チェルノブイリ事故から25周年、ニューヨークタイムズに掲載された「核のゴーストタウン」化した町についての記事を田中泉さんが訳してくれました。チェルノブイリより更に悲惨なのは、東電福島第一減原発事故により、震災や津波で犠牲になった方々の遺体がまた多数残されているということです。こんなに酷い状況を生みだした事故から7週間。チェルノブイリ事故も25年経っても、人的、環境被害、原子炉の状況からもとても「収束した」と過去形では言えない状況にあります。福島のこれからの長い道のりを考えると・・・言葉がありません。
福島民報より。原発10キロ圏内、浪江町で遺体捜索の報告をする警察官 |
ゴーストタウン 果てのない原子力災害の目撃者
アリソン・スメイル
25年前、世界最悪の原発事故が当時のソ連領、現ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所において文字通り爆発的に起きた。
しかし、無配慮すぎる炉心のテストがチェルノブイリ原発4号機を粉みじんにしたその時、事実はまったく外に出なかったのである。携帯電話やソーシャルネットワークが次から次へとニュースを伝達するといった、今日のような状況は存在していなかったのだ。
国営の報道機構であるタス通信がきわめて簡潔な表現で事故の発生を伝えたときには、すでに3日が経過していた。
つまり、ソ連の国家機構でもお手上げになるほどチェルノブイリのもたらした影響は甚大だったのだ。当時、国の情報公開をすすめようとしていた国家指導者ミハイル・ゴルバチョフは、悲惨な真実をソ連のメディアに開示させるにあたり、最終的にはこの事故の巨大な力を借りた。
記録的な地震と津波にみまわれた日本の福島第一原発でこの6週間続いている惨事は、チェルノブイリをほうふつとさせる。特に、めまぐるしく変転する情報の流れ、急上昇もしくは急降下する放射能の値、日本の原発事業者と政府の情報公開の姿勢についての疑念。これらによって1986年当時の、あの目に見えない放射能の煙(最終的には東風に乗って世界中に飛散した)が投げかけてきた同じ疑問が沸き起こる。
ゴーストタウンとなったプリピャチ(かつては5万人が住んでいた町。現在もまだチェルノブイリ原発周辺の立入禁止区域内)。必死なのか向こう見ずなのか、見捨てられた家々に忍び込んで略奪をする地元住民。放射能の影響で先天性の病をもつ孫の世話をする男性。これらのイメージが我々に突きつけるのは「人間の技術は、すばらしいことも、恐ろしいことも、両方作り出せてしまうのだ」ということだ。今回の日本の事故で、この教訓を改めて学ぶこととなった。
日本は、かつてのソ連よりも、そして現在のウクライナよりも豊かでまとまった国である。だが広島と長崎の原爆投下の傷を負った日本人ならわかっているように、金と慰めでは、核の悲劇がもたらす長期的な影響を払いのけられないのだ。
チェルノブイリの放射能が1200キロ(750マイル)先のスウェーデンのフォルスマーク原発の警報を鳴らしてようやく、ソ連政府は事故を認めたのだった。先週キエフで開かれた国際会議の席でそうだったように、こんにちのウクライナ当局は終わりなきチェルノブイリ原発封印作業の次段階の実行資金数百万ドルを、各国に強く嘆願している。1986年に何万人もの労働者たちの手で作られた石棺には今やひびが入っているため、それを覆うあらたな石棺が必要なのである。
その外側では、朽ち果てた幼稚園の寝台に置き去りになった人形たちが、ゆがんだ顔をして告げている。そこには生があったのだと-かつては。
(翻訳 田中泉)
ニューヨークタイムズ(4月25日)
New York Times, April 25, 2011
Ghost Town Bears Witness to Lasting Nuclear Scourge
Alison Smale
Twenty-five years ago, the world’s worst nuclear accident literally erupted at the Chernobyl nuclear plant in Ukraine, then part of the Soviet Union.
Yet when a heedless experiment with fuel rods caused the No. 4 reactor at Chernobyl to blow, there was no public echo. No cellphones or social networks relayed the news, as they would today.
It took the official news agency TASS three days to acknowledge, in terse sentences, that there had been an accident.
In the end, the impact of Chernobyl proved too great even for the Soviet state apparatus. Mikhail S. Gorbachev, then the leader, was trying to open up his country and eventually used the enormity of the accident to get the Soviet media to tell a bit more of the dreadful truth.
For six weeks now, the unfolding calamity at the Fukushima Daiichi plant in Japan, stricken in a record earthquake and tsunami, has stirred memories of Chernobyl. In particular, the stream of changing information, soaring or plunging radiation levels and doubts about the openness of the Japanese operator and government recall the questions posed in 1986 by that unseen plume of radiation that eventually traveled westward around the world.
Images of the ghost town of Pripyat, once home to 50,000 people, reinforce the lesson learned anew in Japan: Humans can fashion both wonder and horror with technology.
Japan is wealthier and more cohesive than the Soviet Union was then, or Ukraine is now. But, as Japanese scarred by the atomic attacks on Hiroshima and Nagasaki know, money and comfort do not dispel the lingering effects of nuclear disaster.
Only after the radiation spewing from Chernobyl set off alarms at the Forsmark nuclear plant in Sweden, 1,200 kilometers, or about 750 miles, to the northwest, did Soviet officials even acknowledge an accident. Today, the Ukrainian authorities are vocal in pleading, at an international meeting in Kiev last week, for hundreds of millions of dollars for the next stage of the unceasing containment of Chernobyl: a new sarcophagus to reinforce the now cracked one built by tens of thousands of workers in 1986.
Outside, twisted dolls on broken kindergarten cots remind us there was life here — once.
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