考える八重山地区住民の会」が結成され、以後、住民・県民の運動の中核を担うことになった。7月21日に緊急学習会、30日に抗議声明、8月9日に県内外の学識経験者101人のアピール(賛同436人、韓国からも100人以上の賛同)、15日には2007年の高校歴史教科書検定意見の撤回を求める「9・29県民大会決議を実現させる会」の緊急アピール、八重山地区小・中学校長会の要望と、矢継ぎ早に住民・県民の意見表明がだされた。事態を重く見た県教育委員会が、進め方に対し、異例の指導・助言を行ったが、協議会会長はそれを拒否した。沖縄教員組合や、PTA組織も動き出し、新聞は連日、紙面を大きく割いて報道するようになっていった。8月17日には石垣市で開催された「住民の会」が主催する市民集会に350人が参加、反対署名は603人にのぼった。18日は県退職者教員会会見、在沖縄八重山出身者有志反対署名と要請行動、19日は県内外教授らの緊急声明、20日には八重山青年会議所の要望、採択の前日にはおきなわ教育支援ネットワーク、沖縄女性9条の会が声明を出した。騒然としたなかで、23日の協議会での育鵬社版公民教科書が採択され、沖縄の反対世論は、さらに大きくなっていった。9月2日の石垣市市民集会に450人、4日の那覇での緊急集会に460人が参加し、この大きな世論の盛り上がりのなかで、8日、八重山地区教育委員会総会(委員13人)が開かれ、5時間30分の膠着した状態の末、多数決によって育鵬社版が否決され、東京書籍版が決定されたのである。
いったん、採択協議会で議決され、2つの教育委員会ではそのまま承認されたものを、再度、協議の場に引き戻し、結論を変えるということは、驚くべきことではないだろうか?31日の八重山毎日新聞は、「県内外の多くの教育団体らが不採択を訴えた教科書が、よりによって66年前の戦争で20万人余の犠牲者を出した沖縄で初めて選ばれたからだ。それは日本の安全と防衛や世界平和への貢献について、軍事力に頼らない平和への努力や憲法9条の果たしてきた役割はほとんど記述がなく、自衛隊の役割を大きく評価し強調する教科書だったからだ。」と社説に掲げた。平和は自らの力で築かなければ得られないことを、全国に知らしめたと思う。
(6)教科書比較
沖縄タイムスは8月14日、歴史教科書の「強制集団死(集団自決)」についての7社の記述を読み比べ、対照表にして掲載している。とくに「日本軍の関与」に焦点を絞っていることから、この問題が、沖縄にとってどれほど避けることのできない、最重要の課題であるかが分かる。公民も検討の対象となり、8月19日から5回にわたって、各社の教科書を比較する記事を連載した。取り上げられた項目は、憲法、男女の平等、アジアの占領、在日米軍、原子力発電である。
育鵬社版公民教科書は、憲法規定について総理大臣は天皇が任命権をもっているとし、任命書を手渡す天皇の写真を掲載している。皇居を訪問したアメリカのオバマ大統領が、90度腰を折って天皇に挨拶する写真まで載せ、天皇の権威付けに利用している。国民主権の単元では、天皇についての記述が国民主権の説明の倍もあり、さしずめ「天皇主権」とでも呼べる内容になっている。明治憲法に高い評価を与え、現行憲法はGHQによる押し付けだとして、GHQの英語草案の写真を載せている。9条の果たして来た役割は一切ふれていない。教育の根本を明治憲法に則った教育勅語に求めているといえる。採択された東京書籍版が憲法について、民間の研究者らの草案が参考にされたことを書いているのとは対照的である。育鵬社版には基本的人権にもとづく平等権も記載されず、家庭での役割分担については社会を安定させるものと評価する。行き過ぎた平等は社会を不安定にさせると警告して、雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法の根本に抵触する記述をしている。東京書籍版は、日本軍のアジアの占領について、写真でシンガポールの住民虐殺の事件碑を掲載し、「日本の支配はイギリスよりずっとひどかった」とするマレーシアの教科書も紹介している。歴史教科書として採択された帝国書院版が、唯一、八重山で多くの被害を生んだ戦争マラリア(2)に関する記述をしている。
沖縄の米軍基地に関する記述は、育鵬社、自由社とも最小限にとどめており、欄外に短く書かれている。いずれも、日米安保条約や、在日米軍の配置図、防衛白書との関連で取り上げられているのみである。育鵬社版では、圧倒的な人物群像、時代ごとの絵巻物、漫画イラストを多用して、読みやすくする一方、沖縄の米軍基地に関しては、写真もない。教科書採択問題に関する住民集会で、元宜野湾市長の伊波洋一氏が「全国の子供たちが沖縄の米軍基地を学ぶのに、八重山の子供たちは、何も学べないのか」と搾り出すように語ったことが、すべてを物語っているのではないだろうか。東京書籍でも本文には記述がないが、欄外に「沖縄と基地」というコーナーを設けている。普天間飛行場‘移設’問題と移設計画の遅れは述べられていて、住宅地に隣接する普天間飛行場と県内米軍基地の地図を掲載している。しかし、ここでも、移設について、最大の焦点になっている県外か県内かについては書かれていない。戦闘機による騒音や米兵の犯罪に言及したのは、帝国書院版のみである。また、教育出版は「沖縄のこれからを、国民全員で考えていくことが大切」と、重要な視点を提示した。原子力発電については、育鵬社は推進の立場を明確にし、発電時に二酸化炭素を排出しない、使用済み燃料の再利用など、現在の原子力政策を追認する内容となっている。安全性や廃棄物処理に配慮しながら、増大するエネルギー需要をまかなうものと期待している。この点は、教育出版を除くと、他5社も同様である。東京書籍版は、事故の危険性や、放射性廃棄物の処理の困難さに言及している。しかし、エネルギー政策を根底から見直す必要については、教科書検定に通らないことを危惧してか、どの教科書にも書かれていない。
育鵬社版公民教科書の表紙に使われている日本列島の写真では、北方4島は入っているが、沖縄本島の上に他の写真がかぶり、沖縄県の姿はない。その沖縄の八重山で、このような教科書を、強引な手法で選ぼうとする採択協議会や石垣市、与那国町の教育委員会、また、それを主導した政治勢力に対し、当初、歴史教科書のみに注意を集中させていた教育関係者や保護者、さらに沖縄世論は、急速に危険性を理解し、ぎりぎりのところで、踏みとどまったといえる。
下記の表は、沖縄タイムスに掲載された対照表を要約したものである。育鵬社と自由社、東京書籍の教科書比較を紹介する。ただし、「憲法」、「男女の平等」については、東京書籍版は表には取り上げられていないので、帝国書院版を比較の対象とする。詳細は元の紙面で確認していただきたい。
(表の上をクリックすると大きく見られます)
(7)沖縄・八重山の未来
1962年まで、教科書は学校ごとに教師の話し合いのもとに決定されていた。学校の実状に合わせた選択、教師の強い関心、地域の実情を反映した方法が採られていたのである。広域で採択図書を一本化する現行の制度は、教師の選択権を保障するものではなく、法律的にも矛盾を抱えている。今回明らかになったように、政治の介入を容易に許してしまうものでもある。育鵬社版の公民教科書にこだわる石垣市、与那国町の教育長は、8日の採決を不服として、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」に問題を持ち込んだ。「自虐史観」攻撃や、朝鮮人学校教科書無償化に反対する政治団体である。13日、文科省担当官が自民党の文部科学部会と「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の合同会議に出席し、8日の最終決定を無効とする見解を伝え、文部大臣は閣議にも報告した。これまで、8日の全体の会議にむけた県教育委員会の指導を適正だと認めてきた文科省の政治責任は棚にあげて、沖縄の意思をこれほど簡単に踏みにじったのである。地元紙は、「県の大城浩教育長は『これまで文科省の指導、助言を受け進めてきた。驚いている』と困惑を隠せない」と報じている。早速、石垣市の自民党組織は、協議会会長を擁護し、育鵬社版公民教科書採択に戻そうとしている。ますます政治がからんで、複雑な様相を呈してきた。
たびたびの世論調査やメディア報道、教員組織やPTAなどの活動をとおして、沖縄の人々の多くが、問題の本質に気づいたのではないだろうか?紆余曲折はあるかも知れないけれど、基地のない沖縄を実現するためには、平和をもとめる子供たちを育てていくしかない。八重山は国境の島である。近隣の民との文化的、経済的な交流と相互理解を深めることしか、この地が平和であり続けることはできない。八重山の教科書問題は、偏狭な愛国心に訴えて領土問題を叫ぶことの愚かしさと危険性を、もっとも鋭く浮かび上がらせている。
前田佐和子
宇宙科学研究者、元京都女子大学教授。
著作 Transformation of Japanese Space Policy: From the “Peaceful Use of Space” to “the Basic Law on Space” Asia-Pacific Journal: Japan Focus http://www.japanfocus.org/-Maeda-Sawako/3243
補註
(1)動的抑止力
従来の装備や部隊の量・規模に着目した「静的抑止」に対し、平素から警戒監視や領空侵犯対処を含む適時・適切な運用を行い、高い部隊運用能力を明示すること。離島・島嶼部への自衛隊部隊の配備が一つの柱となる。
(2)戦争マラリア
沖縄での地上戦が始まり、住民たちがマラリア発生地であった八重山に強制疎開させられ、感染した。2万人以上の罹患者と4000人近く(10000人とする説もある)の犠牲者を出した。疎開先では茅葺きの共同小屋で、不衛生な環境に加えて、医療物資の欠乏、栄養状況の悪化からマラリアが発生し、広がっていった。戦争終結後も、避難解除の命令がだされなかったため、さらに被害が続いた。帰島者から、県内の他地域にも広がり、アメリカ軍収容所でも子供や老人が亡くなった。台湾への疎開者のなかにもマラリアの犠牲者がでた。琉球王国時代から、このような地域に強制移住が行われるたびにみんなが亡くなってしまうということが繰り返されてきたが、現在、この地域のマラリアは一掃されている。
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